如来寿量品 (14)
 経文:如斯之事 如来明見 無有錯謬 以所衆生 有種種性 種種欲 種種行 分別故』  ★13ここの経文
 
「斯かく の如ごと きの事 如来にょらい 明らかに見て 錯謬しゃくみょう あることなし。
  諸々の衆生
 種種
しゅじゅ の性しょう  種種の欲 種種の行 種種の憶想おくそう 
 
分別ふんべつ  あるを 以っての故ゆえ  諸々の善根ぜんこん 生ぜしめんと欲して
  若干
そこばく 因縁いんねん 譬諭ひゆ 言辞ごんじ を以って 種種の法を説く。
  所作
しょさ 仏事ぶつじ  いまだ かっ て暫
しばら くも 
廃せず」
 世尊
 錯謬
しゃくみょう とは 誤りのことです。 種種しゅじゅ しょう 性とは 性質のことです。
  種種の欲とは様々な欲望のこと。 
は行いです。 憶想
おくそう は深く考え思うことです。
  
分別
ふんべつ  一般的にはは常識あるという意味の分別ある判断ー などと使用されるが
  この経文での意味は
自分のモノサシ(尺
量り) ものごとを判断したり解釈することです。
  善根
ぜんこん とは 性質欲望
行為思想
分別などが すべて善と成る大本おおもと の心をいいます。
  衆生は皆
 ひとりひとり
 表面的にも内面的にも 様々な違いがあります。
  だから
仏は 衆生ひとりひとりに種々な説き方を用いて それぞれの衆生の心に善根を生じさせるのです。
  仏は 過去の事実の因縁
いんねん を語ったり 譬諭
ひゆ を以って教えたり 言辞ごんじ (適切な言葉を用いたりして
  種々な説法にて 衆生に説き教えるのです。
 仏事
ぶつじ とは ほとけ が衆生を教化きょうけ したり 済度さいど するはたらきのことをいいます。
  具体的には
 己身他身を説き 己身他身を示し 己事他事を示して教化します。
  仏事ぶつじ 念忌法要法事と考えている衆生が多いでしょう。 しかし 本当はこの意味なのです。
  衆生が行う仏事の基本とは 仏の教えを学び
聞き話す行為なのです」。
                                                 
   「己身他身/己事佗事

  実相を見極めている仏に 間違いは絶対にありませんが 衆生はそうはいきません。
  衆生には
 種種の性質があり 種種の欲望があり 種種の行いがあり 種種の思いがあります。
  さらに
 それぞれ 自分のモノサシで分別
判断する習性 あります。
  故に
 各々の自分勝手な性質
欲望
行為思想利害 などが衝突し
 争いが起こりやすいものです。
  衆生たちは 一端
 争いが起きると 怒りの感情がエスカレートし 争いが深くなっていきやすいのです。
  そこには 対峙
たいじ する衆生同士の 意地の突っ張り合いがあるので 双方 容易には引き下がらないのです。
  そこで 仏は
諸々の衆生に善根
ぜんこん 植えつけるために 因縁過去の事実を説いたり
 
たとえ なども説いたり 適切な言葉を用いて説くなど 様々な方法を用い 仏の法を説くのです。
  仏はこのような様々な教化を
 1刻も休むことなく 無始むし の過去から行っているのです」。
 仏の語源: 「解ける」ほどける という言葉から 「仏」ほとけ が生まれたのです。
         「解ける」の意味は 苦悩から解放されて楽に成ることです。          
つづく