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君に繋がる空

  
24、夜空に還す星 −3−





自分の中に、こんなに大きな感情があるなんて知らなかった。
自分ではコントロールできない感情。

とーこにとって、どうすることが一番苦しめずにすむのか考える自分と、苦しめてでも手に入れたい自分。
穏やかなだけじゃない"愛しい"という気持ちに否応なく支配される瞬間。
他の誰にも感じないただ激しいだけの感情に、揺さぶられる。
上手くコントロールできない感情は、傷つけるだけなのに、その方法がわからずに焦るだけ。

小さなボクが寄り添う。
泣いているとーこに。

それがまた、俺を苦しめる。




乗るのが困難だった電車は、降りる時はもっと困難で、小さな有菜は奥へ奥へと引き込まれて行きそうになる。
期末試験一日目、俺たちは混みあう電車の中で身を捩ってホームに降りようとしていた。

「ちょっ、降ります!」
有菜の後ろにいた雄介が声をあげて有菜を後ろから押し、俺はその手を掴んでドアの方へ引っ張った。
なんとかドアの閉まるぎりぎりで駅に降りることができ、思わず安堵の息が零れた。
「・・・このまま山越えるのかと思った」とシャツの胸元を掴んで空を見上げる雄介に「ホントだよ」と苦笑した。

「とーこちゃん!」

有菜が嬉しそうに声をあげて歩き出した。先程繋いだ手はそのまま、改札口の前を通り過ぎて懐かしい顔の揃う場所へ向かう。
手を振りほどくことも出来ず、引きずられるようにして歩く俺の視線は、とーこを捕らえた。

浮かべた笑顔が強張っている。
そして、凍りついたような顔で息を飲むのがわかる。
その視線が、俺たちの手を見ていることに気がついた。

そんな顔・・・!

痛み出す胸。
だけど、その表情が何を意味するのかを知って、嬉しく感じる自分が居る。

手が、今すぐとーこを捕まえたくなる。
もうずっと前に離してしまったとーこの手を、ずっと求めていた小さなボク。
必死に手を伸ばして、あの感触を求める。
ただ繋がっているだけで、あんなにも安心できる手。

悲しく揺れるその瞳に、本当のことを打ち明けたいという衝動がこみ上げる。

冷やかすような陽太の言葉に有菜が慌てて掌を放した。
俺は空いた掌をぎゅっと握り締める。
そうしないと伸ばしてしまいそうになったから。とーこの手に。
そんな自分を誤魔化すように、陽太に悪態をついて笑って見せる。
でも、会話はどこか遠くでなされ、頭の中には入ってこなかった。

縮まらない距離。
これが俺たちの間にできた・・・氷壁。
その現実に足が竦む。

「でも、一本前はもっと混んでたんだよ、な、直人」
俺の背後から雄介の声が近づいて、あっという間に越えて行った。
躊躇してしまって動けない俺と違い、今までと変わりなくとーこに笑顔を向ける。
そんな当たり前のことができない場所にいる自分が信じられずに、少し離れた場所に立つ二人を見てた。
「つーか、お前らくっつきすぎ!はい、離れて離れて!」
動けずにいる俺を陽太が押しのけ、俺は二人の正面に立った。

耳に入る言葉に適当に頷いていたけれど、俺の神経は全部とーこに向けられていた。
話しかけられて、弾かれたように雄介を見上げた表情は、どこかほっとしたような顔。
何を話しているのかわからなかったけれど、少しずつ緊張が解けていくのが伝わる。
俺は視線を逸らせずに、雄介ととーこを見つめてた。
空を見上げるとーこは、そのまま空に解けてしまいそうな気がした。

「直人君、久しぶり」
斉藤が俺に話しかけてきたけれど、俺は上手く言葉が紡げずにいた。
肩が震えだしたのを感じて、だけどどうしてやることもできずに立ち尽くす。

不意にとーこが斉藤に向かって歩いてきて、その肩を叩いて告げた。
「そろそろ帰ろっか。勉強しなくちゃ!」
「そうだね、まだテスト初日だもんね。」
「これから帰って、勉強、勉強」
斉藤に向かって肩を竦め、泣き出しそうな顔で笑う。
・・・俺がバレンタインに斉藤からのプレゼントを雪に捨てた時・・・・・とーこは本気で怒ってた。

