信州の鉄道音景CD つれづれ草page.3
鉄韻居士の  ハチャメチャつれづれ草       page.3
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  第十五話 登山鉄道狂想曲
  第十六話 摩擦運転と粘着運転
  第十七話 終電に出た電車わらし
  第十八話 クレーム対策記
  第十九話 お諏訪様縁起
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  第十五話 登山鉄道狂想曲

 前話までは、このところ、どうも下(しも)の話が続いている。筆者の人品が 滲み出てしまっている。今回ばかりは、気宇壮大な、スケールの大きい上品な話を したい。と思うのであるが、いかんせん、小物で下品(げぼん)の筆者としては、 なかなかそんな話はできない。

 上田市の東北に菅平高原という少しは名の知れた、様子の良い高原がある。冬、 量は少ないが良質のパウダースノーに恵まれる、ために好んでスキーやスノーボに 訪れる人も多い。また、夏はラグビー練習のメッカとして全国の大学生らが大挙して やってくる。この菅平に上田から登山鉄道を通そうという話が、あのバブル期に あったらしい。

 バブルの頃の話は当てにならない。馬鹿でもチョンでもみんなでっかい夢を見た。 話は古いが、奈良の大仏様を屁で飛ばす、という類の夢を見た。また図らずも下(しも) の話になってしまった。が、とにかく、荒唐無稽なデホウでもない夢をあの頃はみんな 見ていた。細かい計算はしない、採算なんか考えない、何か建設すればすぐ儲かる、 いま儲からなくてもいずれ儲かる、俺らがつくれば後は誰かがうまくやる。そんな、 とても楽しい時代であった。

 むかし、上田駅からは菅平へ行く途中の真田(当時は長村、現在真田町)まで、 ささやかではあるが、電車が通っていた。マイカー時代前の全盛期、上田から放射状に たくさんあった私鉄小路線の一つである。距離は菅平までの半分弱であったろうか。 バブル期には既にレールは剥がされていた。惜しい鉄路を亡くしたものである。いま 線路跡には家がたくさん立ち並んでいる。

 この鉄路を復活し、かつ、真田から菅平まで路線延長しようというわけである。 真田から上は、自動車道路でもかなりの難路であり、急坂である。つづら折り、トン ネル、ダム湖、それらは観光要素でもあるが、難所でもある。夢もありロマンもあるが、 予想される難工事には莫大な資金が必要である。つづら折りにはケーブルカーは不向き であろう。アブト式にする必要があるかもしれない。いや、スイッチバック方式が妥当 かも。

 と、そういう緻密な検討はしたものかどうか。公式の計画ではなかったので筆者は 知るよしもない。土建業界の奏でる狂想曲であったのか、暴走曲であったのか。あるいは、 たんにホステスを侍らせた酒席での嬌騒曲であったのか、大言壮語ミサ曲ウソ800番で あったのか。それは全く知らない。いまとなっては深い闇の中である。うわさだけが 残っている。

 しかし、いい話ではないか。この不景気のいまこそ、こういう無駄ではあるが でっかい仕事をしなければいけない。狂想曲を奏でなければいけない。しぼんでは いけないのである。雇用を創出しなければいけないのだ。銀行救済よりもずっと 国民向きの話である。上田、菅平と言わず、軽井沢でも松本でも諏訪でもどこでもいい。 霧が峰や美しが原にだって通したらいいのだ。善光寺から極楽へでも通したらいいので ある。景気さえよくなればよい。政府の経済政策にも合致している。どんどん進めれば いい。造ってみなければ、いいか悪いかは分からない。予測の不得手な民族である、 やるっきゃない。と、あのお隆さまも言うだろう、・・か?

 よし、人があまり乗らない 鉄道になってしまっても、電車は傷むことはないだろう。維持費はろくにかからなくて 済む。レールを引いてしまえば、こっちのものである。電車は1日1往復でよい。 動かすのは夏だけでもよいのだ。「冬眠電車」の愛称で親しまれるだろう。

 だが、そんなことで良いのか。その金はどこから来るのか。だれが負担するのか。 長野冬期オリンピックを負担した市民、県民なら出せるのか。何だかわけの分からない 鉄道を、何だかわけの分からない内に建設して何だかわけの分からない状態で営業し、 何だかわけの分からない内に傾いて何だかわけの分からない内にレールを剥ぐ。そんな のでよいのか。長野県が国の真似をしていていいのか。県は国とは違うぞ。何が。 とにかく違うのだ。だから何が。つまりだ、どこにも造幣局はないのだ。

