「直人、時間じゃないのかい?」
「ん?まだ大丈夫。コレ終わったら行くよ。」
「・・・お前はチョコレート貰ってこなかったの?」
「なんだよ、突然?」
早めの夕食を終え、ばあちゃんをソファーに座らせて、皿を洗う為に腕まくりした。
皿洗いは俺の担当だ。
そんな俺を見ながら、ばあちゃんは不思議そうに訊ねた。
「昔は両手いっぱい抱えて帰って来たじゃないか。」
「あー・・・そんなこともあったな」
「食べきれないって、とーこちゃんとこ持ってて、とーこちゃんが怒ったことあったろ?」
「え、そんなことあったっけ?」
ばあちゃんは急須にお茶の葉を入れていた手を止め、可笑しそうに目を細めた。
「覚えてないのかい?『とーこもあげようと思ったのに、直人が食べれないって言った!』ってさ、とーこちゃん怒って。直人、とーこちゃんから貰ったチョコだけ食べて、後はシンちゃんたちにあげちゃったじゃない」
「・・・覚えてないよ」
そう答えたけれど・・・そんなことがあったような気もする。
洗い終わった食器を拭きながら苦笑する。
「今年は?」
「ん?」
「とーこちゃんから貰ったかい?」
自分の湯のみ茶碗、それに俺の分とかあさんの分。3つにお茶を淹れて、ばあちゃんはにこにこと答えを待ってる。
そういえば、今年は貰ってない。
今日一日、ほとんど話もしてなかった。
「貰ってないよ、まだ」
「あら、じゃあ寝ずに作ってたっていうのは、直人にじゃなかったの」
とーこん家のばあちゃんと、今日お茶飲みしたんだな。
「おかしいねえ。直人、お前とーこちゃんに嫌われるようなこと、なんかしたんじゃないかい?」
心当たりがありすぎて、なんて言ったら、ばあちゃんはどんな顔をするんだろう?
だから俺は笑って「さあ・・・?」って答えるしか出来なかった。
皿を片付け終わり、ばあちゃんの淹れてくれたお茶を立ったまま飲んだ。
そんな俺を見上げて、ばあちゃんは「とーこちゃんが、いつまでも一緒に居てくれるなんて思ってるんじゃないよ?」と溜息を吐いた。
「そりゃ、いつまでも一緒には居られないだろ?俺もとーこも、もう15だよ」
「そういう意味じゃないんだよ。」
「?」
「ほら、時間!」
「あ?あぁ、んじゃ行って来る。寝てろよ。今日冷えるから」
ダウンジャケットを羽織り、カバンを持つ。
「気をつけてね」
「ああ」
玄関を開けると、夕方まで降っていた雪が止んでいた。
いつ降ってくるかわからないけれど、今日の雪は綿雪でびしょびしょになることはないから、降ってきても帽子を被ればいいだろう。
傘は持たず、とーこの家に向かって歩き出した。
わかってないのは、ばあちゃんだ。
とーこは、ギリギリのラインを保ちながらも、俺の傍に居ることを選んでる。
俺が有菜に惹かれてることを知りながら、それでも。
――わかってる。
あいつ自身、決めかねてるんだ。
俺を選ぶか、有菜を選ぶか。
・・・それで、俺はどうなんだ?とーこが有菜を選んだら、俺はとーこを手放せる?
