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ペリオ倶楽部



* ペリオ倶楽部のペリオとは、ペリオドンティクス ( Periodontics 歯周治療学 ) の略です。
文:歯学博士 茂手木義男

 歯ブラシの起源 vol3

―― 歯磨剤 ――

歯磨剤はいったいいつ頃から使われる様になったのであろうか。文献では9世紀ペル
シャの医師ラゼスは口腔清掃のため胡椒と五倍子(ふし)の粉末で磨くことを勧めて
いる。それより以降は、十字軍による東西交流と思われるが、ペルシャより以西の
フランスやイタリア等から歯磨剤に関する記述が見つかっている。

日本では鎌倉時代(13世紀)に著わされた「沙石集」の中の「歯取唐人」編に、歯磨
剤を想像させる記述が載っている。それ以降は口中薬として使用された製剤は文献に
出て来るが、一般に歯磨剤として使われる様になるには江戸時代まで待たなくてはな
らない。


江戸は寛永20年、朝鮮人の手助けを受けて、神田
の丁子屋喜左衛門が<歯を白くする、口中あしき
にほひをさる>と表書きした薬、大明香薬を世に
出した。内容は房州砂(房州で採れた白砂)を基
剤とし、それに香料として丁子、白檀、竜脳等を
混ぜたものであった。


それ以降、芝はかねやす祐見が「口中の薬」を、日本橋の小野源入が「乳香散」等を
売り出して行く。一般庶民の間に歯を磨く行為が急速に普及して行くが、その数は100
以上を数えるようになっていく。やはり基材は房州砂が使われ香料として胡麻、唐辛
子など各々工夫をこらして行った様である。当初の歯磨剤は歯薬として世に出たが、
次第にその他に化粧品としても売られて行った様に見受けられる。それは式亭三馬の
「御はみがき」、尾上菊五郎の「匂ひ薬歯磨」、式亭小三馬の「助六はみがき」そし
て美濃屋の「一生歯のぬけざる薬」等が示す様に、自分の著書
「浮世風呂」の中で宣伝を行ったり、流行物の芝居の中にとり入れられたり、また現
代の化粧品と同様に明らかに誇大広告と思われる物が現れて来るからである。そして
売られ方も、かねやすの様に店を構え売られていた物の他に、大道芸をしながらまた、
粋な江戸の売口上として人気を博していった物もある。

江戸時代の歯磨剤と言えば後世松の廊下の刃傷と
してセンセーショナルに扱われたので、それをめ
ぐっての事件に触れておきましょう。

浅野家は代々常陸笠間に城を構えていたが、
松の廊下で刃傷を起こした浅野内匠頭長矩のおじ
い様(浅野長直)の代に、藩州赤穂に転封となっ
た。長直は赤穂で城も築かなければならないし、
藩の財政を立て直すため、熱心に製塩を行った。
一説に拠ると、山国の大名が海国に移るに際し、
途中三河吉良家で藩の経営としての製塩法を教わ
り、赤穂に赴任したという説がある。長直の努力
が実り、大阪、京都で赤穂の塩は品質が良いと評
判になり、元禄長矩の代の頃には赤穂塩と言えば、
食用塩よりむしろ歯磨用としての方が知名度が高
く、小形の陶壺に入れた焼塩は五代将軍綱吉の歯
磨塩として献上されるまでになった。当時江戸の
塩は下総の行徳塩と三河の吉良塩とが流通してい
た。行徳塩は一般庶民用、吉良塩は焼塩にして歯
磨用にと住み分けられていた。そこで新興の赤穂
塩は吉良塩とまっこうからやり合う格好になった。

元禄14年3月14日浅野内匠頭長矩は表書院松の廊下で吉良上野介義央に刃傷におよぶ
という段になるのだが、当然そこに行くまでには、長矩は気が短い人だとかその他
の要因が重なっての事ではあるが、藩の財政を担う歯磨塩の葛藤が下地となり事件に
発展していったという考証である。その事件の結末は家名断絶、赤穂の郎党2百余人
が路頭に迷うことになるのだが、それはさらに元禄15年12月14日、赤穂浪士の
吉良邸討ち入りへと続く。そして討ち入りに加わった堀部安兵衛は当時歯磨剤を商っ
ていた商家では最大手の芝のかねやすの、また大高源五は入歯師小野玄入の、それぞ
れ看板を書いている。

それは歯磨塩が縁となり、家名断絶後江戸にて歯磨剤商店もしくは、口中医と関わり
ながら浪人生活を送り、故郷赤穂の浅野家の本懐をとげるまで
切歯扼腕していたことがうかがえる。

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