分別功徳品 (13) 最終章 
  世尊
 「この分別功徳品の最後に 六波羅密を完全に行じる人の功徳である正行六度しょうぎょうろくど を説きましょう。
  修行を重ねた衆生が
 この教えを受持読誦他人に説き自分も書写他人にも書写を勧め
  塔や僧房をつくって
 教えを求める人の役にたち加えて菩薩の功徳をさまざまに褒めたたえて、
  又
他人のために過去の事例を研究して法華経の深い意味を解説げせつ 説き教えしたとします。
  とくに
財施ざいせ 法施ほうせ 身施しんせ 三つの布施の行ー を完全に行ったとします。
  さらには
常に自分の身も心も清らかに保ち仏の戒めを守る持戒波羅密を固く持っていて、
  柔和な心もちの人々と共に結びあい
どんなことがあっても怒ることのない忍辱波羅密を行じ、
  志しが堅固であって
常に心静かに仏法を念じて深い精神統一の禅定波羅密の境地に達し、
  勇猛な心で
多くの善き法を学びとる精進波羅密 行いつづけていたとします。
  さらに
その衆生の頭脳がさわやかで心が澄みきっていて仏の智慧を求めて深く学び、
  教えを吸収して
他の人からのどんな難問にも挫けずそれを正しく答えられるところまで達したならば、
  その衆生は
完全に六波羅密ろくはらみつ の行をマスターしたのです。       三つの布施」:「六波羅密」:
 このような境地を会得した衆生は私が若き日に得た悟りの境地と同じ状態に達した衆生です。
  私が若き日
悟りを開くために仏佗伽耶ぶつだがや 菩提樹ぼだいじゅ の下に静かに坐すわ 
  深い
瞑想めいそう にはいった時のその私と同じレベルまで成長したということです。
  これは
たいへん素晴らしく最高に喜ばしいことです。
  この衆生は
まもなく阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい の境地に達することでしょう。
  このように 正行六度しょうぎょうろくど とは 六波羅密ろくはらみつ の修行を 完全に行じることをいいます。
  阿逸多あいった 弥勒菩薩
  この境地に達した衆生が
最高の悟りを得るのはそう遠くはありません。
  もう
 まもなくですのでこの衆生が行う修行の場所には 塔を立てて褒め称えなさい。
  この境地に達した衆生は
 常に 立っていても坐っていても歩いていても 修行を行なっているのです。
  その衆生が
 天上界の者であっても 人間界の者であっても また 十方世界のどこの者であっても
  仏塔と同じように褒め称え
それらの衆生を心の底から供養してあげなさい。
 私は前に世尊のために 仏塔を建てて供養する必要は無いと言いました。
  しかし
 正行六度を行じる人あらば塔を立てて供養しなさい と私は言うのです。
  前には供養しなくてよい
と言い 今度は供養せよと言うと まだ 迷いが多いボサツマンのことだから、
  きっと悩むことでしょう。 ですから
もう一度明確に私は言うのです。
  
仏の教えを行い説き広める行は 末世においてたいへんに重大で尊いことだから、
  これを行う衆生たちのために
 仏塔を立てて供養しなさいと。 阿逸多よ 解かりましたね」。
 
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  陽明学者の中江藤樹は 迷いについて喝破
かっぱ しています。          「中江藤樹の言葉
  
人間千々ちぢ よろずの迷いは皆 私心より起これり 私心は わが身をわが物と思うより 起これり
    孝
こう  その私心を破り捨てる 主人公なり」 
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世尊
 「経文の偈
げ 言葉を説明しましょう。
  表刹
ひょうせつ とは 塔の上に立っている尖柱せんちゅう のこと。
  須曼
しゅまん  瞻蔔せんぼく  阿提目伽あだいもくか とは それぞれ良い香りの草木のこと。
  謙下
けんげ とは下がる心をもつこと。  隋順ずいじゅん してとは 相手の心をよく理解すること。
  仏の想の如く
‥‥とは 仏さまを思うのと同じ心をもって恭敬くぎょう すること。
  その所
しょ  住止じゅうし の処しょ とはそのような人の止まり住む場所のこと。
 では ここで 皆さんに 有名な仏教語を述べましょう。
 
仏子ぶっし 此の地に住すれば 即ち仏 受用じゅよう したもう。 常にその中に在して 経行きょうぎょう  坐臥ざが したまわん
  法悦ほうえつ に明けて法悦に暮れる ほとけ と共に起き 仏と共に寝るという意味です。
  仏は
仏の教えを心から信解しんげ するものを 本当の子として考えています。
  その仏の子の住む所は
 仏が自分の住所として用いてくださいます。
  そして
 仏は常にその住所の住まい(家)におられて 経行きょうぎょう したり坐臥ざが なさっています。
  つまり
 衆生が真の信仰に徹するとき仏は自らその衆生の住まいにお入りになられるのです」。
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