 なお、この件で長野県庁に問合せされるのはご遠慮願いたい(・・・またか)。
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  第十六話 摩擦運転と粘着運転

 業界専門用語というものがある。世間の常識や学問の領域から少しはずれるか、 業界以外では全く使用、通用することのない用語である。古い大企業や官庁などに多い。

 粘着運転という用語もその類である。なんとなく分かる言葉であるが、当業者以外 にははっきりしない。日本の鉄道用語の一つである。はっきりと普通に言えば、 摩擦運転ということである。物理学では真理中心主義から摩擦運転と呼び、鉄道工学 では利益中心主義から粘着運転と呼ぶ。

 本来、鉄道にとって摩擦は最大の収益原因である。これがないと機関車は列車を 引けない。モーター付き自走式電車も走れない。ジーゼルでも蒸機でもこの辺の事情は 同じである。車輪はレールの上でツルツルと空回りするだけである。また、摩擦がないと 列車は止まらない。乗ってしまった人を降ろせずに皆殺しにしてしまうことになる。 毎日、毎日、補償がたいへんである。鉄道会社は皆潰れてしまう。最近の回生制動と いえど、車輪とレールの摩擦は絶対必要である。

 その一方で、鉄道にとって摩擦は、人件費につぐ枢要な減益原因である。これを 減らせれば、モーターも小さくできるし、電力も燃費も減じることができる。

 だから、鉄道会社と摩擦とは切っても切っても切り離せないのである。そこでこの 有り難い方の摩擦を使う運転を敬意と感謝を込めて粘着運転と呼んだわけである。 本能的に摩擦運転とは呼ばなかった。筆者には摩擦も粘着もあまり変わって聞こえ ないが、日夜、有り難くない方の摩擦に苦しめられ、粘り強く戦っている鉄道技術者が、 有り難い方の摩擦を粘着と名付けたくなるのは分からないでもない。ただ、摩擦運転 とか粘着運転とかでない運転はないのであるが、とりわけ、摩擦が大切な坂道での 運転を粘着運転と強調して言うようである。

 北陸新幹線に切り替わる直前の碓氷峠では、EF63という型の電気機関車が、 けなげに活躍していた。この型の機関車はとくに粘着運転に向くように設計されていた のである。1000分の60という急勾配には1台では足りなくて2台を連結した いわゆる重連であった。その重連で多くの、か弱い列車達を支援していたのである。

 むかし、碓氷に鉄道が開通して間もない頃の話である。鉄道大臣が視察で試乗した ときのことである。列車が急坂で立ち往生してしまった。挙げ句に、運転士や乗客や 大臣の総意に反してバックをし始めた。さすがに鉄道大臣、この先の怖さを骨に染み、 肉に刻むほど知り抜いていた。摩擦の不足した列車というものがどんなものか知り抜いて いたのである。で、青くなって、すぐさま真っ先に自分だけ列車から飛び降りてしまった のである。だが、青くなったままであった。青くなったまま冷たくなってしまったのである。

 なんとも無責任な大臣である。人の上にたつ人間というものはいつの世もあまり 変わらないものである。アメリカ映画なら違うではないか。分かりやすいアメリカ 映画なら全然違うのである。簡単にはあきらめないのである。しぶとく粘り強く、 早く逃げたらいいと思うような場面でも、最後の最後まで事態の解決を図るのである。 てきぱきママの如く、車掌や乗客にキビキビと指示し、場合によっては連結器や屋根を 飛び越え、機関車に乗り移り、創造力あふれる的確な処置をするのである。知恵と知識の 限りを尽くし、砂なんかをパラパラっと撒くのである。

 そしてやがて、大臣はいつしかヒーローになるのである。できるわけない非現実的な ワンパターン型のヒーローになるのである。それくらいアメリカ映画では上に立つものは 責任感が強いのである。現実は大統領でもあんな風ではあるけれど。

 話がそれてしまったが、それたついでに記そう。昔はよかった。客車には蒸機時代の 煙の匂いが残っていた。煤けて真っ黒な車体は日本の風景とよくマッチしていた。わび やさびがあった。錆びもあった。現在のように化粧(けば)過ぎる列車は、どこを走って もいいというものではない。都会とか高原とか、ごく一部に限られる。山村や漁村の風景 には不向きである。そういえば、どの客車にも昔は立派な銘板があった。「日本国有鉄道」。 どんなに煤けたおんぼろの客車にもあった。銘板だけは立派であった。

