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ペリオ倶楽部



* ペリオ倶楽部のペリオとは、ペリオドンティクス ( Periodontics 歯周治療学 ) の略です。
文:歯学博士 茂手木義男

 歯ブラシの起源 vol5

―― お歯黒 ――

白い歯が口元からこぼれることに、清々しさと美しさ
を感じている私にとって、それとは反対に黒く意図的
に歯を染め、そこに美しさを表現してきた日本文化に、
何故なのだろうか、どうして生じたのだろうかという
率直な疑問がわく。

まずお歯黒とはどういうものであるか。お歯黒液は水
酸化第二鉄、酢酸鉄、炭酸鉄、硫化鉄の混合水溶液
で、科学的には今の黒インクである。これは壺の中に
沸騰したお茶、焼いた古釘、飴、麹、砂糖、酒等を
入れて、2〜3ヵ月冷暗所で保存して作った。このま
までは歯の表面に定着しないので、タンニン酸を多
く含んだ五倍子(ふし)の粉を、房楊枝(筆等)に
つけながら、上のお歯黒液を歯の表面に塗っていく。すると歯表面に真っ黒なタンニン酸第二塩鉄が
沈着する。これがお歯黒であるが、その黒さを保つためには、3日から1週間毎に塗らなければならな
かった。これは生活の比較的大きな部分を占めたと想像出来るわけで、はたして江戸時代になると、
お歯黒液を自分の家で作る場合もあるが、売る店も現れたり、また壺を下げて売り歩く行商も出たり、
また高価に凝ったお歯黒道具を嫁ぐ娘に持たせたりという、生活の文化になっていた。

それではお歯黒はいつ頃から見られるのか。お歯黒を施している埴輪が出土していることから、古
墳時代の3世紀頃から始まった(青島攻、「歯科のあゆみ」)と言われる。そして聖徳太子が摂政とな
った時期、7世紀頃にこれが一般化したと推測される。

ここで面白い事がある。日本の多くの文化は大陸―中国からの仏教の影響を受けている。以前こ
の欄で取り上げた房楊枝に関しても、神事もしくは仏教の教えからの発展であった。

ところが仏教では「歯は白きをもって貴となす」の思想があり、仏教が流布している所にお歯黒が
定着するとは考えづらい。つまり百済などからの帰化人により仏教が伝えられた欽明天皇の時代
(538年)以前にすでに当時の上流人士にお歯黒が広まっていたと考えられる。すなわちお歯黒文化
については、その他の文化と異なり、中国文化からの影響は受けていないのである。

ただ当時のお歯黒は釘を原料にしたものではなく、植物の実主に檳榔樹(びんろうじゅ)を咬む
ことにより、自然に歯が黒く染まるものであったと考えられる。東南アジアから潮流に乗って日本
に漂着した高天ヶ原人種は、檳榔樹を咬む風習があり、檳榔樹は高級品であったため、富める者程
黒歯でそして民衆の上に立った人であった(樋口貞次郎、「南方渡来説」)。高天ヶ原人種の子孫
である公家にまずその習慣が定着したと考える。黒歯の風習を持つ人種は世界的に見ると東南アジ
アそして日本で、現在でもタイ、フィリピン、台湾、インドネシア、ビルマでは一部で行われてい
る。そしてそのいずれも檳榔樹の実、キンマ葉、シリーの実そしてヤシの実等果実の実を用いて歯
を黒く染めている。

ところが東南アジア由来の黒歯の風習は、北方民族チュルク族(鉄勒(てつらく)、古代トルコ系遊民
族)の鉄製技術と、日本の地で出会い、新展開していくことになる。鉄を使うことにより、果実の実
よりはるかに染色性が高い染色法が考えられ、日本独特のお歯黒として、明治初期お歯黒が廃止さ
れるまで綿々と続いて行くのである。

