信解品第4 しんげぼん
ー概略ー
須菩提しゅぼだい 迦旃延かせんねん 摩訶迦葉 まかかしょう 目建連 もくけんれん の四人の声聞 しょうもん が共に
小乗の悟りにのみ執着し、大乗の悟りを求めなかったことを、心から反省し・世尊に懺悔 さんげ した。
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世尊、
「真の信仰とは、信 しん と解 げ を兼ね備えた信仰のことです。
信解しんげ の心とは、仏が説く真理の法の理解が増すと共に、信しん の心も深く固まっていき
信じる心(感情のはたらき)と、理解する心(理性のはたらき)が重なり合った心のことです。
仏の教えは信じることが一番大事なのだから、仏の教えの真髄しんずい までは理解しなくても許されるのだ
信じるだけで仏の救いが与わるのだ、という信仰のあり方は、偏見へんけん 過ぎる信仰です。
確かに、仏の教えは信じることが一番大事なことである…… までは正解なのですが、
理解する努力を捨て去った信仰は、片手落ちの信仰なので、不完全な危険な信仰といえましょう。
これと反対に、純粋な信仰とは、信の心と理解する心のバランスが良い信仰のことです。
私(世尊)も諸仏も、けっして、ただ頭ごなしに信じなさいとは、説いていません。
仏の説法をしっかり聞いて、お経も深く読んで理解しなさい、と説いているのです。
宇宙の真理を分かりやすく説く仏の教えは、ごく普通の衆生にも、ごく普通に理解できる教えです。
仏の教えを聞き理解が進んでいく衆生には、信の心が自然に生じてくるのです。
さらに、仏は、衆生が速く・良く・理解できる様にと考え、「方便」ほうべん を用いた説法も行っています。
衆生の理解の進度が遅い場合でも、素直な心で仏の教えを聞く衆生は、先に信の心が起きるのです。
心が素直な衆生ほど、ーありがたい・ありがたいーと思う信の心が、どんどんと、高まるものです。
信の心をもつ衆生は、自分から教えを聞こうとする積極的な心の働きにより、理解力も増していくのです。
信と解の、どちらも、仏の教えの入り口には違い無いのですが、
なるべく早いうちに、信と解の両方を兼ね備えることが、真理の道に到達できる早道なのです」。
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前の譬諭品第3で、世尊は「声聞」しょうもんの比丘びく/舎利弗しゃりほつ に、授記じゅき を与えました。
さらに、三車火宅さんしゃかたく の譬えを用い、方便の内容をわかりやすく説いてくれました。
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須菩提・迦旃延・摩訶迦葉・目健蓮の四人は
「前の譬諭品ひゆぼん の説法を聞いて、私たち四人は今、歓喜かんぎ の心に満たされております。
私たちは、弟子の中では最も年齢が高く、仏の教えを仲間より長く聞いてきた、長老の立場であります。
世尊のお陰で私たちは、俗世間の苦しみや煩い事からは、わりと早く離れることができました。
すると、もう努力しなくても良いという怠け心が起き、より上の悟りを求める努力を捨ててしまいました。
なんと情けない弟子だったのでしょう。 恥ずかしい限りでございます。
世尊の崇高すうこう な説法を、無関心な他人事と決め込み聞くフリして、気が入らず身体がムズムズして
もうこれ以上聞く必要もないという気持ちのまま、ただボーと座っていただけでした。
この世の万物は皆平等だから、平等に見ることだけを考え、平等に扱うことだけに注意して
上っ面だけの平等を捉え、自分はもう悟ったのだと勘違いし、奥を見る心を失っておりました。
つまり、私たちは空くうの心にのみ執着し、世尊に教えて頂いた仏の一大事 いちだいじ である
ー仏は衆生を皆、仏の悟りへ導くーということを忘れていました。 本当に情けない気持ちの人間でした。
しかし今私たちは、
ー大慈大悲だいじだいひ の心をもって、相手をよく見通し、相手に合った自由自在な説き方で 衆生の仏性を発掘し、
世の人々を平等に救うという菩薩の法ー という最も大事な教えを理解しました。
世尊、私たちは今、心から反省しております。 本当に至らなかった私たちを お許しください。
先程、仲間の舎利弗しゃりほつ が、仏ほとけ の授記(成仏の保証)を受けたのを見た私たちは、
たいへんうれしく思い、心から喜びが湧いてきました。
世尊!仏の教えの方便をしっかりと理解できた印しるし の意味で、摩訶迦葉が代表して
長者窮子ちょうじゃぐうじ の譬えを話します。 どうぞ、お聞きくださいますように‥‥」。
つづく 長者窮子の譬え