そう考えて、それでもたった一つ、馬鹿みたいに揺るがない想いが込み上げてくる。
とーこは、俺を好き。
それは変わらない。
他の事は不確かで(例えば有菜は誰が好きなんだろう?とか)、絶対なんてものはないんだってわかってるのに、何故か、それだけは確かで。
変わらないんだって思った。
それだけで、そう考えるだけで、胸の中が温かで満たされていることに、俺はまだ気づいていなくて。
変わらないものなんてない。そう思いながら、たった一つの例外を設けてた。
とーこが、――塔子が、変わらざるをえないところまで、追い詰められてたなんて気づきもしないで。
とーこの家の玄関の前で、足元の雪を踏み固めながら、ばあちゃんの言葉に一人反論する。
『とーこちゃんが、いつまでも一緒に居てくれるなんて思ってるんじゃないよ?』
"とーこは俺から離れられないんだ"
"どんなに苦しくても、俺が好きだから"
この感情を言葉でなんて表せない。
誰かに理解してもらえるとも思わない。
傲慢な考えだと思う。
だけど、それは、俺たちだけがわかる繋がり。
――それはとても残酷な。
「いってきます」
しばらくして、とーこの家の扉が開いた。
とーこは俯いたまま扉を閉め、ゆっくりと顔をあげる。
「・・・遅かったな。寒いよ、いつまで待たせるんだよ。」
「夕飯遅くなったの。・・・先に行けばよかったのに。」
困ったような顔で首を竦めるとーこに苦笑して「いいから、行こうぜ。早くあったまりたい」と促す。
ポケットに突っ込んでいた手も、指先がジンジンする。
手を出して指先に息を吹きかけた。
「・・・まだ手袋買わないの?」
とーこはそう言って、歩き出した。視線は俯いたまま。
その後姿を追いかけながら「ばーさんが買ってくれないんだよ」と笑って答えた。
「嘘ばっか」
「えっ?」
俺が隣に並んでも、とーこは俺を見ようとしない。
違和感を感じて、覗き込んだ。
いつも、目を見て話すのに。
「今、なんて言った?」
俺と目が合うと、とーこは首を振った。
「なんでもない。」
そう呟いて、一瞬口元を歪めた。
再び、胸がざわつきだす。
ざわついて、言葉が見つからない。
だから、俺たちは塾までの道を無言で歩いた。
さくっさくっという雪を踏みしめる音が二人分、シンと静まり返った雪道に広がる。
同じ歩調で歩いているのに、少しずつバラバラになっていく。
そんな気がした。
まるで大きく道が二つに分かれていうような感覚だった。
「・・・なんで受け取ったりしたの?」
それは不意に漏れた、小さな声。
「え?」
聞き返した俺の前で、とーこは足を止めその場に立ち尽くしていた。
その言葉は意識したのでなく、急に溢れ出してしまったようで、とーこ自身が困惑している。
だけどそれが引き金になったように、とーこは言葉を紡いだ。
「あんな酷い捨て方しなくても、いいんじゃない?捨てるんなら、受け取らなきゃいいのに!」
あれを見てたのか。
雪に捨てたのを。
「見てたのか?」
とーこの前に回りこんで、瞳を覗き込んで訊ねた。
悲しそうに見つめ返す瞳に、俺が映る。
自己嫌悪と、本当の自分を曝け出している安心感、それがごちゃ混ぜになったわけのわからない感情。
そんな自分を見るのが嫌で、俺は先に歩き出した。
背中に、とーこの声がぶつけられる。
「いっつもそうなんだから。あれ、もしもあげた子が見つけたら、どれだけ傷付くか・・・!」
振り返って、とーこを見つめる。
その瞳に浮かぶ感情は、怒りだった。
とーこが、俺を本気で怒ってる。
だけど、その瞳の奥で優しさが揺れる。
込み上げていたおぞましい笑いは息を潜め、また温かな何かに変わっていく。
「・・・でも、お前がちゃんと埋めてくれたんだろ?雪の中に、見つからないように」
くすっと笑いながら、とーこの前まで行った。
お節介なとーこのやりそうなことだ。
あれを見つけた時に、そのコがどんな気持ちになるか。
・・・そして、俺が悪く言われることも嫌だったんだ。そうだろ?
「悪かったな、嫌なことさせて。」
なんで、そんな風に俺を守ろうとするんだろう?
結果、傷ついてるのは・・・とーこだ。
「・・・あんたも知ってたはずよ!?あの子が一生懸命マフラー編んでたこと!・・・それに、あの子も必死な想いで告白してきたことも!あんた、今日、何人の女子を泣かせる気!?」
とーこは吐き出すように言って、バックの紐ををぎゅうっと握り締めた。
手が震えている。――違う、全部が震えていた。身体全部が。
「お前もカウントするの?」
そう呟いたときには、とーこの体を抱きしめていた。
一瞬で、とーこが体を強張らせたのがわかる。
「ああ、でも、今年はまだもらってない。」
抱きしめて、腕におさまるとーこに囁くように言った。
ずっと一緒だった。あんなにじゃれあって、いつも手を繋いでいた。
だから?
触れないように、秘かに引いたライン。
それなのに、愛しくて切ない。
ただの懐かしさ?
