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slowly slowly slowly
step by step − 10 −
「おはようございます、鈴木さん」
あたしはIDカードを小さな窓口に置いて声をかけた。
「おはよう、高瀬さん。またサービス出勤かい?」
苦笑しながら顔を出した鈴木さんは、私にIDカードを戻すと名簿に名前を書いた。
鈴木さんは、このビルが委託している管理会社の警備員さんで、休日に勤務することが多い。
年は私の両親と同じくらいで、休日にこっそり仕事に来る私とは入社時からの付き合いだ。
「明日ね、紺野課長が戻ってくるの。その前に企画をまとめておきたくて。」
「出張だったのかい。どうりで最近、外企の深夜残業がないわけだ。」
「そのツケで出社。」
言いながら、私はぶら下げていた小さなビニール袋を1つ鈴木さんに渡した。
「お昼これからでしょう?ここのパニーニャ美味しいの。」
食べてみて?
私が言うと、鈴木さんは「高瀬さんのお陰で、このあたりの美味しいもの随分知ってるんだよ。新人に教えては喜ばれてね。休日はほとんど店が閉まってるから。」と嬉しそうに受け取ってくれる。
「今日は何時までの予定だい?」
私は時計を眺める。
「もうすぐお昼だから・・・2時間くらいかな?他に誰か来てる?」
「今日は営業が明日のイベントの準備で来てるけど、12階は高瀬さんだけだよ」
名簿を見ながら鈴木さんは答えて、12階フロアへの避難用扉の施錠解除ボタンを押した。
「まだ恋人はできないのかい?」
「仕事が恋人」
一昔のキャリアウーマンみたいに私が答えると、鈴木さんは笑った。
「うちの息子の嫁にほしいよ。すねかじるのが得意な大学生だけど。」
「私、家事は苦手ですよ?」
カードをスキャンすると目の前の扉の鍵がガシャンと音をたてて開いた。
私はカードをジャケットのポケットに入れてドアを開けた。
「ありがとう、さっそくいただくよ」
鈴木さんが管理室の椅子に座って、ビニール袋を振って見せた。
「まだ温かいと思いますよ。」
* * * * * * *
「さってと・・・」
デスクのPCの電源を入れて、私は椅子に座った。
ビニール袋からお茶のペットボトルを取り出して、キャップを捻る。
一口飲んで、バックからUSBフラッシュを取り出して、接続する。
静かなフロアは私のPCが起動する音と、少々古くなったコピー機の通電音だけが響いている。
全館管理の空調が急に入り、私は頭上を見上げた。
鈴木さんが入れてくれたのだろう。
私はパニーニャを頬張りながら、フォルダを開けた。
ずらりと並んだファイルの中から、課長に提出予定のプランを開き、デスクの引き出しから資料のファイルを出して、カチャカチャとキーボードを叩いた。
ここ数日、今まで感じたことのなかった感情や想いに捕らわれていたから、仕事に集中することで、いつもの自分が戻ってきた気がする。
私はやっぱり、複雑な感情は処理できないのかも・・・。
「ふう」
一段落着いたところで、食べかけだったパニーニャを思い出し、冷たくなってしまったそれを頬張った。
没頭していて、忘れてた。せっかく温かかったのに。
一人でいると、時間を忘れてしまう。
今日は電話もFAXも指示を仰ぐ後輩の声もないから、尚更だ。
どれくらいPCと一体になってたんだろう?
画面下の時刻表示は14時23分と示されている。
「もうこんな時間?」
鈴木さんに2時間くらいって言ったのに、随分オーバーしてしまった。
そろそろ鈴木さんも交代の時間だ。
保存しながら、背もたれに寄りかかり手を組んで腕を伸ばす。
焦る気持ちと、満足感。
「んーーーっ!」
背筋が伸びて、気持ちいい。
「日曜のこんな時間に、こんな場所で一人でランチって、寂しいな。」
不意に、背中で呆れたような声がして、私は驚いて振り向いた。
「紺野課長!」
ジャケットを腕にかけ、呆れたような笑顔を浮かべた課長が首を傾げて立っている。
「ただいま。」
課長は言いながら、片手をデスクについて私のPC画面を覗き込んだ。
「新しい企画書?僕が発つ前に言ってたヤツ?」
「ええ、それです。・・・課長、真っ直ぐ会社へ来たんですか?」
課長の足元にはブリーフケースとスーツケースが置かれていた。
「ああ、理子に電話したんだけど・・・携帯、どうにかしたの?」
言われて、私は昨日電源を落としバックに入れたままの携帯を慌てて取り出した。
「やっぱり・・・・・・・電源切ってました。」
あのままずっと、電源を入れてなかったんだわ。
「って、課長、電話くれたんですか?」
私は電源をONにしながら、不思議な気持ちで課長を見上げた。
「成田からね。」
言いながら、少し照れくさそうに笑う課長は、なんだかとても可愛く思えた。
でも、どうしたんだろう?
