君に繋がる空
18、空まで・・・
こんなに近くに居るのに、母さんの命日以来とーこと顔を合わせていない。
気配は感じてた。
それは言葉にすることが難しい感覚。
少し前なら、それだけで安心できるものだった。
だけど今は。
とーこと俺との間には壁がある。
見えない壁。
傍に行きたいと願っても、手を伸ばしても、その壁の向こうには届かない。
見えているのに、触れることはできない。
氷壁。
空まで伸びる・・・氷壁。
その氷を融かす方法が見つけられないまま、どんどん氷は厚くなっていく。
とーこの手が離れてしまったと感じてから、指先から体温が奪われていった。
もう春も過ぎ、日中ともすれば半袖ではしゃぐ子どもたちだって居るのに。
もう、雪は融けてしまったのに。
心が凍っていく。
寒くて痛くて、心が震えだしそうだった。
心の中で泣いているとーこ。
そのとーこも震えてる。
とーこという温かな存在。
ずっと傍に居てその温かさと一緒だったから、それが当たり前の温かさだったから。
温もりを与えられていたことにすら気づかなかった。
どうすればまたあの温かさに触れることができる?
とーこを温めることができる?
傷つけたのは俺なのに、凍りつかせたのは俺の所為なのに。
氷の壁。
手を伸ばしても、痛みだけが増す。
『それでね、連休もずっと練習あったでしょう?だけど、最終日の明日だけ、部活お休みになったの!』
受話器越しの有菜の声は嬉しそうに弾んだ。
5月の連休、休み前はあれこれ希望を言ってた有菜だったけど、結局部活で何も出来なかった。
『ツマンナイ・・・』と寂しそうに呟いていたのが昨日。
部活が休みになったことが余程嬉しかったんだろう、声だけで喜びが伝わってくる。
有菜はその表情や言葉で、感情を表すのが上手い。
周りにいる俺たちはそんな有菜の"嬉しい""楽しい"という笑顔に思わずつられてしまうし、"寂しい""ツマンナイ"という表情や言葉には、つい手を差し伸べてしまうのだ。
電話越しとはいえ、有菜の"嬉しい"という気持ちは思い切り伝わって、思わず微笑んでしまう。
・・・なのに、胸がちくりと痛んだ。
『直人君、明日って時間ある?』
「明日・・・」
『何か予定あった・・・・?』
胸の痛み、それは――罪悪感。
『・・・直人君・・・?』
一瞬、有菜の言葉がとても遠くに聞こえた。
泣き出しそうな声に慌てて答える。
「明日・・・久しぶりに陽太たちとバスケしようって。・・・それでもいい?それともどこか行きたかっったぁっっ・・・!」
それまでもわざと伸ばされた足で蹴るフリをしていた大きな足が、わき腹に蹴りを入れてきて思わず息を止めてうずくまる。
『え?何?どうかした?』
子機を肩で挟みソファーのクッションを掴んで次の蹴りを防ぐべく身構える。
そんな俺の様子をくすくすと笑う声が足元から聞こえる。
長い足を伸ばして、開いていた参考書で口元を隠しながら笑っている。
舌打ちしたくなる自分を抑えて、わき腹をさすった。
「なんでもない、よ。」
『・・・そう?・・・バスケってどこでやるの?』
「高校の真向かいにある市民グラウンド。ストリートバスケのコートあるの知ってる?」
『あ!うん!知ってる!!』
「一応10時集合予定なんだ。一日借り切ってるから・・・」
『わぁ、それじゃあ、有菜お弁当作って行くね?後は?誰が来るの?』
「中学の時のバスケ部のメンバー。先輩たちとか・・・10人くらいかな・・・雄介にも声かけるつもり。」
『ねえねえ、とーこちゃんは?呼んだ?』
俺は思わず息を止めてしまう。
ソファーから投げられたクッションも視界の端には入っていたのに、避けることもできなかった。
頭に直撃して、そのまま床に落ちた。
『呼んでいい?とーこちゃんも!』
ぽすんと床に転がったクッションを見つめたまま、声が出せなかった。
出せなかったんじゃなくて、出てこなかった。声が喉に張り付いたように。
『これから電話してみるね?』
「・・・」
『直人君?』
「・・・ん、わかった。」
それでもなんとか声が出せてほっとする。
受話器の向こうから『じゃ、明日ね!』と弾んだ声が響いた。
俺も子機の通話ボタンを切りそのままソファーに座った。
向かいのソファーに寝転びながらクッションを投げてきたシンが起き上がり「中谷?」と訊ねる。
テーブルに置かれたカップに口をつけた拓が「直人?」と俺を覗き込む。
声は聞こえていたけれど、神経の繋がりが悪いように「ああ」とただ頷くだけの答えも時間がかかってしまった。
「有菜ちゃん、明日来るの?」
拓が参考書を閉じて机の上に置いて、俺のほうに向き直った。
俺は「うん」と頷いて、ようやく子機をサイドテーブルの定位置に戻した。
シンもソファーからずり落ちるようにしてテーブルの前に座り、コーヒーカップを手に取る。
「・・・・・・・俺すげえ複雑なんだけど?」
一口飲んで「砂糖も一個ちょうだい」とシンは顔を顰める。
俺は苦笑しながら立ち上がり「・・・お子ちゃま」と小さく呟く。
「いいんだよ、甘い方が。俺の口っていっつもきっついんだからさ」
「甘いの飲んだって、変わんねーじゃん。口の悪さなんて」
拓がくくくっと笑って、俺が渡したスティックシュガーを入れてやってる。