 いいなあ。いいなあ。よかったなあー。と思うのである。だが、待てよ、あんなおんぼろ 客車を盗む奴がいたのだろうか。東急が盗る(やる)とでもいうのか、小田急?、西武?。 まさか、そんなわけはないだろう。と、すると、あれはいじらしい国鉄の誇りだったんだ なあ。お金より誇りが大切な良き時代だったんだなあ、と、目頭に涙も滲むのである。

 しかし、いまや何事にも世知辛い時代である。国鉄もJRとなり、民営化されてしまった。 しかも、収益至上主義に成熟し果てた。その上、JR東、JR西だのと、いくつもの会社に 分割されてしまった。でありながら、各社の線路は今でも依然としてつながったままである。 筆者には悪い予感が走るのである。ぞっとするような不吉な予感が走るのである。 ・・・・JR各社の間で、収益へのあせりから、電車や客車を盗み合う、窃盗事件が頻発 しなければ良いが、と。

 なお、この件で鉄道省に問い合わせすることは不可能である。現在、同省は存在しない。
 また、JR東日本、JR西日本などのJR各社に問合せされるのはご遠慮頂きたい(まただ)。
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  第十七話 終電に出た電車わらし
 しなの鉄道線軽井沢行きの終電車にあった、実話と信じて間違いない話である。

 都会の電車とは違い、終電ともなると、この路線は、幽霊の一匹や二匹出てもおかしくないほど閑散としたものとなる。たまに回ってくる車掌ですら幽霊かと思うくらい、空いているのである。ただ、幽霊ではないその車掌が、ときに妙齢の美人女性車掌のこともあるという。細くはあるがしっかりと足はあるそうである。

 以下は、筆者が懇意にしている同世代のある男の先生から聞いた話である。
 この先生、軽井沢に住んでいる。上田辺の小学校で大学生達でなく小学生達を教えているが、普段は酒だけが好きな高潔な先生である。普段でないときはどうか、ということについては、筆者にはとんと分からない。しかし、あまり悪いうわさは聞いたことがない。裏表はないようである。だから、筆者も信じるしかない。信じたい。とにかく、この話はこの先生だけが頼りの話である。

 先生という職業はストレスのたまるものらしい。職員会議などで遅くなった日には、どうしても同僚と一杯やってしまう。学校近くには、こんな先生達を当てにして夜になると軒を並べるように赤提灯に灯がともる。・・などということは信州にはまずない。あってはいけない。

 さて、先生、この日も同僚と飲んだ帰りであった。上田駅の次の大屋という駅から軽井沢方面行の終電に乗ったらしい。らしいというのは記憶がないほど、酔っていたからである。やがて、電車は小諸を過ぎた。追分駅の手前の御代田(みよた)駅の直前となったときである。「つぎは、みよたー。つぎは、みよたー」という車掌のアナウンスが「つぎは、みょーだ〜。つぎは、みょーだ〜」と、聞こえたらしい。かなり酩酊はしていたようであるが、アナウンスそのものは覚えていたようである。で、この少し後らしい。出たのは。男の子の幽霊が。ツツツつーと出た。

 そして先生の前にきて、「せんせ、せんせ。 いち、に、さん、ぱっ。 ぐる、ぐる」とやったらしい。もみじのような可愛いお手てをぱっと広げたり、小さい饅頭のようなこぶしをつくって不器用にぐるぐるぐるとやったわけである。この「ぐる、ぐる」だけの部分については筆者も酔った際にやられた経験がある。数人の同僚とともに、ある安バーで安酒を飲んで悪酔いしていたときであった。

 これを酔眼にやられると、ずいぶんと目が回るのである。右回しよりもとくに左回しがこたえる。回しているホステス本人にすると右回しである。酔っぱらいというものはこんな他愛のないことで、万近くの大金をふんだくられたりするのである。全く馬鹿げた話である。いや、いま考えると、客の悪酔いを加速させるための一法として、彼女らのマニュアルに書かれているのかも知れない。

