◆唐沢山城趾 |
本丸跡(唐沢山神社拝殿) |
| 唐沢山神社には、平将門の乱(935〜940年)を平定した藤原秀郷が祀ってあり、苔むす石垣は当時のままである。
この神社は、秀郷の末裔一族・旧臣等が「沢英社」と「東明会」を組織して秀郷の遺徳をしのび、明治16年9月25日本丸跡に創建し、同年10月25日に秀郷の御霊を奉斎し、以後永くこの地方の守護神として崇敬されている。 〔H15.5.7撮影〕
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本丸跡(唐沢山神社本殿)
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| 拝殿から少し左へ廻りこむと拝殿の奥に本殿が見える。屋根は、銅板葺きで緑硝が吹いており雨が降りそそいだ後の緑が鮮やかである。 〔H15.5.1撮影〕
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二の丸跡(神楽殿) | |
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東西34.6m・南北20mの矩形、本丸より3.64m低く、本丸との間の追手馬だしの土手が削り取られ、口5.46m・深さ3.64mの空堀りも埋められている。南西北の周囲を高さ2.12mの石垣で固め、その上の三方それぞれ3か所に4〜5段の石段があり、弓を射るときの台と思われる。二の丸から北に抜ける道は明治期に石垣を壊しつくる。
二の丸は、武者詰と称し、奥御殿直番の侍者が詰めた所、現在神楽殿が立つ。延徳4年12月15日刻印の礎石が出土している。 〔H15.5.6撮影〕
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三の丸跡 | |
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二の丸南西に下がったところに三の目堀切、幅3.64m・深さ5.46m。それより下がった北側にある。東西27.3m・南北54.6mの曲輪中最大の広さをもつ半月形の曲輪である。
御使者の間とよばれる応接所が設けられ、接待する侍の詰所や馬舎も置かれた。明治まで石垣が残る。その後、戦前は弓道場になる。 〔H15.5.1撮影〕
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表御殿跡 | |
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本丸南の高石真下にある。取次の丸ともよばれ、この城の正庁(日々の軍務、指揮采配をとったところ)の置かれた場所で、石垣は往時のままである。 現在山桜が植えられ、かっては下乗札があった。西は二つ目堀切に橋をわたして二の丸とつながり、東は南局の石垣、その直下に一つ目堀切があって、蔵屋敷と断絶している。南側は馬場道につながり、北は南局につけられた石段を上り本丸に繋がる。この石段も廃城の際破却された。 〔H15.5.6撮影〕
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南城(追郭・出丸)跡 | |
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縦25.46m・横14.56m、蔵屋敷より3.64m低い。石垣の高さは1.82m。
明治24年10月、本社の正門作りのとき、蔵屋敷と南城の堀を埋め、高さをならして休憩所とし、現在の南城館を建てる。 現在の建物は東明会の寄進によるもので、明治27年大正天皇(皇太子の時)行啓の栄によくした。 この辺りからの南方・東方の眺望は絶景である。
南城と番所丸との間の掘割は巾10.92m・深さ9.1mの大堀で、大きく南東から尾根(中の峰)を切る大竪堀を伴っている。この堀が一っ目堀であろう、南城側の石垣は往時より現在に残り、角に算木積みという手法を用い美しい形状をみせている。 〔H15.5.1撮影〕
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番所丸(物見櫓)跡からの眺望 | |
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番所丸の広さは縦10.92m・横9.1mで、南城より5.46m低い。撞鳥屋物見櫓(東櫓)があった所で、入り組んだ谷間も良く見えるようになっていた。釣鐘を置き、敵の襲来に備えて見張り番を常駐させていた。
この丸から千騎ロに向かう道が出る。この下この峰には、富士口からの侵入に備えて、お茶曲輪、大窪番所、一の外曲輪(御厩跡)などの曲輪の他、さらにその下に捨郭(堀はあるが塀のない郭)四段、北条氏忠が作った折(直角に曲がった掘割)などが設けられている。
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帯廊(帯曲輪) | |
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三の丸の西下から北東へと土塁を巡らした細長い鎌型の曲輪である。武者郭ともよぶ。土手(土塁)は現在も西北の方に残存している。 本丸より20m低く、その西下には1.21mの石垣がある、本城最重要の堀切であった四つ目堀と対している。四つ目堀からの高さ30.3cmである。敵を防いだ当時最大の防御地であった。 〔H15.5.1撮影〕 |
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さくらの馬場 | |
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四っ目堀から山の中腹を一つ目堀間でぬける1.8m幅の山道で、馬の調教に使ったとされている。今の神社参拝のメインロードである。途中三つ目堀切には橋が架かり、馬場橋と呼ばれ、二つ目堀には曳橋が架けられていた。この道は一つ目堀に繋がって、堀底から大きく迂回して車井戸のある奥御台所への通路になっていた。 〔H15.5.1撮影〕
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神橋 | |
