世尊   普賢菩薩の熱き言葉を聞き喜び
 「
善哉善哉! 普賢ふげん よく言ってくれました。
  あなたは
必ず法華経の教えの広宣流布こうせんるふ 尽力じんりょく なさるでしょう。
  そして
濁悪じょあく な末世まつせ にても多くの衆生の幸福を推進するでありましょう。
  普賢
ふげん あなたは今までも非常に大きな慈悲の行い してきました。
  
仏の境界きょうがい を得ようと大きな願いを抱き無始むし の遠い昔から修行を積んでおりました。
  又
仏の教えを守る自在な力を得たいという願を起こしそれを成就じょうじゅ させました。
 ですから世尊普賢菩薩と同じ信念を受持する衆生をあらゆる面で守護してあげましょう。
  普賢よ
末世にてこの法華経の教えを受持し読誦し正憶念しょうおくねん 行し書写する衆生あらば
  その衆生は
常に釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ の許にいて直接説法を聞く実感を自覚するでしょう。
  その衆生は
常に仏に抱かれている法悦ほうえつ を覚え安心の極致に至れることを確信するでしょう。
  つまり
その衆生は釈迦牟尼仏から真の信頼を受けた人であり褒められ守られる人なのであります。
  こういう衆生には
障害や魔事は起きず衆生の信仰心と教えの実行力は損なうことはありません。
 その衆生は世の中の物質的な楽しみや肉体的な快楽には貪箸とんじゃく しないでありましょう。
  この貪箸しないということは
物質的な楽しみや肉体的な快楽の否定ではありません。
  幸福な楽しい生活を送ることが悪いのではなく
それにじゃく 心が執着
  どこまでも満足できず
欲に欲を重ねてむさぼる ことが良くありませんという意味なのです。
  その衆生は仏の教え以外の低い教えに はまり込むことはありません。
  仏の教え以外の教えを研究することは
たいへんに良いことですむしろ視野が広がり、
  真理の教えとそれ以外との見分け方を
しっかりと理解するためには有効なことなのです。
  しかし
感情的に走り過ぎてしまいはまり込んではいけません。 真理を見失うことになるからです。
  その衆生は興味本位の快楽文学や堕落だらく した遊びに心を奪われることは決してありません。
  そういう低俗なものに心奪われて、真理を見る目を雲らせては ならないのです」。
                  世尊 オイラはそういう本 好きな方ですが でも これからは自重します‥‥‥ボサツマン
 世尊 
 「ボサツマン君
仏道の修行をつづけることそういう邪悪で低俗な気はどんどん薄らいでいきます。
  君も
EQ合掌で法華経のページを書いてきたので怠惰の心は少しずつ薄まっているはずです」。
           ハイ 怠惰の心も頭の毛も少しつづ薄めに‥‥つづけて修行します すいません‥‥‥ボサツマン
  又
その衆生は殺生せっしょう を業なりわい とする人や女色に関係ある職業の人と親しい関係になったり、
  仲良くなって雰囲気に染まってしまう気持ちが
起きることはありません。
  しかし
仏の教えを世に広める人はこのような職業の人を村八分にしてはいけません。
  人を排斥することは
一切衆生を平等に救うという仏の真意しんい に背く行為なのです。
 又その衆生は心意質直しんいしつじき つまり 自分の心にペンキを塗らず飾り気がなく真っすぐに
  正しい考えを思う正憶念
しょうおくねん があり徳をもって大ぜいの人を 幸せにする力を具わるでしょう。
  その衆生は三毒さんどく に悩まされず、                     「三毒/六煩悩
  嫉妬
しっと  我慢がまん  邪慢じゃまん  増上慢ぞうじょうまん  などの六煩悩ろくぼんのう にも心は毒されません。
  その衆生は少欲知足しょうよくちそく にしてよく普賢の行を修します。
  
少欲とは金銭欲物質欲出世欲名誉欲や人の愛情や奉仕を求める欲などが少ないという意味です。
  仏の教えを深く学んだ人は
こういう欲が極めて少なく淡々としています。
  ここで大事なことは
世間的な欲には少欲であるが真理を求める心は旺盛おうせい であるべきです。
  
知足とは足りていることを知るということです。自分の境遇に不満を もたないことです。
  現在の境遇を不満とせず
悠々としていて向上心をもち日々ベストを尽くすことをいいます。
  こういう人は
世間の人々から大事に思われ 尊重されるに違いありません」。
   つづく