「・・・私、もしかして何かミスでもしてました?」
ちょっと不安になってきた。
「帰国して早々に、私に電話して、繋がらないからって会社にまで・・・・・でも、よく会社だってわかりましたね?」
課長は右手で口元を抑えて、くすくすと笑いながら、隣の吉原クンのデスクに寄りかかった。
「仕事のことじゃないよ・・・ただランチに誘いたくてね。理子のマンションまで行ったんだ・・・留守だったから、多分会社かなって思ったんだよ。」
「部屋まで?ですか?・・・それは悪い事しちゃいましたね。・・・でも、それで会社って思われるとこが、いえ、ビンゴですけど、なんだか寂しいですね」
いかにも、彼氏も居ない私らしいということか。
私が眉をしかめていると、また課長は笑う。
「そうであって、僕はほっとしてるけど。それに、あれから理子のことをよーく見てきたつもりだから・・・」
課長の笑顔は、なんだか柔らかで心から安堵している様子だった。
「ところで、もう切り上げられる?仕事は終わりにして、ランチ・・・にはもう遅いな。・・・・全部散ってしまう前に、桜、観に行こう。」
「桜?」
「ああ。こっち来てびっくりだよ。もうほとんど散ってるんだな」
「ええ、一昨日、風が強かったんですよ。」
私はPCの電源を落とし、バックに荷物を詰める。
先ほど電源をONにした携帯が鳴り、私はびっくりして手にした。
「メール・・・弥生ちゃんだ。」
課長はブリーフケースから書類を出して、自分のデスクに置いている。
私は、弥生ちゃんからのメールを開いた。
理子さん、金曜はありがとうございました!
また遊びましょうね!
私はくすっと笑って、金曜の夜の弥生ちゃんを思い出した。
そして、あのお店で働く"蒼くん"を思い出してしまった。
そして、もう一通、未読メールがあることに気がついた。
私はメールを開いて、それが唯からだったことに驚いた。
映画、明日どう?
映画じゃなくても、出かけようか?
まだ、花見してなかったよね。
「唯・・・」
「?どうかした?」
課長が不思議そうな顔で、こちらを見た。
「いいえ」
私は笑顔で答えて、携帯の文字を見つめた。
昨日、メールくれたんだ・・・
あれほど、心待ちにしていたメールに、私は気づかなかったんだ。
唯、今、何してる?
ボタンを押して、返信メール作成画面を開いた。
映画、昨日観たの。
それじゃあ、これから、桜を
そう打ちかけて、先程課長に同じように誘われたことを思い出した。
文章を消して、また新しく打ち込む。
返事、遅くなってごめんね。
映画、昨日観たけど、面白くなかったよ。
今、会社なんだ。
これから課長と出かけるから、また連絡するね。
理子
後ろ髪が引かれるような気持ちで送信して、私は携帯をバックに戻した。
「それじゃあ、行こうか」
電気を消しながら、課長が促す。
「はい」
私は返事をしながら、複雑な気持ちで歩き出した。
* * * * * * *
すでに鈴木さんは交代していて、私たちは見慣れない警備員さんに挨拶をして社を出た。
風が心地よく吹いて、私は大きく伸びをした。
私たちはゆっくり公園まで歩いた。
「ああ、まだ意外と咲いてるね。」
桜は風に揺れて、ひらひらと花びらを舞わせている。
「今年は花見無理かなって思っていたから、ラッキーだな」
「フランス行ってる間に、散ってしまわなくてよかったですね」
私たちは並んで歩きながら、桜を見上げた。
課長と一緒に居て、仕事の話をしなかったのは初めてかもしれない。
「・・・あの頃、デートする時間もなかったから、これが初めてのデートだ」
「デートする前に、振られちゃいましたからね。」
苦笑して答えると、課長は振り向いて、困ったような笑顔を浮かべた。
「理子、僕たち、また恋人同士に戻れるよね?」
「え?」
課長の言葉に、私は思わず立ち止まってしまった。
「メール、読んだよね?・・・僕は、君のことが、やっぱり好きだ。」
静かに、でもはっきりした声で、課長はそう告げた。
2007,7,2