 余談はさておき、男の子の幽霊であるが、日本の古式にならい、「わらし」と呼ぶことにする。この電車わらし、「ぐる、ぐる」は右回しであったらしい。わらし君にすると左回しである。先生、大分こたえたという。おかしい。筆者の場合は左回しされたとき、こたえたのである。先生はどこまでも、右回しされたと言い張る。そこで筆者はしばらく考えてみた。ない知恵を歯磨きのチュウブを絞るが如くにして考えてみた。?・・・・。そういえば、筆者のつむじは右巻きである。・・・?!・・。 そこで、先生につむじのことを聞いてみた。案の定、先生は左巻きであった。「眼前の回転に於ける渦の向きは、頭頂のつむじの渦の向きと相反してよりこたえる」という、ささやかではあるが未曾有の大法則を発見したのであった。

 ただ、この先生の「ぐる、ぐる」の場合は、まこと幸運なことに、全くの無料であった。只であった。筆者の場合とは異なり、1円もふんだくられずに「ぐる、ぐる」をされたのである。それは幸いであった。が、「せんせ、せんせ。いち、に、さん、ぱっ」という前置きの部分では非常にこたえたらしい。目の前全体がフラッシュしたように感じたとのことである。しかし、どうしてこの幽霊、先生が先生であることを知っていたものか。筆者には疑念が残る。まあ、そこが幽霊というものかも知れない。

 さて、わらし君であるが、しばらく、先生の目の前で可愛いお手てを「ぱっ」とか「ぐる、ぐる」と繰り返し何度も何度もやっていたらしい。電車は御代田をはなれ、追分駅直前となった。当然、「つぎは、おいわけー。つぎは、おいわけー」と車掌はアナウンスしたらしい。だが、先生には「つぎは、おいわ。け〜。 つぎは、おいわ。け〜」と聞こえてしまった。

 と、突然に、その目の前の愛すべきわらし君が身の毛もよだつお岩様のような姿に変わってしまったのである。「いち、に、さん、ぱっ」とあのおどろおどろしい姿に変わったのである。長い髪をふり乱して、いまにも先生に取り付きそうになった。しかし、彼の認識は大いに間違っている。おどろおどろしいのはお岩様の方ではない。本当に恐ろしいのは、浅ましい伊衛門の心根の方なのである。が、それはともかく、彼はそこで気絶してしまったらしい。らしいというのは、らしくなく意識があるときは気絶とは言わないからである。

 電車は2駅過ぎ、終点の軽井沢となった。彼はやがて、軽い「ザワ」という悪寒とともに目がさめた。さぶー。

 なお、筆者は、この先生とは違い、お岩様には篤い崇畏と深い同情の念をもつものであります。  お岩様のご冥福と成仏を心より祈念いたします。
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  第十八話 クレーム対策記

 このところの筆者の一連の馬鹿話に、ほんの少数、1通ではあるが、温かい励ましの メールを頂いた。こういうときはほんとに嬉しい。この場で、その1通の主「ヨセヤ・ ヤメロー」様に深謝しておく。だが、ほとんどのメールはクレーム(異義、苦情)であ る。受け取った暁には、脂汗とともに一段と禿増す、禿増しのメールなのである。

 まず最初は、第8話に関して諏訪市長から来た。八重垣姫像をあんなにコケにするの はけしからん、という趣旨のメールであった。そこで筆者は返事を書く。カタカタカタ、

 「市税をつぎ込んで、八重垣姫像をあんな風に造った前市長が問題ではないですか。 あのままでは観光客が幻滅しますよ。」

と返信した。後は無しのつぶてである。「前市長が問題」と書いたのが良かったらしい。現市長を説得し得たようである。

 地元の上田市役所からも来た。第3話についてである。「上田には真田のほか何も ないのである」というくだりについてのクレームである。そこで筆者は書く。カタカ タカタ、

 「真田以外にも『信州の鎌倉』もあります。『別所温泉』もあります。『信濃国分寺』も『農民美術』もあります。『上田紬』も『マルチメディアセンター』もあります。いっぱいありました。すみません。」

 と素直に謝った。地元だけに、市八分を恐れたためである。市八分は村八分より ずっと怖い。

 CIAからも来た。第12話についてのものである。さすがにインターネット時代である。CIAも読んだらしい。だが、野辺山宇宙電波観測所は問題ではないという。そのわけは、同観測所ではアメリカの研究者の常駐も受け入れているからである。それより、野辺山のレタスの出来をウォッチしているらしい。CIAには農産物輸出対策が目下の急務のようである。随分セコくなったものである。筆者には思わず長嶋監督の顔が浮かんだ。「セコくしてますか。」、セコいジョークである。

