如来寿量品 (12)
経文: 『諸善男子 如来所演経典 或説己身 或説佗身 或示己事 或示佗事‥‥‥』 ★11「ここの経文」
「諸々の善男子ぜんなんし 如来の演の ぶる所の経典は 皆 衆生を度脱どだつ せんが為ため なり。
或あるい は己身こしん を説き。 或は他身たしん を説く。 或は己身こしん を示し。 或は佗身たしん を示す。
或は己事こじ を示し。 或は佗事たじ を示す。 諸の言説ごんぜつするは 皆 実じつ にして虚むな しからず」。
世尊
「諸々の善男子よ 如来が説く教えは すべての衆生を煩悩から救い 解脱げだつ させるのです。
そのために 如来は ある時は 仏の本体である 己身こしん を 説くこともあります。
或あるい は 他の仏の姿である現れる 他身たしん について 説くこともあります。
ある時は 仏の本体の姿である 己身こしん として この世に現われることもあります。
また ある時は 他の人物の姿である 佗身たしん として この世に現われることもあります。
或あるい は 仏の救いそのままの 己事こじ を 示すこともあります。
また ある時は 他のことがらを仲介して示す 佗事たじ を用いて 救うこともあります。
説き方に違いがあっても 仏の説く諸々の教えは皆 真実です。 嘘や偽りや無駄は 全くありません。
つづいて 己身/他身 こしん/たしん を説きましょう。
己身 こしん ー 仏の本体 つまり 本仏のこと。
他身 たしん ー 本仏である己身が 他の仏の姿で現れること。(阿弥陀如来あみだにょらい 薬師如来やくしにょらい など)
己身 こしん を示すー 本仏が 応身仏おうしんぶつ つまり釈尊として この世に現われること。
他身 たしん を示すー 本仏が 聖人や賢人の姿となって この世に現われること。
己事 こじ ー 仏の救いが順化じゅんけ (普通の流れ)で現れて 仏の教えに素直に従った結果 救われること。
佗事 たじ ー 仏の救いが 苦痛などの警告や気づきの現象として現れた結果 救われること。
例えば お腹が痛くなったから 早めに薬を飲んで すぐ治ったことなどをいう。
痛みが 警告の役割りをしてくれたので 大事に至らなくて救われたことをいう。
佗事とは 人間が歓迎したくない警告を受けて 心が仏の教えに戻り 救われること。
つづいて 化土けど を 説きましょう。 「観世音菩薩真言」
化土けど とは 本仏(己身)が 他の仏の姿(他身)を顕わし教化を受け持つ世界のことです。
例えば 釈迦牟尼如来しゃかむににょらい の化土は娑婆世界。 薬師如来やくしにょらい は 東方の浄瑠璃世界じょうるりせかい
阿弥陀如来あみだにょらい は 西方の極楽浄土ごくらくじょうど (阿弥陀如来の左右には 観世音菩薩・勢至菩薩が座している)
仏はこうして 己身・他身・己事・佗事を説き示して 衆生を教化して仏の道へ導いているのです。
仏が説く教えや示すことは 皆 真実なので 虚しいものやムダなものは 何もありません。
また 聖人/賢人の姿 即ち キリスト/孔子なども 本仏が他身を以って顕われ示しているのです。
このように 本仏の教えは至極しごく 広大で無辺な教えなのです。 「孔子の論語」
私(世尊)は インドで最も普及していた バラモンの教えを排斥しませんでした。
それどころか バラモン教の神々や諸天たちにも 仏の教えを説いて 救いの道を開きました。
元々 バラモン教の神であった 毘沙門天・持国天・増長天・広目天・たちなどは 私の説法を聞いて
即 仏の教えに帰依きえ し 仏法の守護神となることを 自ら名乗り出たのでした。 その後 彼らは
「四天王」してんのう となり 仏の世界を守護しています。仏の教えはすべてを救うのです」。 つづく