随喜功徳品第18 ずいきくどくぼん (1) 「2」・「3」・「4」・「5」
世尊
「では 初随喜しょずいき の功徳を説きましょう。 「初随喜とは」
仏の信心とは、衆生の心に 随喜の念 ずいきのねん が生じることから始まるのです。
衆生が いくら 多くの経典を読み勉強しても 、教理きょうり を深く学んでも、それは学問の仏教なのです。
衆生の心に ありがたいと思う感動が起きることで 仏の教えを真に信じるのです。
その意味で 信仰の方程式 について述べます。
信仰の世界には 信仰=信仰する対象×信仰 という方程式があります。
信仰の対象が 100(完全)であっても、信仰の心(随喜の念・感動)が 0なら 100×0=0の信仰になります。
信仰の対象が 100(完全)ならば 1の信仰の心であっても その信仰は1×100=100となる。
さらに 信仰の心が百であるならば 壱萬の信仰となります。
又・逆に 信仰心が100(百)であっても その信仰の対象が0(ゼロ)ならば、つまり 対象が不完全な場合は
0×100=0となってしまいます。その信仰は無価値なものなのです。所詮 良い結果にはなりません。
さらに、信仰の対象が、マイナス1のときは マイナス1×100=マイナス100となってしまうのです。
最悪のケースとは 信仰の対象が、マイナス100の場合です。
この場合、衆生の信仰心が100(百)であっても マイナス100×100=マイナス1万となります。
こうなると 不幸なことや悪害が その衆生に現われてくるのです。
無量無限の法華経の教えは完全ですので、衆生の信仰心が、たとえ1であっても・50でも・100でも
無量無限×信仰心(1・50・100)=無量無限となります。つまり、法華経の信仰は無限なのです。
このような意味で、衆生の信心がプラスであれば、法華経の信仰は無限大のものとなります」。
人生は掛け算だ どんなチャンスが来ても 自分が0・ゼロ・なら無駄だ…… 「ラ・フォンテーヌ」
弥勒菩薩 世尊に尋ねる
「世尊 法華経の教えを聞いてーありがたいという随喜の念ーを起こした善男子・善女人には
どれほどの功徳が 与わるものなのでしょうか? 教えてください」
世尊
「阿逸多あいった (弥勒菩薩の呼称)よ 教えましょう。
私(如来にょらい )の滅後めつご において 衆生の年齢は お年寄り・若い人・幼い子・全くかまわないのですが
比丘・比丘尼・在家の信者たちの誰でも、法華経の教えを聞いてありがたいという魂の喜びが心に生じ
その感じを抱いたまま その彼らが その説法の場から 他の所へ移動していったとします。
場所は、僧房そうぼう でも、浮世離れた空閑くうげん (静寂な場所)の地でも あるいは
賑にぎ やかな都みやこ や 田舎や山里の村など、又、自分の家でも、どこでもよいのです。
その場所で、父母・親戚・友人・知人・などに 自分が聞いた法華経の仏の教えを、
自分が聞いた通りのまま 自分のできるかぎりで 話し伝えたとします。
そして、その教えの話を聞いた人たちも 同様にありがたい随喜の心を覚えたまま 各地に出かけて行き
まだ、法華経の話を聞いたことの無い人々たち相手に、自分が聞いたままを 話して伝えたとします。
これを聞いた人々も又 随喜の心をおこして、あちこちの土地で、いろんな人に話し伝えたとします。
こうして、法華経の教えが人々の口から口へと伝わり それが50回(50人)も展開されていったとします。
阿逸多あいった よ いいですか、良く聞くのですよ。
その50回目に聞いた善男子・善女人にも、同様の随喜の感激が生まれたとします。
このように 49人の言葉で伝わってきた法華経の教えなのだが 少しも薄まることはありません。
50回目に聞いた人の随喜の功徳でさえも、まことに大きい功徳なのです。
今それを説いて聞かせますので、よく聞くのですよ。
その前に、経文にある功徳の話に関連した 大事な要点を説明します。
@ 其の所聞しょもん の如く‥‥とは 教えを聞いた通りに他に伝える、という意味の言葉です。
人には、聞きまちがいもあるし・記憶力にも差があるし・自分の主観が加わることも よくあるのです。
だから 教えを伝えるときはー金太郎飴のように伝えるーことが大事なのです。
金太郎飴は、どこを切っても、同じ金太郎が出てきます。
このように、自分が聞いた言葉のまま 教えを伝えることが大事なことなのです。
A 力に随したが って‥‥とは 二つの意味をもっています。
話す人の力に応じてと、人の力の限りを尽くしての二つです。
話しが上手いとか・ヘタとかは関係ありません。心をこめて、自分の限りを尽くすことが大切です。
B 50回も人に伝えられ展開され‥‥とは
人から人へ伝わる話というものは 金太郎飴の原則を守って伝えていても 人から人へ伝わるうちに
数多くの人々へ伝わっていくうちに 話す人の温度が下がっていきやすいものです。
これは、人の心の作用で よくあることです。
話を伝える人も、最初の頃は 溢あふ れんばかりの新鮮感を滲にじ ませ、輝いていたのですが、
やがて 感動の心が薄れてくるにつれ 金太郎飴の原則を忘れ 話が自己流じこりゅう になりがちです。
例えば、相手を説得することが目的になっって 自慢気な天狗鼻の話しっぷりに なりやすいものです。
応々にして、人から人への話とは、このように陥おちい りがちです。
自分で 充分に気をつけなければなりません。
教えが人から人へと、伝えられていくなかで、あとから法を伝える人は、マタ聞きの人たちです。
あるいは、今さっき初めて聞いたばかりの人から、聞く人もいるでしょう。
そのような人たちは、法の広い知識はこれからで、深い信仰心などは、まだ出来上がっていません。
この人たちが伝える話は 口耳の学問こうじのがくもん です。 最近知った・今聞いたばかりのものです。
ですから、@ 其の所聞しょもん の如く‥‥伝えたとしても、受け取る人の感銘度かんめいど は、
二人目から三人目、四人目と……あとになればなるほど、薄れていくことは やむをえないことです。
「口耳の学の戒め」・中江藤樹・
こうして、50人目にもなると、ほとんどの人がーあ・そう‥だからどうしたのーと、軽く片付けてしまいます。
しかし、ここは、法華経の教えと・他の教えとの、絶対的に違うところです。
法華経の教えは、其の所聞の如く…… 人から人へ伝わるときには
聞く人が たとえ50人目でも、あるいは、もっと後の人でも、必ずその人に感銘の心が生じます。
法華経の教えは、無限大の教えだから、聞く人の感動が薄れることは ありません。
阿逸多あいった よ、このことを良く覚えておくように。 さあ その功徳の話をしましょう」。
(2)へつづく