 一番強力なクレームは、日本物理学会からのものであった。第9話についてのものである。マッハはフランス人ではないという。そこで岩波理化学辞典で調べる。確かに違っていた。オーストリア人であった。フランスがもう少し強ければ彼もフランス人であったろうけれど、ここはひたすらお詫びするしかない。

 また、等値原理は、「加速度と重力」の間ではなく、正しくは「慣性力と重力」との関係だという。また、等値原理より等価原理と和訳するのが普通という。みんなごもっともです。そうです、知ってはおりました。おっしゃるとおりです。が、あそこは「等値原理」でないと、「等痴原理」へは落ちない。シャレにならないんです、と心でぼやく。

 さらに、「トキより多く、パンダよりは少ないであろう」とは何事か、とのきついお叱りであった。そこで筆者は詫び状を書く。カタカタカタ、

 すみません。「パンダより多く、エリマキトカゲよりは少ないであろう」に訂正させて頂きます。

 また、「みんな白ばっくれて正しい正しい」とは言語道断であるともあった。そこで詫びを重ねる。カタカタカタ、

 「白ばっくれているところの、それらみんなが正しい正しい」に訂正させて頂きます。 これなら、「一部のみんな」とも、筆者本意の「みんなみんな」とも、どうにも解釈できる。ウヒヒ。

 しかし、なんと言っても一番怖かったのは、第11話のワサビ女であった。メールでなく、本人というか本霊というか、そのものが直に来たのである。チャイムも鳴らさぬ突然のご来訪であった。水の切れていない、葉っぱのついたままの冷たいワサビを左手にもって、バッサ、バッサ、とやりながらのご来訪である。露払いという言葉があるが、それとは正反対である。部屋中びしょびしょである。勿論、例のツーン「はあ」、ツーン「ひい」も怠り無く、繰り返しやってくれていた。

 美形の顔というものは、多くの場合、薄暗いところでは得てして気持ちの悪いものである。とくに口尻を上げて妙に自信ありげにニヤっとされた日にはぞっとするものである。たとえ、本人がニコっと笑っているつもりでもである。この幽霊の顔もまた凄かった。青白い顔でニヤっと笑っている黒く薄い唇には、筆者も心底から戦慄が走った。そして、その唇には、さっきまで食べていたらしいワサビのカスがこびりついていた。でさらに、そのワサビのカスを気味悪く右手の指で拭っては、それを筆者の唇になすり付けようとするのである。人一倍神経質な筆者にはこれは本当に恐怖であった。生きた心地がしないというのはまさにこのことである。

 「な、何でもします。ど、どうにでも、訂正します。そればかりは、お、お赦しを!」

と思わず懇願したのである。第11話では事実を淡々と書いたつもりであったが、あのどこがお気に召さなかったのか。筆者にはてんで分からない。  だが、やっと筆者の気の動転も少しは収まってきた。で恐る恐る聞いてみた。

 「おワサビ様、どこがお気に召さなかったのでしょうか?」

とにかく、あまりのことでこの幽霊を表わす適切な主語が見つからなかった。だが、通じたようである。

 「わらわに、気に入らぬところは無い。」

 「じゃ何故にお出ましに?」

 「お主、『会ってみたくなるほど面白い』と書いたではないか。」

 うーー、どうにも悪夢であった。こんな夢を見ると身体もやたらと突っ張り、髪の毛も数本抜けるというものだ。まったくもって、禿増しの夢であった。最近はネタ切れのためか、やけに夢見がよくない。

 なお、今回の「カタカタカタ」が第10話に記した「真の」ブラインドタッチであったか否か、筆者に問い合せされるのはご遠慮頂きたい。

  第十九話 お諏訪様縁起

 諏訪大社の御柱祭は、長野冬期オリンピックですっかり有名になった。通常の成年男子より2オクターブは高いあの「あえー」という木槍節は、文字通り、全世界に発信された。恥ずかしかった方も多いであろう。だが、慣れである。スイスの「ユーレイホ」も最初に歌うときは大分恥ずかしい。吠え猿に似ている。人間が大真面目にやっていることの大半はそのような奇習なのである。別にどうということもない。

 諏訪大社と一口に言っても、上社本宮、上社前宮、下社秋宮、下社春宮と諏訪湖のまわりに四っつもある。ご本尊に当たるご神体も、山だの磐だの、イチイの木だのスギの木だのと各社まちまちである。だが、各社共通のきまり事がある。それが、俗界と神域をはっきり分ける4本の御柱なのである。

