釈尊の出宮 (4)
釈尊の出家
天人の神通力なのです。
今まで舞楽・ぶがく・を奏でていた美しい女性たちが皆、突然、まるで麻酔でも打たれたように 昏々・こんこん・と眠ってしまいました。
さらに、宮殿のすべての人々(護衛から王さままで)が、天人の神通力により、グッスリと眠ってしまったのです。
今です、チャンスがめぐってきました。 太子の出家をとめるものは、誰もおりません。
その時、若き釈尊(太子)は、そのまま宮殿の外へ飛び出したのでした。
最初は、婆羅門教・ばらもんきょう・の行者に道を求め、阿羅々・あらら・伽羅々・からら・の仙人について学び、修行を行いました。
ー今まで人間は、諸々の生き物を殺して食べてきた、人を苦しめ、他の生き物を苦しめて生きてきたのだから、償いをすべきである。
それを償うには、自分の業苦・ごうく・を 浄めることが第一である。 自分が苦しむことで自分の業苦・ごうく・は 浄まっていくのだー、と、
若き釈尊は、心に深く思い考えていました。
その後の太子は、いろいろな難行・苦行をして 生老病死の四苦から離れる道を 模索していました。
しかし残念ながら、どの仙人も、本当に魂の浄まる道を 釈尊に教えることができませんでした。
その後、釈尊は、仙人に礼を述べてそこを立ち去り、ウルビルワーの苦行林・くぎょうりん・に入って、六年間にわたり
かろうじて肉体を維持するだけのごく少量の食物を食べて、飢え死にしないギリギリで、厳しい修行生活を行ったのでした。
なるべく他の生き物を殺さない生き方、なるべく他から奪わない生き方、できりだけ誰にも迷惑をかけない生き方、
最も他から奪うことを最小限にした生き方で、苦行を つづけました。 LINK:「
しかし悲しいことに、人間が生きるためには、やっぱり奪うほか道はありません。野菜を食べることも、野菜の生命を殺すことです。
しかし、何も食べなければ 自分が自分を殺してしまうことになる。
生き物である自分が、生きている自分を殺すことは、やはり、これもまた、殺生の罪を犯すことになってしまう。
ー死ぬに死ねず、生きるに生きられない苦しみー 釈尊は、飢えながら苦しみながら、僅かの食で生きていたのでした。
生きていたというよりも、まだ死んでいないが、もうまもなく、死んでしまうだろう‥‥という状態までなってしまったのでした。
こうして、心も身もやせ細りボロボロになった釈尊は、実に惨・みじ・な姿になってしまったのです。
身体のすべての筋肉が落ち、骨だけがむき出しになったこの釈尊の姿を、出山の釈迦像・しゅっせんのしゃかぞう・といわれています。
その姿からは、釈尊がいかに悲惨な修行を行ったかが、感じとれるのです。
まさに釈尊は、こんな状態になりながらも、苦行を重ねたのでしたが、
ついに、人間の苦の解決の道を見いだせないまま、空・むな・しい心のまま、六年間が冷たくすぎ去ってしまったのでした。
二進・にっち・も、三進・さっち・も行かない苦しみのまま、六年間修行したあげくの果て、結局、釈尊は、悟ることはできなかった。
とうとう、釈尊は、苦行も悟りの因・たね・にあらず、と結論を出したのです。
そして、釈尊は、苦行林を出て麓・ふもと・を流れる、尼連禅河・にれんぜんが・という河に入り、六年間の身体の汚れを洗い落としました。
出山の釈迦像の姿で 尼連禅河で水を浴びたのは、12月8日の暁・あ・け方でした。
河からあがると、そこには、一人の娘が待っていて、牛乳で煮たお粥・かゆ・を 一杯差し出し、釈尊を供養しました。
当時のインドでは、ジャイナ教や婆羅門教などでは、苦行(修行)が 至る所で行われていました。
ですから、スジャータという名の婆羅門の娘が、お粥・かゆ・を差し出した行為は ごくあたりまえで日常的なものでした。
この娘にとっては、お坊さま、ごくろうさまでした、という普通の行動なのでした。
まさか、目の前の骨と皮だけの薄汚れたお坊さんが、「本仏/迹仏」なんて思う訳ないし、
後世まで名を轟かせる人物に成るとは、考える訳などあり得ないのです。
つづく