放っておけないんだ、いつだって、とーこは自分の痛みを隠してでも・・・。
その行動が、俺自身も救い上げているなんて、とーこは気がつかないだろう。

「それじゃ、お先に!」
無理に作ったとわかる笑顔でそう言って、とーこは斉藤を促すようにした。
「と・・・」
「とーこちゃん!待って!」

意図せずに名前を呼びかけた俺より先に、有菜が名前を呼んで腕を掴んだ。
「この前電話で話したでしょ?私、携帯持ったの。番号とメルアド書いてある。」
「了解」
有菜が渡した紙片に目を通し、とーこはカバンの中に入れた。
一度引かせてしまった声は、もう喉の奥に張り付いて声にならなかった。
すぐに始まったメルアドの交換に、とーこは一歩後ずさる。

「何これ〜直人と有菜じゃない!あっつーい!」
田中が大きな声をあげて、有菜の携帯画面を覗き込んだ。
この間携帯で写した俺との2ショット。
あの後、有菜はその画像を見ながら笑って言った。
『これで、卒業できるかな。直人君から』
涙を堪えて笑った有菜。

「えへへ。雄介に撮ってもらったの〜」
あの日の有菜を思い出して視線を移すと、有菜も思い出したのか舌を出して少し照れたように笑った。
「あーはいはい、有菜ちゃん、俺にも教えてよ。って、そういえば、直人も持ったんだろ?お前、なんで俺に教えないんだよ〜!」
陽太は腕で俺のわき腹を小突いて言った。
俺は携帯を取り出しながら「うるせーよ、陽太。あ、有菜、そいつには教えなくていいからな。」と返した。
「ホント、ひでーよ。直人!」と喚く陽太と修に向き直る。

「それじゃあ・・・」
帰りかけたとーこが息を飲むのがわかった。

俺は、わざと携帯のストラップを揺らした。
とーこの視線が、何を捉えたのかわかったから。

ゆっくりと、俺はとーこに視線を合わせた。
手で口を塞ぎ、その二つの瞳は俺の手元を凝視していた。
だから俺は、指先に携帯ストラップを絡め再び揺らした。

「・・・!」

俺は揺れていたガムランボールを携帯ごとぎゅっと掴んだ。
これが何か、とーこにわからないはずがない。
あの日、雪に捨てたガムランボールが、俺の手にあるという真実。
苦しそうに顔を顰めたとーこに、小さなボクが泣き出したのを感じた。
自分の中の冷たい感情に支配されていく。

絶対に、放さない。

ガムランボールは、俺ととーこを繋ぐ物。

蒼白になったとーこが、逃げ出すように改札をくぐった。
とーこに向けた冷たい視線は、自分自身に戻って胸に突き刺さる。
足早に歩くとーこをじっと見つめ、俺はただガムランボールを握り締めていた。

「直人?」

陽太の声にようやくみんなの方へ顔を向けた。心配そうに覗き込んできた陽太の隣で、有菜が「ごめんね」と小さな声で呟いた。
俺は無言で首を振り、携帯を見つめた。

コントロールできない感情が胸の中で渦巻いている。

とーこの瞳に・・・俺への感情が見えてしまったから・・・。
とーこの中で捨てたはずの想いが、一気に溢れていくのがわかった。

とーこが俺を拒絶して、嫌ったのなら・・・
いっそ諦められるだろうか?