そういえば、シンは昔から甘党だった。
チョコが大好きで。
小学生の頃は、バレンタインの後は毎日遊びに来てた。
中学に入ってバスケを始めてからは遊びに来ることもなくなって。
こうして俺の家にこの二人が来るなんて、凄く久しぶりだった。
拓が高校受験時に、バスケの強い工業でもなく泉峯でもなく、商業高校を選んだときには驚いた。
私立から推薦の話もあったのに、すっぱり断って。
本当は高校出てすぐ働くつもりだったらしいけど、結局進学することに決めて。
こんなとこまで来て参考書を開いてるのはその為だ。
男子の絶対数が少ない学校だったけど、同好会程度にバスケを続けてる。
『バスケやるぞーメンバー集めろよ!』
シンから連絡が来たのは連休半ば。
聞けばすでにコートも借りてあるという。
『練習試合が3日にあるんだよ。この辺りの高校合同で。ってことは、連休の最終日、部活休みのとこ多いんじゃねーかな?って思って。』
そして前日の今日、昼過ぎにシンは拓と連れ立って来た。
久々のメンバーに、ばあちゃんがやけに喜んだ。
「まだ別れてなかったんだな」
シンが2本目のシュガーを入れるのを見て、俺は肩を竦める。
「別れるもなにも・・・」
俺と有菜が付き合ってると言っても、何かが大きく変わったわけじゃない。
中学の延長線上のような会話、それに有菜の部活がない日に一緒に帰る程度で。
日曜に1度映画に行った。フルートのレッスンがあったから、軽く食事して。それだけだ。
後は・・・週に数回電話がかかってくる。
そして、毎日「嬉しい」と腕にしがみつく。
その笑顔は、とーこが守ろうとしていた笑顔。俺も大事にしなくちゃと思う。
だけど・・・・罪悪感も同時に湧き上がる。
俺は両手を投げ出してソファーに沈み込んだ。
"別れるもなにも・・・付き合ってるっていえるのか?"
そんなの言い訳だ。
"付き合ってる"ことに変わりない。
「中谷ととーこって友達なんだろ?もう知ってるよな。とーこも。」
拓が考え込むように言って、ちらりと俺を見た。
『呼んでいい?とーこちゃんも!』
俺の前ではそんなにとーこのことを話題にしない有菜だけど、雄介には「とーこちゃんいないとツマンナイ〜」とぼやいてるらしい。
高校に入って、まだ1回しか遊んでいないと言っていたから、嬉しそうな声になるのは仕方ない・・・けど。
目を閉じると氷の壁が立ち塞がる。
とーことの間に出来た壁。
最初はほんの薄い、手を伸ばせば融けてしまうような氷だったのに、今はなんて厚い。
また氷の壁が厚くなるのを感じた。
どうすればいいのかわからない。
俺が口元を覆っていると、拓が溜息混じりに呟いた。
「直人、お前さ、とーこが周囲にどんな目で見られてたか・・・知らないんだな。」
「・・・なに?」
「・・・明日わかるんじゃねえ?」
拓の問いかけに似た呟きをシンがぶっきらぼうに遮り、そのまま天井を見上げた。
「な・・・んだよ?」
とーこが?何?
「それでわかんねーんだったら、もうしょうがねえよ。」
「俺たちも、たいがいお節介だよな」
二人はそう言って、まるで呼吸を合わせたかのようにほぼ同時に立ち上がった。
「明日、遅れんなよ?」
シンはそう言って、俺の眉間に指を突きつけた。
玄関先から「もう帰るのかい?」というばあちゃんの声に「また来ていい?」と小学校の頃のように拓が答えた。
「嫌味な奴だな。・・・あんま見せ付けてくれるなよ?俺、今傷心なんだからな!?」
ふてくされたように俺を見上げた陽太に、修が「なんも言ってねーじゃん」と小突いた。
陽太と修とゆっくり会うのも、久しぶりだった。
二人は工業でバスケを続けてる。
陽太の身長はまた伸びた。
その大きな体を折り曲げるようにして靴紐を結びながら、陽太は恨めしそうに続けた。
「あーあー、高校入ったと同時に付き合いだすなんてあり?そりゃあ、直人が有菜ちゃん大事にしてたのは知ってたけどさー」
結び終えた両手を頭の後ろに組んで、陽太は唇を尖らせた。
「・・・有菜ちゃんがお前好きなことも知ってたし・・・俺。」と寂しそうに付け足して。
「しょうがねえだろ?お前告れなかったんじゃん。卒業式にさ。」
修が肩を叩いて立ち上がり、ボールを持ってコートに入る。
陽太はぐっと言葉に詰まったように口を噤んで立ち上がると「・・・泣かせんなよ?」と俯いた。
あんまり小さな声だったから、俺は「え?」と聞き返した。
「だ・か・ら、有菜ちゃんを・・・」
「?有菜がどうかした?」
陽太の大きな背中の向こう側から、有菜がぴょこんと顔を出した。
「おはよ!直人くん、晴れてよかったね!」
「おはよ。」
眩しいほどの笑顔の隣を見て、ほっとする。
有菜は一人だった。
とーこは居ない。
ふわりと笑った有菜に陽太は真っ赤になって固まった。
初めて出会った日と同じ。
「佐々木くん、久しぶり〜。わあ、またおっきくなった??」
左手を上に伸ばして見上げる姿は、大きな熊と女の子。
「森のくまさんだな」
俺の隣でくすっと笑って、修が呟いた。
「・・・本当だな」
そこは暖かな日差しが降り注いでいるようで。
俺がもう失くしてしまった、陽だまりのようだった。
手を伸ばしても、もう俺の手にはその温かな光が届かない気がした。
――18、空まで・・・
2008,2,9up