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step by step   − 9 −







理子が選んでくれた(というより、強引に買わされた、かな)この部屋には不釣合いなほど優しい若草色のソファーに座り、煙草に火をつけようとしていた手を止めた。

「・・・・?」
電波悪い?

右肩と耳に挟んだ携帯の呼び出し音が途切れた。
首を傾げて、しばらく携帯を眺める。

・・・間違って『切りボタン』を押したとか?

「あー!ボタン間違えた!」と慌てる理子の顔を想像してみる。
変なところで律儀な理子は、自分の頭にコツンと携帯をぶつけてリダイヤルして、「ごめんなさい」と言いながら頭を下げるんだ。
・・・でも、かけなおしてくる気配はなかった。
寄りかかっていた背もたれから起き上がり、火の点いていない煙草を灰皿に載せ、リダイヤルする。
『こちらは・・・・・』
案内音声が流れ、電源が落とされているのか電波が届かない状況であることを告げる。
「映画、一人で観に行ったかな・・・?」
携帯をテーブルに置き、再び煙草を咥えてライターで火を点けた。


音哉と別れたのは、昼近くだった。
「花見、していこう」
言って音哉は歩き出した。
体は眠気と気だるさで足取りは軽やかとは言い難かったけど、心が静かにざわめいていたから・・・音哉の口ずさむメロディーに耳を傾けて夜明けの街並みを歩いた。
公園脇にある、週末になると朝方まで開いている不思議なホットドッグ屋で夜食なのか朝食なのかわからない食事をして、公園内の散りかけた桜を眺めた。
時折、音哉は冷たいベンチを指先で叩く。
なんとはない、他愛のない話をしてはまた桜を見上げた。
気がつけば、いつの間にか花見の人でごった返してきていた。

マンションに戻った俺は、シャワーを浴びてベットに沈み込んだ。
すぐに眠りは訪れた。
けど、夢なんてほとんど見ないのに、眠りと現実と夢の間をふらふらとしているような変な感覚で。
久しぶりに見た夢は、やはり理子が店に来た所為だろうか?
随分懐かしい光景だった。

窓の外で桜の花びらが舞う。

幼い俺と理子が、父さんの弾くチャイコフスキーの*『円舞曲』(*組曲「白鳥の湖」)にあわせてピアノの周りを走り回っていた。
理子はピアノの下に隠れたり、ピアノに合わせて爪先立ちして。
俺はその後ろを嬉しくて仕方ないって顔で追いかけている。

ベヒシュタインの甘く透明感のある音色と笑顔の父さん。
今思えば、ラフマニノフが好きだった父さんが、スタインウェイでなくべヒシュタイン製のピアノを好んだのは不思議なんだけど。
価値なんて知らずに、玩具にして遊ぶ俺たちをそれでも微笑んで見つめていた両親。

あの温かな音色に再び出会わせたのは音哉。
俺が手放してしまった父さんのピアノ。
そのピアノに、ピアノを弾くことに。
あの優しい音色に導かれるかのように。

音哉が初めて訪れたのは、中学に入ったばかりの頃だった。
調律師だった音哉の父親と父さんは昔からの知り合いだったらしく、同い年だったこともあり、一緒に父さんのレッスンを受けるようになった。
音哉は当時の俺には衝撃的だった。
硬質鋭美な音色は、父さんのようで。
父さんが本当に嬉しそうに音哉の指先を目で追っていたのを思い出す。
『このピアノで、そんな音が出せるなんて!』
父さんがそう言って傍らに立つと、音哉は照れくさそうに、でも、まっすぐに父さんを見て『ありがとうございます』と言った。
そして、俺は何ともいえない敗北を感じるんだ。
二人の間には、同じ才能が備わっている者同士、互いに惹かれあうものがあるのだと、強く感じていた。
それはどうしようもない寂しさと焦燥感だった。
取り残される恐怖。
――同じような寂しさと焦燥感を理子との年の差にも感じていた。
高校生になった理子。
綺麗になっていく理子。
俺をまるで妹のように感じている理子。
そんな理子に抱く焦燥感。

『ずっと・・・』

楽譜を握り締め、思わず呟く。

ぐるりと景色が変わって、ほろ酔い加減の理子の周りに音哉・・・ショウや風太、ヒロシが居る。
treasureの店内。
理子を視界から追い出すように、俺はピアノに向かう。
誰にも見せたくない、触れさせたくない。
そんな独占欲が湧き上がる。
ふとピアノに向けた自分の手が、小さなことに気がついた。
Yシャツじゃなく・・・これは中学の制服。

あんなにオトナなオトコの人たちに囲まれてるのに、ボクはまだこんなに小さい。
綺麗になった理子ちゃんに、釣り合うような、オトナのオトコにならなくちゃなのに・・・!

『ずっとボクだけの理子ちゃんでいて欲しいのに・・・!』

中学生のボクが呟くと、学生服の袖を誰かが引っ張る。
『唯ちゃん、お茶にしようって!唯ちゃんのママ、今日はスコーンを焼いたんだって!』
小さな理子が覗き込んでいる。
一足先にソファーに座っている母さんが紅茶を淹れてる。
『うん、理子ちゃん!』
急速に視線が下がっていき、理子ちゃんの瞳に映る俺は小さなボク。
『今度ママがね、理子のお誕生会をしましょうって!唯ちゃん来てくれる?唯ちゃん家のみんなの都合のよい日にしましょうね!って。』
『もちろん、行くよ!理子ちゃん!何か欲しいもの、ある?』

ボクの宝物の理子ちゃん。
ボクだけの、唯だけの理子ちゃん

『唯ちゃんが何か弾いてくれるなら、なんでもいいよ!あ、でも理子の家にはピアノな〜い!』
ぷうっと脹れる理子の頬が、あんまり可愛くて、思わず笑ってしまった。
可愛くて可愛くて・・・愛しい。

そうか、もうすぐ・・・理子の誕生日だっけ・・・。

懐かしい空気を吸い込みながら目覚めた俺は、無機質なこの部屋に不似合いなソファーに引寄せられるように歩いた。

ああ、若草色のソファーだった・・・。
あの優しい時間を包んでいた、あのリビングにあったのは・・・。

胸の奥で、幸せな記憶が切なく締め付ける。

・・・理子に会いたい。

もう一度携帯に手を伸ばした。
リダイヤルしたけど、流れてくるのは音声案内だけで。
俺は溜め息を吐いて、メール作成画面を開いた。



映画、明日どう?
映画じゃなくても、出かけようか?
まだ、花見してなかったよね。



送信して、天井を見上げた。
耳の奥で『円舞曲』が流れていた。
くるくると走り回る幼い理子が、大人の美しい女に変わっていく。
後ろを必死に追いかける俺は、理子にとっては『唯ちゃん』のままなんだろうか?

「誕生日のプレゼントは、唯ちゃんが何か弾いてくれればいい。理子は唯ちゃんのピアノが一番好きだから。」

父さんと母さんを亡くすまで、理子が毎年言っていたコトバ。
あの日から、理子はリクエストしなくなった。
本当は?

「今でも・・・そう・・・?」

瞳を閉じてそっと呟いた。
昨晩の理子の傷付いた顔を思い出して、また胸を締め付けられた。

今でも、理子は、俺の奏でるメロディーを喜んでくれる?

理子を抱きしめて、胸に閉じ込めておきたい気持ちが強くなる。
今夜は風もなく、とても穏やかだというのに・・・。
俺の中では・・・苦しいくらいの風が吹き荒れていた。







2006,11,27




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