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雪に捨てたバレンタイン





星空の下で、さよなら  ― 16 ―








鏡の中のあたしの両肩には、直人の指の痕が赤く残っていた。

どれくらいの力を加えたんだろう?
こんな痕を残すなんて・・・直人がこんな風にあたしに執着するなんて。
好きだ、と言うなんて。

そっと赤い痕を指でなぞる。

「・・・っつ」

鈍い痛みが甦り、目を細めた。
あたしは鏡の向こうの自分をじっと見つめる。
見つめた先のあたしが、唇を見つめた。
どくん、と心臓が一際強く打つ。
唇に直人の感触が残っていた。
血の味も。
肩なんかより、ずっと強い痛みが胸を突く。
指先で唇に触れると、鼻の奥がツンと痛んだ。
瞳の端に涙が滲んできて、あたしは唇を噛んだ。

ナオトガ、キスシタ

――苦しくて、悲しくて、切ない。
"大丈夫"なんかじゃない。
ココロがイタイ。





「キス、ってさ、どんな感じなんだろうね?」
「え?何?有菜?」

夏季限定のメロンソフトクリームを受け取りながら、有菜の言葉に危うくクリーム部分を地面に落としそうになって、あたしは慌ててコーンを持つ手を動かしてバランスをとった。
「セ、セーフ・・・!」
まだ一口も食べていないのに、床に落としてしまわなかったことに、ほっとして脱力する。
でも、すぐに有菜の発言を思い出し、すでに彼女のお気に入り、チョコソフトを食べている有菜の顔をまじまじと見つめた。
有菜はきょとんとした表情で、「どうかした?」と小首を傾げている。
どうかした?はこちらの台詞だ。
中学最期の夏休みを前にしたあたしたち3年生は、確かにちょっと浮かれていたけれど、その手の話しにあまり興味がなさそうだった有菜からの言葉に、あたしは一人驚いて取り乱してしまった。
先日の男子の賭けといい、受験とか、そんな心配はみんなどこかへ忘れてきたんだろうか?

「何、有菜、突然」
「え?だって、直美ちゃん学くんとキスしたって言ってたから」
とーこちゃん知らなかった?

そう言われて、あたしは「ええ!?ホント?」と思わず大きな声をあげてしまった。
小さな店内にはあたしたちの他にも数人の女の子が居て、あたしは一斉に視線を集めた。

「後輩の、だよね?付き合いだしたって聞いてたけど・・・」

あたしは苦笑して有菜の隣に座ると、気持ちを落ち着かせようとソフトクリームのてっぺんを舐めた。

「直美ちゃん、凄く今日可愛かったよね。で、ね、心臓が口から飛び出しそうになったって言ってた。」
「あたしも今、アイス落ちそうで心臓飛び出すかと思った」
「あはは。うん、とーこちゃん凄い顔してた!」
「だって、有菜が急に"キス、ってどんな感じ?"なんて言うんだもん」
「え、だって、思わない?直美ちゃんね、あの後輩君別に好きじゃないって言ってたんだよ?2年になんか興味ない!とかね。だけど、昨日キスしてから気になって仕方ないって、凄い可愛い顔して言うんだよ?」

有菜の表情は、その時直美ちゃんが見せたという"凄い可愛い顔"もこんな感じ?、と思わせる可愛らしさで、頬を染めている。
ああ、いいな、キスの話で頬を染める、有菜のこんな可愛いとこが、あたしは大好きだ。

「ね、とーこちゃんは、キスしたことある?」
「え?ないよ。」
「ホント?とーこちゃん、なんでも知ってそうだからなあ。・・・どんな感じなんだろう?ね?」
「う〜ん・・・??」
「やっぱり、凄く、嬉しくて幸せな気持ちになるのかな?」
「好きな人となら、そうなんじゃないの?」
「とーこちゃんは?誰とならキスしたい?例えば・・・直人くんとか?」
「ちょっ!有菜?なんでそういうことになってんの?」
「だって、とーこちゃんと直人君て、ずっとずっと一緒でしょう?小さな頃とか、結婚の約束とか、キスの真似っことかしなかった?」
「ないない、そんな可愛い思い出ない。いつも一緒に走り回ってたもん。」

興味津々・・・と顔にくっきり書かれた表情。わくわくしたような瞳。
だけど、その奥で小さく不安そうに揺れているものが見えた気がした。

「ファーストキスは、多分、昔飼ってた猫ちゃん。直人とキスなんて考えたこともなかった」

考えたこと、ない。
そういう対象じゃないって、一昨日だって言われたばっかだ。
関節キスなら、しょっちゅうあるけれど・・・。
言葉にしないであたしが笑うと、有菜はほっとしたようにアイスを眺めた。

「・・・好きな人とするのが、本当のファーストキスなんだよ。なんだか考えただけでドキドキする・・・直人君は誰かとキス・・・とか、もうしたのか・・・な・・・?

後半は真っ赤になって口の中でごにょごにょと言う有菜があんまり可愛くて、あたしはくすっと笑みをこぼした。
この間、男子が『誰が先にキスするか』なんて馬鹿な賭けをしてたなんて、有菜には言わない方がいいだろう。
キスどころか、誰がこの夏にオトナになるか、なんていう女の子ならドキドキしちゃうようなことも、賭けの対象にしちゃうんだから。

『直人はいいよな、いつでも誰でもOKなんじゃね?』
『あ、とーことかナシな。賭けだって知ってんだから』
『何、ソレ。あたしも一応オンナノコなんだけど、そういう乙女の気持ち踏みにじるような賭けなんか聞かせないでよ』
『乙女ってどこどこ?』
『あのねッ・・・!』
『とーこは対象外。俺、そんな賭け参加しねーもん。それに・・・』

涼しい顔で笑いながら、直人は言った。
あたしは笑って聞いてたけど。
ああでも。

「直人は、好きなコとしかしたくないって言ってた・・・」

思わず口にして、有菜の期待に満ちた瞳があたしに迫っていて驚いた。
言外に「それで!?」と急かされているように感じて、あたしは後ずさりながら言葉を繋いだ。

「だから、多分、誰ともキスしてない・・・と思う。」

ぱっと花が咲いたように笑った有菜は、罪のない笑顔で「今キスしたら、チョコ味だよね!」と呟いた。






直人と有菜は、あれからキスしたんだろうか?

