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雪に捨てたバレンタイン





星空の下で、さよなら  ― 18 ―








司さんの指は、普段ラケットを握っているとは思えないほど、繊細にあたしの頬に触れた。
あたしはその指先からもたらされる甘い痛みに、目を閉じて少しだけ身を引いた。
メガネをかけていない司さんは、あたしの反応にその手を一瞬引きかけて、ほっと安堵したあたしの頬を不意打ちのように両手で包んだ。

「!」
「・・・そんな可愛い反応されると、困るんだけどなぁ」
「つつっつかささん・・・・!」
「凄い顔!」

くすくすと笑われて、あたしは真っ赤になって俯いた。
司さんの一つひとつの仕草は、今まで経験したことのないものだったから、あたしは馬鹿みたいにあたふたしてしまう。
どうしていいかわからず、耳まで赤くなっているであろう自分が容易に想像できて、その場に座り込んでしまいたくなる。
それでも、ふっと空気が和らいで、司さんが微笑んだのがわかった。

「寝不足なら・・・あんまり歩かせないほうがいいかな?今日は塔子ちゃんの地元でデート、って思ったんだけど」

すっと手を引っ込めて、ポケットに手を突っ込むと首を竦めるようにしてあたしを覗き込んだ。
恐る恐る目を開けたあたしに「どう?」と尋ねる瞳は、とても優しい、いつもの司さんの瞳で。

「どこに行きたいですか?・・・何もないところ、ですよ?」

あたしの答えに、司さんは嬉しそうに笑ったけれど、すぐに心配そうに「ホントに大丈夫?」と眉を顰めた。

「大丈夫ですよ、そんなに軟じゃないんです、ホントに。さ、どこにしましょうか?」
「それじゃ、とりあえず歩こうか」

司さんはそう言って、歩き出す方向を指差した。




「あ、まだ言ってなかったよね。留学決まったよね?おめでとう!」

隣に並んで歩きながら、司さんは「頑張ったね」と頭を優しく撫でた。
あたし、合格したって伝えてた?
あたしは立ち止まって、「司さんは?」と聞き返した。
自分の事でいっぱいいっぱいで、尋ねることすら忘れていた。
司さんは振り向いて「もちろん、僕も」と笑った。
あたしはほっとして、「おめでとうございます」と頭を下げた。
そしてまた並んで歩き出した。

「一年生はあともう一人、西野さんって女の子が合格したみたいだね。二年は僕と、阪井さんていう華道部のコと宮田っていう男子。今年は5人だったみたい。」
「そうだったんですか、あたし、全然他の人のこと聞いてなくって。西野さんて何組かな・・・どんな人かな・・・?」
「これからオリエンテーションとか、何かと顔合わすこと多くなるよ。」

雲ひとつない青空の下、あたしたちは太陽に挑戦するみたいに歩く。
あたしには見慣れた風景。
司さんはあたしの家の方角を聞いて、ここから見えますよって教えたら、今度は家まで行くね、と悪戯っぽく笑った。

「それにしても、電話終わって、すぐ家を出たんですか?それにしては、早かったですよね?」

ぼうっとしていたとはいえ、一時間もそうしていたわけではないのに、司さんはすぐに電話をかけてきた。
司さんはちょっと視線を空へ移して、ポケットから青い携帯電話を取り出した。

「あ、携帯!」
「実は、持ってたんだ。夏休み前にエリアが拡大したからって父親に持たされて。だから、ココにかけてもらったんだよ。教頭先生には。」
「え、それじゃあ、もしかして、ずっと前に駅に来てたんですか?」
「そう。・・・昨晩電話したのは"合格者には明日直接電話する"って聞いてたから。・・・内緒だけど、遠藤から・・・テニス部の顧問ね、その遠藤先生から、昨日合格者聞いて知ってたんだ。すぐに教えてあげなくてごめんね。」

昨日、司さんがその電話をくれた時は、あたしは関君と一緒だった。
関君の想いに応えることはできなくて・・・。
昨日のことを思い出して、あたしは俯いて眉を顰めた。
それだけじゃない。
直人が来て、あたしにキスした。
「好きだ」と言って。