横道に逸れるが「古事記」とお歯黒についてお話ししましょう。素箋鳴命(スサノウノミコト)が
八岐大蛇(ヤマタノオロチ)をたおし、その尾からあめのむらくもの剣を得た話ですが、八岐大蛇
の八ッの頭は吉備、美作等の鉄を産した地方の溶鉱炉を、「彼の目は赤かがちなし」は溶鉱炉の
覗き口のこと、「其の身はこけ及び檜榲生い」は燃料の伐木を、「其腹を見れば悉ノ常に血に爛
る也」は流れ出る真っ赤な溶けた鉄を示している。オオクニヌシの率いるイツモ(倭人の国)は製
鉄技術により、強大な軍事力を有していた。とは武智鉄二氏の説ですが、それでは鉄文化はどこか
ら来たのでしょうか。従来説では百済からであるとするのに対して武智鉄二氏はいや北方ユーラシ
アの北方民族からの説を考えている。つまり豊富な鉄鉱がある天山の北バイカル湖の原住民である
チュルク族は、匈奴(キョウド、フン族)の鉄製産部門を受け持っていたように、チュルク族のす
ぐれた製鉄技術がスサノウが大蛇退治をした鳥髪の地―砂鉄の産地―に伝わり、軍事国出雲帝国を
形成したと言うのである。そこで前出の鉄文化が従来説の様に百済朝鮮半島から渡ったとするなら、
仏教文化と鉄文化が同じ文化人種に依ってもたらされたことになる。

ところが先程述べた様に、仏教とお歯黒は相容れな
い文化であること、そして鉄を使ったお歯黒の技術
は相当高い技術レベルでないと、当時としては考え
つかなかったことだと思われる点から、古事記に見
られる出雲への鉄文化は、後に仏教文化を伝える百
済からではなく、鉄の技術に精通しているプロ集団
チュルク族によると、お歯黒をふまえて考えると思
え、武智鉄二氏説を援護するかっこうになるが、は
たしていかがなものでしょうか。

さて本論に戻って、それでは何故歯を黒くしたの
か考えよう。これが絶対の理由であるというのはな
い様な気がしますが、それらしい考えを上げます。
まず、3、4世紀の頃の酒作りは女性の役で、果実を
噛んで壺に入れ、唾液で発酵させる「口かも酒」で
あった。果実の渋で女性の歯は黒くなって行ったが、
歯の黒いのが働き者のしるしで、黒い歯を自慢して
いた。そしてそれは女性の結婚適齢期の13、14才に
なると、歯を意図的に果実の実で黒くして行った。
前述の東南アジアからの高天ヶ原人種の檳榔樹の
話も含め、歯が黒いことが高貴で幸せをもたらすとい う、あこがれに変わっていった。自然発生的に生じ
たお歯黒は、その時代により目的や、考え方が少しづつ変化して行った。女性の月経のけがれを清
めるしるしとして、13、14才頃の月経の始まりと共に歯を黒くした。月経は女性の妊娠、出産を指
し、さらに女性の美しさ、エロチシズムの方向にも変化していった。そして天皇や公家など一部の
高貴な男性も、女性の美の表徴もしくは遊び心としてお歯黒をした。応神天皇の頃(270年)からお
歯黒は男性の間にも見られている。

さらに鎌倉時代以降には前述した様に果実の渋によるものから鉄を用いた染色法により、より確実
な方法としてお歯黒がより広まって行くことになる。

江戸時代にはお歯黒を夫に対する妻の貞操の誓いの意味を持つようになる。つまり白は好みの色に
染まり易い、しかし黒のみは他の色に染め換えられない(松石茂平、「事物原始考」)
と考えた。

また虫歯予防という実利的な目的のためにお歯黒が広まったという考えもある。つまり近年の研究
の結果、お歯黒の成分のタンニン酸鉄は歯質に浸み込み微量の鉄分を放出し、その化学反応により
耐酸性を増し、歯牙からのミネラルの溶解を防ぐため、虫歯の進行を止める働きがあるという報告
がある。

以上お歯黒について述べて来たものの、冒頭の命題にはまだ十分答えてはいない気がします。次号
ではさらにお歯黒の広がり方、その美意識そして何故その文化が終わりを迎えたかについて述べ、
お歯黒文化について考えてみたいと思います。

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