「対象外って言ったくせに」

ああ、これも「なんでもない!」って言えたらいいのに。
直人のキスは、あたしを黙らせる為のキスだった。
あたしのファーストキス。
"好きな人"とした初めてのキス。


『やっぱり、凄く、嬉しくて幸せな気持ちになるのかな?』

ううん、切なくて、苦しくて、悲しかったよ。


あたしはついに流れ落ちてきた涙に、カランのレバーを下げた。
少し熱めのお湯が降って来て、少しづつぼやけていく鏡の中の輪郭を見つめる。

失恋できなかったあたしは、なんて間抜けなんだろう。
嫌いになれたら、どんなにいいだろう。
どうして嫌いになれないのか、それすらもわからない。
直人が、あたしを好きだと言ったあの時、有菜を想って苦しかった。

―それでも心の片隅で。
込み上げた気持ち。

重なった唇から、脳内に流れ込んだ痛み。

甘い痛み。

ほんの少しでも、一瞬でも、嬉しいと想ってしまったあたしは。

「ホント、馬鹿だ」

シャワーに打たれながら、あたしはその場にうずくまって泣いた。





眠れずに迎えた朝は、それでもベットから起き上がることができず、あたしはただ天井を見上げていた。
目を瞑ると、直人の頭の重さを肩に感じて胸が苦しくなる。
重ねられた唇が、目を閉じた直人の顔が、悲しげな瞳が甦り、あたしの意識下に入り込む。
だから目を瞑ることができなかった。
これ以上はないと思うくらい、自分が嫌いになっていた。

有菜を裏切りたくないなんて言って、それでもやっぱり直人のことを考えて。
・・・苦しくて逃げ出して、もうこれ以上は耐えられないって手離して、でも、今のほうが、もっとツライ。
いつまでこんなことを続るつもりなんだろう?

カーテンの向こうから漏れる光は、突き刺すような日差しを想像できた。
今日も暑い一日になることを知らせるように、セミが盛大に鳴いている。
そのセミの鳴き声よりも幾分柔らかな音色で、電話が鳴った。
3コールで静かになり、続いて階下からお母さんの声が響いた。

「塔子!学校から電話よ。」

・・・ああ、そうだ。今日は留学の。

ベットから下りて、あたしは足早に部屋の扉を開けた。
階段を下りると、リビングでお母さんがにっこり笑って受話器を差し出した。

「おめでとう、頑張ったわね」
「え、それじゃ・・・」
「自分で聞きたいでしょう?」

あたしが震える手で受話器を受け取り名前を告げて挨拶すると、面接のときに初めて話した厳しそうな教頭先生が、とても朗らかな声で「おめでとう、10月からイギリスですね」と告げた。
あたしはどこか他人事のように感じながら、「ありがとうございます」と頭を下げた。
教頭先生が何か言っていたけど、頭の中に言葉が留まってくれなくて、メモ帳に言葉を書き取ることに専念した。
静かに受話器を置いて、あたしはメモ帳を眺めた。
これからの簡単なスケジュールと、取り急ぎ必要な書類。
あたしがメモ帳を凝視していると、お母さんが「どれどれ?」とあたしの手からメモ帳を取り上げた。

「あ」
「なに!?」

他に誰が合格したのか、聞けばよかった。

そんなことを思いながら、あたしは思わず溜め息をついた。

この為に、あたしは今まで頑張ってきたんだ。
嬉しい、凄く。
ただ、頭の中が整理できない状態で、どう喜んでいいのかわからなかった。
あたしは嬉しさと同時に沸き起こった寂しさに、目を閉じた。

「どうしたの?もっと喜ぶかと思ったのに」

お母さんは不思議そうにあたしを覗き込んで、ふうっと小さく息を吐くと「なるほどね」と苦笑した。

「直人くんと離れるのが辛いんでしょう?今頃、実感したのね。」

やれやれと首を傾げて、お母さんはキッチンに向かい「コーヒー飲む?」と尋ねた。
あたしは答えられず、力が抜けてストンとソファーに落ちるように座った。

そんなんじゃないよ、と言葉にできなかった。
離れるのが辛いんじゃない。
傍に居れないんだよ、だって、直人が好きなのは・・・

『俺はとーこが好きだ』

直人の言葉を思い出して、身体がびくっと震えた。
寝不足の頭の中は、いろんなことが渦巻いている。
目を閉じるのが、怖い。
なんで怖いんだろう。

・・・ああ、自分の気持ちが怖いんだ。

再び電話が鳴って、あたしは弾かれたように起き上がり受話器をとった。

「はい、羽鳥です。」
「昨晩お電話した坂本です。」
「あ、」

司さん・・・

「その声は・・・塔子ちゃん?おはよう、今、教頭から電話来た?」
「はい」
「僕も、電話きたよ。・・・これから、そっち行っていいかな?」
「え?」

罪悪感か、胸がちくりと痛む。
なんて答えようか?と考える暇もなく、

「って、もう近くまで来てるんだけど、ね」

司さんは内緒話でもするみたいに、囁いた。







2007,8,31


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