あたしは頭から直人を追い出そうと、首を横に振った。

「・・・あんまり嬉しくない?」

お母さんと同じ事を言われて、あたしは慌てて司さんを見上げた。
「そんなことないです、凄く嬉しいですよ!」とあたしが答えると、司さんは「そう?」と首を傾げた。
それ以上、何も言わなかったのは、もうとっくに昨日のことに気がついているからかもしれない。
さっき駅で、「決着つけた所為?」と聞かれて、あたしは答えられなかったから。

それでも、次にあたしに向けた瞳は、とても優しいものだった。

「後で、番号教えるからね?」
いつでもかけてきて。

離れたところにある林から、蝉の鳴き声が響いてくる。
それからしばらく、あたしたちは留学の手続きの話をしながら歩いた。




土手を上がると、今まで感じなかった風が髪を揺らした。

「さすがに、人でいっぱいだね」
「司さん、川に来たかったんですか?」
「水着はないけど。」

家族連れで賑わう下流から少しだけ上流に移動する。
確かに、今日の天気じゃ川の中のほうが過ごしやすそうだった。
水の跳ねる音が気持ちよさそうに誘っている。

「あの鉄橋の下って行ける?」

電車が少し速度を落として渡っていく鉄橋を指さして、司さんは尋ねた。
そこはあたしたちのような地元の子どもたちしか入って行かないような場所で、草も伸び放題で、ちょっとした秘密の場所だ。

「もちろん!あたしたちはいつもあの辺で遊んでましたよ」
「いっつも、ここ電車で通るたびに気持ちよさそうだなって思ってたんだ。」

テトラポッドの上を歩きながら、あたしは司さんの前を歩いた。
サンダルで器用に飛び跳ねるあたしに「慣れてるね」と目を丸くする。
「これが本来のあたしですよ」
言って苦笑する。でも、そんなあたしの隣に追いつき「元気な塔子ちゃんが好き」と司さんはウィンクして見せた。

目的の鉄橋の下までくると、程よい日陰で、眩しい太陽に細めていた目もようやく開けることができた。

河原にある大きな石に腰を下ろすと、司さんは嬉しそうに靴を脱いで、ジーンズを膝までめくった。
シャツも脱いで、ジーンズのポケットから携帯を取り出すと、シャツの上に置く。
毎日屋外で練習している司さんは、だけどそれほど日に焼けているようには見えなかった。
ただ、タンクトップ一枚の身体は、見た目よりずっとがっしりして引き締まっていた。
着痩せするタイプなんだろう。
あたしの視線に気がついて、司さんは「焼けないんだよ。赤くなるだけで。これでも、焼けたほうなんだよ?」と腕をさすった。

「うわっ冷たっ」

ばしゃっと音をたてて川に入った司さんは、驚いたように一度岸に上がった。
あたしはサンダルを脱いで、司さんの声に笑いながら足をつけた。
石や岩がごろごろする中で、この川辺は比較的砂地で裸足で遊んでも平気な場所だ。
浅瀬は狭く、すぐに深くなり、流れも急なので、家族連れには向かない。
だけど、地元のあたしたちにはなんてことはない、一番のスポットだ。
少し離れたテトラポットが重なる深みには、銛を持った男の子たちが水の中に潜っている。
足元では、砂が下から湧き上がる水でさらさらと浮かび上がっている。
澄んだ清水は指先をジンと痺れるような冷たさで包む。

「あれ?でも、司さんの所も川ありますよね?」
だから、川遊びが初めてという感じの司さんに少し驚く。
「うん、だけどこんな風に川遊びできる場所って意外とないんだ。ほら、もっと大きいからね僕のほうの川は。大きすぎて、遊泳禁止なんだ。
夏になると、あの鉄橋を超えるとき、下からキャーキャーと楽しそうな声が聞こえるから、羨ましくて。」
「今年は初めてですけど、毎年、ここで遊んでましたよ。小さな頃からずっと。」