* * *





明日で期末試験も終わる。
これ以上、試験中にとーこを追い詰めるような真似をしたくなくて、電車の時間をずらして乗った。
だから、あれから顔を合わせていない。

「ごめんね。まだ試験中なのに」
有菜が申し訳なさそうに呟いて、頭を下げた。
「いいよ。雄介にも頼まれたし。・・・楽譜、あってよかったな?」
有菜の持つ袋を指差すと「うん!これで次のレッスンに先生に相談できる」と有菜は嬉しそうに首を傾げて袋を見た。
「・・・でも、本当にごめんなさい。変な人に付きまとわれるからって・・・こんなとこまでつき合わせて。」
「雄介の予定がずれちゃったんだから、仕方ないって。」
俺が肩を竦めると、有菜は「ありがとう」と言って「・・・本当は、もうこんな風に甘えるのやめようって思ってるんだよ?」と呟いた。
「わかってる」俺はそう言って有菜の頭をぽんぽんと叩いた。
「虫除けにぐらいには、なってやれるから」
俺の言葉に、有菜がふわりと笑う。

今なら、この笑顔が母さんに重なっていたんだってわかる。
有菜の甘い香りも、どこか壊れそうなイメージも、母さんに重なっていた。
だから守りたいと思ってた。

「やっぱり人が多いな。」

乗り継ぎの電車が着いたんだろう。
急に乗車率が上がって、ドアの前にいた俺たちも奥にずれる。
もうすぐ発車時刻だ。
次々に人が飛び込んでくる。
発車ベルが鳴り、ドアが閉まる寸前――その二人は電車に飛び乗ってきた。

「よかった、間に合わないかと・・・」
「ギリギリセーフ。」

その声にすべての神経が引っ張られた。
そうして振り返る。
肩で息をしながらドアに寄りかかって、笑い合う二人。

「遅いから、迎えに行こうかと思ってたとこだった。」
「学習室の時計が遅れていたみたいで、さっき自分の時計見てびっくりしました。」
「第一の時計って、なんでか少しだけ遅れるんだって。」
「そうなんですか?」

掴んでいた手すりをぎゅっと握り締めた。
それは、久しぶりに見た笑顔で。
その笑顔を見ただけで、胸が痛いほど騒ぎ出すのがわかる。

大好きな、ずっと見たかった笑顔。
とーこの笑顔。

だけど笑顔が向かう先は、俺じゃない。
敬稜の制服を着てメガネをかけた、俺の知らない男。

拓から名前を聞いていた。
直感した。あいつが坂本 司、だ。
あの後、同じ中学だった奴らからも幾つか噂話を聞いた。

俺はそこに張り付こうとする視線を無理やり剥がして、顔を背けた。
楽しそうな二人の声に耳を塞ぎたくなる。
それまで想像していた以上に、そいつは大人っぽく、とーこが安心したように話に耳を傾け応えているのがわかった。
目を閉じて追い出そうとするのに、とーこに向かう感覚が研ぎ澄まされてそれを許さない。

「あのね、第1って恋人たちがよく使うんだよ。ほとんどそうじゃなかった?」
「そう言われてみれば・・・」
「もう少し一緒に居たいっていう、そんな気持ちが、あそこの部屋の時計を遅らせる・・・って、去年司書の人が言ってたよ」
「ホントですか?」

他愛もない話の中に、どこか甘い響きが宿っている。
そして囁くような声は切なそうにくぐもって聞こえた。

「誰かと一緒じゃないって訊いて、ほっとしたんだ・・・」
「司さん?」
「今度は、第1で・・・一緒に勉強しようか?」

切羽詰ったような声に、また振り返ってしまう。流れるような動作でメガネを外し、とーこに微笑みかけるその瞳に息を止める。
とーこの顔は見れなかった。
見つめる瞳に自分が映っていないことを確認するなんてできなかった。

「直人君?どうかした?」
有菜の声にはっとして、小さな声で心配そうに覗き込んでいる有菜に俺は首を振った。
「なんでもないよ」
「でも、なんだかツラソうだよう?」
有菜はきょろきょろと辺りを見回し「席、譲ってもらおう?」と俺のYシャツを引っ張って囁いた。
「大丈夫、ちょっと考え事してただけ」
そう答えて、片手で口元を覆った。唇が震えるような気がしたから。
有菜は怪訝そうにしながらも「席空いたら座ろうね?」と背伸びをして言った。
「ああ、そうだね」
呟いて、俺は手を外して笑って見せた。有菜の顔から不安そうな色が消えて「うん」と頷いた。

電車が大きくカーブして、それまで胸元で小さく揺れていたガムランボールが大きく揺れた。
その音色は、小さなボクが泣く声に聞こえた。
思わず胸の上で揺れるガムランボールを握り締めて音を消した。