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四っ目堀は、本丸のある城山と避来矢神社のあった通称棚山との間の谷を利して作られた堀切で、幅9.1m・深さ3.64m、この堀初一つで城郭を分断できる戦略的意味を持っている。
現在は石造りの神橋が架かっているが、お城時代は木造の曳き橋、御橋が架けられており、本丸籠城の際は此の橋を引き揚げ、敵の侵入を防ぐ役割を果たした。
事実上杉謙信ら越後勢の侵攻の際、ここで食い止め落城をまぬかれたとされている。この大堀の切り込みは深く山肌にくいこみ、南側・北側両斜面とも大竪堀を構築して側面からの侵攻を拒否している。 〔H15.5.1撮影〕 |
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大炊の井 | |
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東西32.7m・南北36.4m、対岸の帯曲輪より20m低い。そのため大炊側に高い土手が築かれている。井戸は7.28m四方で、水ぎわまで1.82m。井戸中央深
さ9.1m、底に八角形の松材の枠が組まれ、その下を堀披いてある。
築城の際、厳島大明神に祈願をしその霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとの伝えがある。今日まで水が枯れたことはない。〔H15.5.1撮影〕 |
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車井戸 | |
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本丸の東側城壁直下41.8m低いところにあり、東西9.1m・南北23.6mの中に、深さ23.3m・口径1.51mの井戸で、山城での水源確保の執念を思わせる。 明治20年3月、地元民による井戸さらいが行われ、全容がわかったが、井戸途中に人の入れる穴があり、土砂汲み出しのときの中継をしたものと思われ、底には北に向かって横穴が掘られ、松坂で覆われていた。その板をはずしたところ、こんこんと清水が湧き出したとのこと。松板は廃城時の仕業と思われる。清冽な清水は奥台所・引局の内厨(台所)御茶の水として使われ、車井戸から樋を渡して引き込んだと思われる。がんがん井戸ともいわれ、龍宮までつづくとも云われていた。〔H15.5.6撮影〕
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避来矢山(権現山丸・元天徳山) | |
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頂上の東西25.5m・南北32.8mの削平地に、始め露垂根大明神、盛綱築城後避来矢権現を祀る。この山は二段の腰曲輪が周囲を取り巻いて、そこに武具庫・米蔵(兵糧倉)・組屋敷などがあった。越後勢の攻撃で焼け落ち、焦げ米が出土する。
藤原秀郷公が百足を退治したとき、龍神より贈られた鎧にその名を発しており、現在は唐沢山神社に功績のあった人々を祀る避来矢山霊廟が山頂にある。 〔H15.5.7撮影〕 |
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ます形 | |
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枡形(食い違い)、南側天狗岩という急峻の岩山の上に三層の太鼓櫓が立ち、北側避来矢山は現在よりずっと南・西に張り出していた.。その間の狭いところに石垣の枡形をもつ城門が建てられていた。唐沢山城の表門大手門である。
現在の食い違いは明治に補修され、昭和になり、自動車乗り入れのため間隔が拡張され、石垣も大分新しくなっている。 〔H15.5.1撮影〕 |
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金の丸(平城或いは甲城) | |
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東西21.8m・南北30.9m、長門丸より1.8m低い。南東側金の窪といい、堀切があり、その下捨郭三段。ここは御宝蔵があったところとされている。 石垣の高さ1.8m、現在は金の丸ロッジが建っている。杉曲輪との間堀切9.1m・深さ5.5mの堀切があったが埋められる。現在は金の丸ロッジとして「唐沢子供会」の教育の場となっている。 〔H15.5.6撮影〕 |
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平鳥屋丸(北城)跡 | |
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東西27.3m・南北43.7mで杉曲輪よリ1.8m低い。本丸からここまでの距離158.3m、現在キャンプ場ステージのある場所である。 この丸の北東に平戸屋の大堀と呼ばれる巨大な二重の堀切がある。堀口9.1m・深さ6.4mで、二本通って、南北の山腹に食い込み峰を切断している。 さらに東側の山肌には連続竪堀と称する6本の竪堀が櫛の歯のように並んでいる。これは越後勢の家臣色部氏が城代をした時の構築ではないかとみられている。 その先は唐沢城最古の石垣を残す鳩が峰、姫御殿等あるが、本丸のある城山はここで終わりになる。本丸より北城出口まで160m。1963(昭和38)年に「栃木県立唐沢青年の家」が開設されたが、2007(平成19)年3月31日に閉所となった。 〔H15.5.6撮影〕
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天狗岩 | |
| 物見櫓のあったところで南面に突出た岩がちょうど天狗の鼻のようであったためこの名がある。 眼下に関東平野を眺めることができる。「唐沢七名石」の一つである。 天狗岩はその眺望の良さから、城の周囲を見張る役割を担い、更に、立地条件を活かし、眼下の鏡岩や石垣を伴う土塁からの侵入者に対し、強力に攻撃することが出来たと考えられる。 〔H15.5.1撮影〕
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