言いながら、あたしは大きめの石を選んで水をせき止め、途中買ってきた缶ジュースをその中に入れた。

「天然冷蔵!」
「結構、冷たくなるんですよ?」

あたしのそんな様子を上から覗きこんでいた司さんは、「はい」と手を差し出してにっこり笑った。
「濡れますよ?」とあたしが言うと「全然平気」ともっと笑う。
あたしはちょっと躊躇して、それからそっと司さんの大きな手に自分の手を重ねた。
ぎゅっと力を篭めた手であたしを引っ張り上げるようにして立たせると、司さんは手を繋いだまま、わざと足で水を跳ね上げさせた。

「冷たいけど、めちゃくちゃ気持ちいいーっ!来てよかった」
「司さん、濡れちゃう・・・!」

普段の司さんはオトナっぽいけれど、今日、日の光りの下ではしゃぐ司さんは、思わず"可愛い"と形容するのがぴったりだ。
学校のみんながみたら、きっと一斉にカメラを構えそうだ。

「このまま泳いじゃおうか?」
「ええ?」
「気持ちよさそう」
「でしょうね、って、いやぁーーーーー!」

笑いながら流れの速いほうへ歩く司さんに引きずられる。

「そっち、危ないから、急に深くなるからっ・・・!」
「うわっ」

バランスを崩した司さんを思い切り引っ張ると、今度はあたしが転びそうになる。
あーもー二人でびしょ濡れだ・・・!
そう心の中で覚悟を決めて思わず目を瞑ったあたしだったけれど、冷たさは膝下のままで、それどころか司さんの身体の熱を身近に感じて、どきっとした。

「ごめん、ふざけ過ぎた。」

司さんの声が耳元でして、あたしはその腕の中にすっぽりと納まっていることに気づいた。
心臓が駆け足状態になったのは、転びそうだったからなのか、抱きしめられているからなのか、うるさいくらいの鼓動は、あたしの心臓の音なのか司さんのものなのかわからなくて、そっと息を吐いて、胸を押さえた。

「・・・なんて、あたし、よく服のまま泳いじゃって、帰りがとんでもないことになるの慣れてるんですけどね。」

直人やみんなとふざけて、服が上から下までびしょ濡れになって帰るなんて事はざらにあって。
謝られてしまうと、なんだか落ち着かない気持ちになる。
司さんの前では、あたしは自分じゃないみたいに"女の子"になってしまうから、どこかこそばゆくなった。
多分、これがいつものメンバーなら、あたしは容赦なく川に突き飛ばして笑っていることだろう。
こんなに太陽が照り付ける今日なら、帰るまでには乾いてしまうだろうし。
もちろん、気持ちよくはないけれど。

「少し上がろうか。足が冷たくてジンジンする」

もう一度手を繋ぎなおして、司さんは川岸へ向かった。
掌が跳ねた水しぶきと汗で濡れていた。
大きくて骨ばった掌は、少しだけ緊張しているような気がした。


「・・・・!」


唐突に、胸が締め付けられて、あたしは泣きたいような切なさに襲われた。


こんな風に、優しく強く・・・手を繋いで欲しかったのだと、気がついてしまった。
その相手が誰であってほしかったのか、いつかあたしに、あたしだけに伸ばされることを願っていたのか。
その手を司さんの手に重ねてしまって、胸の中の一点を切なさが鋭く突いた。

澄み切った冷たさに頭が冴え、目を逸らした様々なことが押し寄せた。

ただ繋いだだけの掌からは、司さんの優しさや熱が伝わる。
かすかに震える指先や、少しずつ力が篭められていく指先から、司さんの気持ちも流れ込む。
反対に、あたしの気持ちも司さんに伝わっているのだろう。

だけど、今あたしから、この手を離してしまうだけの勇気はなかった。
きっと手を離したら、その場で動けなくなってしまう気がした。
だから、力強く引いてくれる司さんの手に、あたしは視線を落としていた。


手を繋ぐ。

それは、あたしにとって、心を繋ぐということで。


ずっと、たった一人に伸ばしていた手は。
振り向いて、笑顔で手を繋いで欲しかったあいつは。


ぽたっと水面に落ちた雫は、司さんの腕にも落ちて、司さんは何も言わずあたしを思い切り引寄せて、強く強く抱きしめた。







2007,9,17


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