大きなブレーキ音が車内に響き、次の駅に着いた。
俺はただうな垂れて、振り返ることも出来なかった。
また人が多く乗り込んできて手すりに掴まりたかったのか、俺の横から手を伸ばす女の人が居て、俺はずれてその場所を譲った。
有菜も少し奥に押されたようだ。
「あ、やべ!」
大きな声に振り返る。人を乱暴に掻き分け男が扉に向かうのが見えた。
「!」
あっ、と思った時には、体が動いていた。
男がとーこの肩に思い切りぶつかってホームに降り、とーこも引きずられるように外側へ傾いだ。
落ちてしまう!
「っ!」
腕を伸ばし、とーこのウエストを抱えた。
俺だけの力じゃ落ちていた。だけど、もう一つの手がとーこを引っ張りあげるのを感じた。
「すみませんっ」
押しのけてしまった女の人に小さく呟く。

「危ないだろ!」
とーこにぶつかった男が、閉まるドアの向こうで怒鳴りつける。
とーこの体が小刻みに震えた。
強く抱きしめそうになる指先に、それとは反対の力を加えてゆっくりと腕を解いた。

ダメだと頭の奥で声がするのに、俺はとーこに手を伸ばした。
左手に指を絡めて掴んだ。

ぎゅっと強く。

緊張して固まった手が、ぴくりと指先だけ動き・・・多分無意識に動いた。――まるで握り返すように。
繋がった部分から、とーこの感情が流れ込んでくる。
戸惑いと不安、そして懐かしさを伴う痛み。
とーこは恐る恐る顔をあげ、俺を見上げた。

怯えないで・・・!

ただそれだけを願った。
とーこの手が俺の心臓を握っているような、そんな錯覚に陥りながら。

「なお・・・・」

開きかけた唇。今にも泣き出してしまいそうな瞳。

「どうかした?」
震えるとーこを覗き込む瞳に、その言葉は飲み込まれる。

とーこは視線を逸らし俺の手を振り払おうと、強く引いた。
とーこの指先が冷たくなっていく。その事実は俺の心を冷たくしていく。
いつも温かくしてくれた手が、今は冷たく――。

絶対に放さない。

「とーこちゃん!」
有菜が顔を上げ、とーこに向かって声をかける。
瞬間、とーこの手が先程よりも緊張して強張るのを感じた。

有菜は気がついているんだろうか?俺がとーこの手を掴んでいること。
気がつかれても・・・放す気はなかった。
俺はまっすぐに顔をあげ、とーこを支えるようにしている男を見た。
その瞳はとーこを優しく見下ろし、話しかけている有菜にも同じように向けられた。

「同じ中学のコ?」
「はい、同級生・・・」
とーこの顔が曇るのをそいつも見逃さなかった。
「塔子ちゃん?」

名前を呼ぶ声で、とーこにどんな感情を持っているのかわかる。
"愛しさ"だ――。

また、指先に力が入る。

それから駅に着くまでの長い時間、俺はとーこの手を放さなかった。

「それじゃあ、坂本さん、また」
有菜は言って先に降りた。まだ見つめている二人に、俺は降りてすぐにとーこの腕を引いた。
「ちょっと・・・!」
男の顔が、何かを悟って目を細めた。
俺に一瞬向けた瞳は、剣呑な光を含んでいた。

「塔子ちゃん、君が泣いた訳は・・・」

零れた言葉に、とーこが凍りつく。
扉越しの瞳は、あきらかに俺を見据えていた。

誰にも理解されなくていい。
それでも。
自分ではコントロールできない感情。

とーこにとって、どうすることが一番苦しめずにすむのか考える自分と、苦しめてでも手に入れたい自分。
穏やかなだけじゃない"愛しい"という気持ちに否応なく支配される。
他の誰にも感じないただ激しいだけの感情。

上手くコントロールできない感情は、傷つけるだけ。


本当はわかっていたんだ。
いくらこの手に力をこめても・・・もう昔に戻れないということは。





――24、夜空に還す星 −3−

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