「今日で終わりだね。勉強はできた?」
あたしが座ると司さんはあたしの前に立ったまま尋ねた。
ラケットケースを肩からかけて、つり革に手を通して掴んでいる。
「結果はわからないですけど、とりあえず、できるだけのことは。」
上半身を曲げるようにしてあたしを見下ろす司さんに、「座らないんですか?」と隣の椅子を指さして尋ねた。
真っ直ぐ見つめられるのがなんだか恥ずかしかったのに、司さんは首を振って「このままでいいよ」と笑った。
今日は教科書を広げる気はないということだ。
でも、司さんはあれこれ聞き出そうとはしなかった。
メガネをかけている司さんは、上手く気持ちを隠してくれていた。
あたしはそんな司さんに感謝して、もう一度「座ってください」と椅子をぽんぽんと叩いた。
「その方が、安心します」
あたしの言葉に、司さんはちょっと嬉しそうに口元を緩めて「じゃあ座ろうかな」とラケットケースを下ろして座った。
あたしたち以外の高校生は、みんなノートや単語帳を眺めたり、壁や窓に寄りかかりながら眠っている。
ちらちらと盗み見られるのは、余裕があるように見えるのだろうか。
それとも、司さんを盗み見ているのかもしれない。
司さんも視線に気づいたようで、「僕たち、きっと随分余裕あるように見えるんだろうね。」と囁いた。
本当は、結構崖っぷちだったりして。
悪戯っぽく笑う司さんは、ちっとも崖っぷちなんかじゃないって誰でもわかる。
「でも、期末が終わっても、また試験なんですよね」
「うん、明後日。」
「合否って、いつ頃わかるんですか?」
「8月の2日・・・3日だったかな?んーもっと遅かったかな・・・」
「2週間後ですね。」
「その後オリエンテーションがあって、10月の頭には向こうに行くんだよ。」
「新年度が微妙にはじまってますよね?」
「そうだね。でも、受け入れるほうも少し落ち着いた10月くらいがちょうどいいみたいだね。」
「10月・・・」
小さく呟いて、目を閉じた。
直人の誕生日、10月5日。
その頃、あたしは、ここには居ないかもしれないんだ。
乗り換え駅に到着して、立ち上がりかけたあたしの手を司さんが掴んだ。
「?」
そして、そのまま座っている彼のほうへ引寄せられた。
「?」
あたしたちの脇を次々と人が通りすぎていく。
降りる人の邪魔にならないように司さんに一歩近づいて、あたしは不思議に思いながら少し俯き加減の司さんを見下ろした。
「司さん?」
「・・・・」
「どうしたんですか?」
あたしの問いに、司さんはようやく顔をあげた。
「今日から部活、だよね?」
「はい。司さんもですよね?」
ラケットバックを見て、司さんに視線を戻す。
その視線を絡めとるように司さんは頷いて、にこりと笑った。
「ランチ、一緒に食べよう?今日は天気も良いし、屋上で。どう?」
「いいですよ。」
「部活終わったら図書館で勉強していかない?」
「はい。今日は練習早く終わるから、実はそのつもりでした。」
「・・・第一で?」
悪戯っぽく笑う司さんだったけど、掴んだ手に力が籠るのがわかった。
胸がチクンと痛む。
「・・・・・・・・・あたし、ズルイ・・・」
大きな温かな手に視線を落としながら、無意識に呟いた。
あたしは、ズルイ。
司さんの優しさに、甘えている。
自覚してしまうと、それは罪悪感に変る。
『好きじゃなくても、付き合えるんだ?』
昨日直人に言われた言葉が、その気持ちに拍車をかけた。
「いいんだよ。」
小さな声だった。
いつもより、ずっと低い、それでいて優しい声だった。
「塔子ちゃんと初めて話した日、「ぼくの肩、いつでも貸してあげるよ?」って、言ったよね?」
覚えてる?
椅子に座ったまま、あたしを覗き込むようにして司さんは尋ねた。
あたしはこくんと頷く。
「あの日言ったのは・・・本心からだから。塔子ちゃんになら、いつでも貸してあげる。僕でいいなら、いつでも。」
再び握られた手に力が籠る。
「だから、ずるくていいよ」
そんな風に言わせる自分が、酷く嫌な人間に思えた。
それでも、手を握る司さんの温かさはあたしを特別な何かに変えていく。
あたしでも、いいんだろうか?
「塔子ちゃん?」
「・・・・・第一で」
喉に張り付いていたような、掠れた声にあたしが一番驚いた。
搾り出すような声に、あたしは自分を励ましながら、司さんを見つめた。
あたしは司さんの手をそっと握り返して。
「一緒に、勉強しましょう」
言って、笑うことができた。