如来寿量品 (16)
 経文:所以者何 若仏久住於世 薄徳之人 不種善根 貧窮下賤 貪箸五欲入於憶想』  ★15ここの経文
  「所以ゆえ は何いかん  し仏 久しく世に住せば 薄徳はくとく の衆生は 善根ぜんこん を種えず
  貧窮下賤
びんぐげせん にして 五欲に貪箸とんじゃく  憶想妄見おくそうもうけん の網の中に 入りなむ
  
も し如来 常に在って滅せずと見ば すなわち 憍恣きょうし を起こして 厭怠えんだい いだ
  
難遭の想
なんぞうのおもい 恭敬 くぎょう の心 生じること あた わず」

 
世尊
 「永遠不滅な仏が
この世から去るということは 衆生の皆さんには 大きな疑問でしょう。
  その訳は
仏が常にこの世にいるならば つい 凡夫の心が わがままになりやすいからです。
  いつも仏に会うことができる
仏がいつでも救ってくれる と安易な気持ちを衆生がもつのです。
 
徳の薄い人たちは 心に善い種を植え 善い根を張り巡らせる という気持ちを 遠く離してしまうのです。
 
どんどん心が貧しく 狭く 賤しくなり五官の欲望自分本位の考えの執着だけが ますます強まり
  自分の考えや思いだけを
達成しようと考えるのです。                 「無限耳鼻舌身・五官
  自分さえ良ければいい
回りの人々はどうでもいい と自分の思いに執着した傲慢な態度の衆生が増え
  娑婆世界には 物事
ものごと の真相を無視した輩やから が蔓延まんえん それが大きな勢力となっていくのです。
  これは
人の道として 人間社会の在りかたとして 大きなマチガイです。
  なぜならば 人の道とは仏の道だからです。
 仏の道を外した考えで
ガンジガラメに自分を縛りつける結果 衆生は不幸な人生を送ることになります。
 また いつでも仏に会えるとならば 仏の教えなんていつでも聞けるから またこの次でいいや という考えや
 今度
聞きたくなったら聞けばいいから 今聞かなくてもいいのだ という心が生じてきて
 仏の説法に厭
きたり 怠けたり うわの空で聞いたりすることが 多くなりやすいものです。
 こういう衆生は
仏を敬う気持ちや 教えを真剣に聞こうとする大事な気持ちを 忘れてしまった衆生です。
 仏を想う気持ちを忘れた衆生は
仏からどんどん離れていき ついには 仏に背を向けてしまうのです。
 衆生は心の中に
仏の教えを常に聞こうとするねがい 常に強く抱いていなければいけません。
 仏が滅度する前に
仏の教えをすべて聞きたいという願ねがい  常に衆生は持っていなければなりません。
つづいて言葉の意味を説きましょう
 
貧窮下賤 びんぐげせん   心が貧しくて賤いや しいという意味で 貧乏とか身分が低いということでは ありません。
              
仏は 万人を身分貧富など関係無しに 平等に差別なく見ています。
 五欲に貪箸
とんじゃく  五官(限 身)の快楽や欲望に執着すること。
              五官の欲は
人間の本能欲だが あくまでも肉体の喜びなので 執着してはなりません。
              肉体の喜びに執着すると
煩悩が生じて精神が濁るので その結果苦が生じるのです。
 無記 むき       無記とは 本能欲などのことで 善や悪に位置づけられないもののことです。
             人間には
 無記本能欲があるが 執着が過ぎると煩悩の火が燃え上がっていくのです。
            
(世尊) 苦行主義くぎょうしゅぎ や 禁欲主義きんよくしゅぎ 勧めておりません。
             中道ちゅうどう の教え つまり 煩悩に執着し過ぎるな 説いているのです。
 憶想妄見
おくそうもうけん 自分本位な自分勝手な見方や間違った考えのことです。
               妄見とは
の心のままで見るから 真実が見えないことをいいます。
 憍恣 きょうし       安易な気持ちや わがままな心のことです。
             衆生は 安易な気持ち
仏の法を聞くのを 先に延ばしてはなりません。
 厭怠 えんだい     飽きやすい怠け心をいいます。
 難遭の想 なんぞうのおもい 仏が側そば にいると 衆生は難遭の想や 仏を敬う恭敬の心が起きにくいのです。
                  難遭の想とは 仏に会い奉たてまつ ることは なかなか難しいと思う心です。  つづく