「・・・今年はくれないの?義理チョコ。」
息を潜めているのを感じ、ぽんぽん、と背中を叩いた。
とーこがチョコを作ったのは、さっきばあちゃんから聞いたから知ってる。
いつも"義理だから"って言いながら、それでも、俺が食べるのを見届けて、ほっとして笑うんだ。
・・・
ああ、毎年、その表情を見ていた気がする。
「・・・お前のチョコは、俺、毎年ちゃんと食べてるよ?知ってるだろ?ちゃんと、お前の目の前で食べてるだろ?」
それが本当は"義理チョコ"なんかじゃないって、気がついたのはもうずっと前。
本命は受け取らない。
貰っても、捨ててしまう。
だけど、とーこからのチョコを捨てたことなんてない。
俯いたまま視線の合わないとーこに焦れて、肩を掴んで顔を覗き込んだ。
とーこは困惑と苦しさがごちゃまぜになった瞳を歪めた。
涙が頬を伝った。
ズキンと胸が痛む。
「こんな・・・・・・・・・・ヤだ・・・」
小さな囁きだった。
まるで喉の奥で零れたような言葉。
「とーこ?」
「今年は、ないよ。あんたみたいな、酷いヤツにチョコなんてあげない。」
「なんで?」
「・・・なんでも!あんたが好きなコのチョコしか受け取らないように、あたしもホントに好きな人にしかチョコあげないことにしたの!」
「だから、俺にチョコ渡さなきゃダメだろ?おまえが好きなのは、俺なんだから。」
その言葉に、とーこが射抜かれたように目を見開く。
直人は残酷だ!と瞳が訴える。
「嫌いだよ!直人なんて、嫌いだ!」
「・・・!」
「嫌い。直人になんて、あげない。」
最後は、搾り出すような声だった。
苦しくて、苦しくて、ようやく言葉にしたような声。
「・・・誰か好きなヤツでも・・・?」
自分の声が震えていることに驚いた。
とーこは、まっすぐ見つめて頷いた。
「そうだよ。好きな人が居るの。」
とーこの瞳に浮かぶのは、拒絶と・・・絶望。
「これ・・・・あんたの手袋が入ってる。今日、預かったのよ。そして、これもね。」
俺が伸ばした掌に紙袋とブルーのリボンがかかった包みを載せ、とーこは一歩退いた。
「よかったね、直人。」そう言って。
有菜のことを言っているのだとわかった。
そして、とーこが必死で距離をとろうとしていることも。
「・・・あんたと一緒。あんたのことが好きだって。・・・・よかったじゃない!直人の長かった片思いも、今日で終わりだ!」
まくしたてるように言って、とーこは歩き出した。
俺を見ようともしない。
どんな喧嘩をしたって、お互い目を見れば考えてることがわかるのに。
意地を張ったって長続きしない。
・・・だけど、そんなのはもうずっと昔のこと。
今は、心が通じない。
「とーこ!」
雪が再び降り出した。
蒼い空間が、音を吸い込んでいく。
「とーこ!」
駆けて、腕を掴んだ。乱暴に振り向かせると、とーこは歯を食いしばって涙を拭った。
視線は、俺の右手に。
有菜からのプレゼントに。
とーこが、有菜からのプレゼントを預かった。
ずっと、それだけはしなかったのに?
とーこは、有菜を選んだのか?
・・・それとも、本当に誰か好きな奴ができた・・・?
「・・・お前が俺以外を好きになるなんて、思ってなかった。」
自分の言葉が耳の奥で繰り返される。
とーこはにっこりと笑うと、バックから何かを取り出した。
「あたしの好きな人は、あたしを好きじゃないの。」
一言一言、静かに言葉を唇に載せ、ラッピングされた袋を持つ手は震えている。
俺はただその手を見つめていた。
「その人は好きなコ以外からは、受け取ってくれないの・・・だから、これは、あの子たちと同じなのよ、・・・・だから、雪に捨てるわ!」
言うなり、とーこはそれを思い切り雪原に放り投げた。
微かに聞こえた音。
雪が降る音さえ聞こえる静かな空間で、それは本当に微かに、だけど確実に耳に届く。
息が止まる。
ガムランボール!?
雪に儚い音が吸い込まれる。
「とーこ・・・・!」
「義理チョコなんて、一生あげないわ!」
とーこは、踵を返して来た道を駆け戻っていった。
俺はしばらくその場所から動けずに、ただとーこの後姿を目で追った。
雪が激しくなり、とーこの姿も見えなくなる。
俺は握り締めていた紙袋と包みに視線を落とした。
その上にも雪が降り積もる。
バックにそれを押し込んで、俺はとーこが袋を放り投げた辺りを見つめた。
真っ白い雪。
何もかも飲み込んでしまう雪。
「くそっ!」
俺は道のない雪原に踏み込んだ。
見つけなきゃと思った。
ただそれだけだった。
ばあちゃんの言葉が不意に蘇る。
『とーこちゃんが、いつまでも一緒に居てくれるなんて思ってるんじゃないよ?』
「まだ、間に合う。」
方法も何もわからない。
自分の気持ちさえわからなくなってた。
それでも、とーこが俺を好きなことは変わらないと思った。
そう、どこまでも残酷に。
だけどまだ、俺は気がつきもしていなかった。
本当に、とーこと離れてしまうなんて。
――雪舞う夜空 ・ 凍える言葉
2008,2,1up