はっぱ なっぱ

日本の古代・中世の歌や詩の中には「八重だすき」や「野馬台詩」など凝った趣向のものがいろいろあるが、その中には、深刻な歴史の秘密をはらんだと覚ぼしい物も存在する。たとえば『いろは歌』四十七文字もその一つであって、これを七字づつで区切って並べ、下の段の文字を綴ると、「とかなくてしす」(咎なくて死す=無実の罪を着せて処刑された)という恐ろしい恨み言某が出てくるという説が有名である。

 百人一首は、この種の言葉遊び文芸のうちでも、ずば抜けて高度な仕掛をもち、また、日本史の大転換期を背景とした深刻な政治的社会的内容をふくんだ歌集と考えられるのである。

 私の研究は、過去になされた先人たち(石田吉貞、丸谷才一、樋口芳麻呂、およびとりわけ織田正吉などの諸氏)のすぐれた業績をうけつぎ、その土台の上に展開されたものであるが、その関連の詳細は、私の本の当該箇所を見て頂くようお願いすることにして、ここでは、直ちに私の到達した結論をかいつまんで述べることとしたい。


(一)百人一首は、これをタテ10首、ヨコ10首のわく内に、ある特別な順序で並べると、隣りに来る歌どうしが、上にも下にも右にも左にも、何らかの共通語をふくみ合うことよによって、一つの隙間もなしに、全部ぴったり結び合わされるという奇想天外なしくみをもっている。

歌織物(全容)
右下16首(詳細)

 百の歌が、合せ言葉のタテ糸、ヨコ糸によって一枚の織物のように織り上げられているという意味で、私はこのしくみを《歌織物》と名づけた。
(この復元の過程では経済学の再生産論にいう二部門分割からの水平思考が大いに役立った)



(二)さて、復元された歌織物からは、まことに奇想天外な数々の仕掛が発見された。まず、歌と歌をつなぐ合せ言葉(山、川、紅葉、雲、花、桜、菊、鳥、鹿、瀬、滝、松、等々)を絵におきかえていくと、歌織物の右側七列分のスペースに、掛軸のような山紫水明の美しい景色が浮き出した。

 上と右手とに山が連なり、下手は大きな浪打際である。中央やや上方に滝が懸り、滝を半円型にとり囲む山々には、桜、山吹、菊、紅葉が妍(けん)を競う。露をふくんだ野草と鳥の鳴声。山奥では鹿が鳴く。川が流れて下段に注ぐあたり、芦が生い茂り、霧立ち上る。舟人漕ぎゆく姿も見える。
 日本人好みのこの桃源境の画が、じつは、後鳥羽上皇を中心とする新古今歌壇の舞台となった水無頼の里のリアルな描写と推定される。山は天王山、浪打ぎわは淀川をあらわす。三つの歌枕、「水無瀬川」「水無瀬滝」、「山崎津」の地名も的確な位置に織りこまれている。滝のすぐ上には「竜神」の文字が続く。なかでもすごいのは、『増鏡』に「えもいはず面白き院造り」と書かれたまま、洪水で流出して、図面も記録も残っていない壮麗華美な水無瀬離宮の寝殿造りのレイアウトが浮び出ている点である。百山の上の御所の姿も見える。この絵こそ、まさに全盛時代の後鳥羽上皇への讃歌といえるであろう。



(三)私は、一般に謎をはらんだ歌集の意味をときほぐす重要な鍵は、編者の自撰歌にあると考えている。百人一首の定家の自撰歌は「来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」である。ここで「松」は待つの掛け詞であり、「凪」は泣きに通ずる。この歌は、誰か帰り来ぬ人に向って、定家が悶々たる思慕の情を述べるのが百人一首の基本点だったという推測を成り立たせる。では誰に向ってなのだろうか?
 ここで問題なのは歌織物の四隅の歌である。定家の歌は右下にある。ところが、左下には後鳥羽院、右上には順徳院という、鎌倉幕府と戦って敗れ、隠岐と佐渡に幽閉され、都を恋いこがれつつ、帰り来ることを許されぬ非運の帝が置かれ、左上には、すでに薨去してこの世には二度と帰り来ぬ薄幸の美女・式子内親王が置かれている。この四人の配置は まさしく「曼荼羅の四天王」を思わせる。あたかも定家は、この三人の「来ぬ人」に向って「あなたをお待ちして泣きながら身もこがれる思いでございます」と訴える構図となっている。ここに百人一首歌織物に秘めた定家の其の意図があったのではなかろうか。

 以上のほか、歌織物の中には、後鳥羽院の絶唱「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけん」や、式子内親王の「ながめつるけふは昔になりぬとも軒端の梅よ我れを忘るな」が編みこまれているとか、『百人秀歌』(九十七首までが百人一首と同じだというミステリアスな定家撰の歌集)は、実は百人一首の「合法的改訂版」としての歌織物であったとか、語らねばならぬことが多いが、ここでは省かせて頂く。

 要するに、百人一首とは、後鳥羽院らへの哀惜の情という形を通じて、武家政権に対する嫌忌の念をこめつつ、亡びゆく王朝社会への挽歌をうたい上げたものということができるであろう。(林直道)


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