 神にも古今東西いろいろとある。仏という考え方もある。欧米、アラブと南アジアの一部では、一神教が主に信じられている。ユダヤ、キリスト、ムハンマドの各宗教である。一神教は高級あるいは近代的な宗教であり、多神教は低級あるいは未開な宗教である、という考え方もある。主としてキリスト教徒達の造り上げた自己満足の信条である。

 人間は自分を飾ろうとする癖がある。自分達のしていることを正当化しようとする悪い癖がある。これを「自己荘厳癖」という。筆者が勝手に名付けてみた。一神教を高級な宗教とするのは、キリスト教徒のこの自己荘厳癖にほかならない。

 キリスト教もイスラム教もその思想のルーツはユダヤ教にある。ユダヤ教では、世界は神によって造られたという。ユダヤ教が「神が世界の全てを造った」という考え方の元祖なのである。キリスト教もイスラム教もそれには異を唱えない。しかし、よく考えてみて欲しい。創造主という一見合理的なこの神も、あらゆる創造を始める前には、神のみが存在していたことになる。多分長い間のその間、神様は一人いや一神で一体何をしていたのであろう。この実に奇妙な、手持ち無沙汰な神様という状態に思いを致すなら、創造の神説が必ずしも説得力のある説ではないことが分かるであろう。決して唯一正しいわけではない。

 それに、このあまりに不公平な世のさまは何だ。この世は不公平と悲しみに満ちているではないか。神が全能で愛ならば、みんな平等でなければいけない。少なくとも、生まれたばかりではそうでなければいけないのだ。加うるに、筆者の顔はどうだ、それでもこの顔がキムタク並みであったなら神の創造を信じよう。だが、如何にも神様、不器用なお方ではなかろうか。ネットでは我輩の写真を見せられなくもないが、見せたくもないのである。かるが故に、かように、神が全能でこの世界をお創りになったということは、筆者には個人的にも信じ難いのである。

 だから(どう「だから」なのか分からないが)、諏訪の人は諏訪の神様に今まで以上に自信を持っていいのである。キリスト教徒などの蔑みの目は無視しても一向に構わないのである。お祭りのときだけの神様にしておかなくていいのである。堂々、全霊をもって崇拝すべきなのである。大体、この諏訪の神様は、「信じないと救われない」などとケチなことは言わない。そんな、横暴な封建領主のようなことは決して言わない。独裁者のようなわがままなことは「ずで」言わない。

 筆者は最近、「信」を強調する全ての宗教に疑念を持つようになった。「信」の強調は全て封建制度の名残りではないかと思っている。いや、サル山のボス制度に類似の前史時代以来、人類に深く染みついた群従の習性に起因したものではないかと考えている。それだけでない、この習性は明らかに真の民主主義の妨げともなっている(ここの真は第10話にある「真のブラインドタッチ」の真でなく、真の真である・・・念のため)。ともかく、大事なのは「信」より「生き方」なのである。

 この点、諏訪の神様は実におおらかである。「信」などの強制はない。はなから人間に約束事などはさせない。強いて上げるなら、御柱を立てさせることぐらいである。それ以外は人間を縛らない。肉食だってOKなのである。普段、さんざ他の生き物に殺生を働いている輩が、祭壇、仏壇の前ではしおらしく振る舞う。さんざん肉を食らっている輩が、祭事、仏事の際には肉を断つ。みんな偽善なのである。

 諏訪の神様はそんな人間の嘘は最初から見抜いておられる。食うなら食えである。ただ、やたら食えとは言わない。命を支えるに足るだけにしておけと言われているのである。アイヌの人々の崇拝するカムイとは共通のものがある。多分、もとは同じ分かれであろう。

 どうであろうか。こんな神様、好きにはなれないだろうか。変な理屈はもう結構、

 「地球上の全ての生き物に思いを巡らせ、分相応につつましく生きろ。」
 「お祭りにはせい一杯命をかけて楽しむがよい。」

 ほんとに命をかけて死んでしまった人もいる。が、こんな神様を祭る諏訪っていう街は、本当に素晴らしい街ではなかろうか。・・・う?だが待てよ、木も大切な生き物だよなー。やたら、あんな大木切っていいのかしらん。・・・・古電柱にしてみたら?コンクリートの。
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