法師功徳品 (5)
世尊 つづける
「私の滅後に仏の教えを説くのは、在家の皆さん方なのです。
在家の人々は、その人の持ち場持ち場によって、俗間の経書ぞっけんのきょうしょ を説くことも多いでしょう。
また、治世の語言じせのごごん を述べる場にも 参加するでしょう。
まして、必要にかられて、資生の業ししょうのごう について語ることは、ほとんど毎日のことでしょう。
未来世にては、言論の場に集まる衆生は主に、現実の生活を基盤とした 利害関係者たちです。
利害関係が大きく影響しますので、時において、自分本位の欲望の我が を強く出す人が多くなります。
その人たちのものの考え方は、いとも簡単な近視眼的で 自分本位な勝手な振る舞いになりやすく
”自分と他人共に生かす”という大きな見方を、スッパリと放り投げてしまいがちな人々なのです。
ところが、
真の信仰の境地に達した人は、仏の”すべてを生かす”見方に近い考えが根本に有るので、
その人の説く言葉の中身は、仏の教えの言葉と自然に一致するようになってくるのです。
もう少し詳しく説明しましょう、
三千大千世界の六趣の衆生 心の行ずる所 心の動作する所 心の戯論けろん する所 皆 悉く 之を知らん。
未だ 無漏の智慧むろのちえ を得ずと雖いえど も 而しか も その意根の清浄なること 此かく の如ごと くならん。
是の人の思惟しゆい し 籌量ちゅうりょう し 言説ごんぜつ する所あらんは 皆 是れ 仏法にして真実ならざることなく
亦 是れ 先仏せんぶつ の経きょう の中の 所説なり。
意味: 「六趣/四生」:「無漏の心」
この三千大千世界の ありとあらゆる境遇の衆生が、心の中でどんなことを思っているか、
心がどんなはたらきをしているか、心のなかでどんな戯論けろん (下劣なこと)を考えているか、などなど、
そのようなことを 悉く知ることができるのです。
まだ、無漏の智慧むろのちえ・を得てない衆生でも、なぜ それができるのかというと、
五種法師の行を行った結果、心の奥底から清浄になったからなのです。
その衆生は 心の奥底から清浄になったから このような神通力じんつうりき を得ることができたのです。
そしてその人が、思惟しゆい (こうであるという考え)し 籌量ちゅうりょう (こうしなければならないいう考え)と思い
そして その思惟と籌量ちゅうりょう を言説ごんせつ (言葉で説く)するすべてが、仏法の道に一致しているのです。
その衆生の思惟・籌量・言説が 仏法の道に一致しているということは、そのすべてが真実ということです。
つまり、私(世尊)が生まれる以前の 無始の過去に 諸仏しょぶつ が説いたことと 一致しているのです」。
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