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slowly slowly slowly


step by step   − 15 −







「こんな時間に誰だろう?」
課長の少し警戒したような声に「今、何時なんですか?」と訊ねた。
腕時計を見て、課長は「23時、に、もう少しというところ」と答えて、私を心配そうに見下ろした。

23時・・・、唯じゃない。

「どうする?出たほうがいいかな?」
セキュリティが万全とはいえないマンションだけど、幸いなことに今まで怖い思いはしたことがない。――鍵を掛け忘れても。
「・・・お願いしても・・・い、ですか?」
あたしは喘ぐように答えて、目を閉じた。
喉が焼けるように熱い。
「了解」
短く答えて、課長が遠ざかっていく足音が聞こえた。

ピッとドアフォンのボタンを押す音がして「はい」と、たった2文字だけどやけに緊張した声が続いて聞こえた。
『こんばんは、大丈夫かい?』
この声は・・・警備員の・・・
「鈴木さん!?」
驚きの声が上がり、玄関の施錠を外す音が響いた。

「紺野さん!?」
「鈴木さん・・・が、どうして?」

二人の驚いた声が小さいながらも聞こえてくる。すでに遅い時間だから、声を抑えているのだろう。
なんで鈴木さんが・・・?
ええと・・・ああ、そうか、鈴木さんは家知ってるんだった。

以前、休日に出勤して、会社に財布を入れたままのバックを忘れて・・・その日出勤していた鈴木さんに届けてもらったのだ。
その時も、体調が悪くて・・・家に帰ってから倒れたんじゃなかった・・・?

社内で倒れたことを聞きつけて、中夜勤帰りに心配して寄ってくれたんだろう。
・・・課長がいて、さぞ驚いたことだろう。
いつも私が仕事ばかりしてるのを心配してくれるような、優しい人なのだ。

「あ、いや、会社で倒れたって聞いてね、高瀬さんにはいつも世話になってるから、これ、持ってきたんだよ」
カサカサというビニール袋の音がする。
「イチゴ、ですか?」
「そう、確か前倒れたって時、弟さんがこれしか食べれないって言ってたから・・・」

弟?
・・・唯のこと?
あの時は、意識がなくなることはなかったから、唯にSOSを出して・・・
あれ・・・鈴木さんと唯って会っていた、かな?
覚えて・・・ない。

「で、どうなんですか?高瀬さんの具合。」
鈴木さんの心配そうな声に「まだ熱は高いんですよ。寒気はようやく無くなったようなんですけどね」と溜息交じりの課長の声がした。
「でも、一人ぼっちじゃないなら安心だね。」
ほっとしたような鈴木さんの声。
「夜分にすまなかったね。高瀬さん、よろしく頼むよ」
鈴木さんの優しい声に、課長も親しみをこめた優しい声で「ありがとうございました」と対応した。

カチャリ、と再び施錠の音が響き、私は再び寝室に向かってくる課長を見つめた。
右手にビニー袋を持ち、左手を首にあてて少し照れたような顔をして、ベッドサイドまでやってきた課長は「理子には驚かされてばっかりだな」と苦笑した。
「警備員の鈴木さんまで理子の信者だったなんてね」
「仲良し、です」
熱が篭って潤んでしまう瞳を細めると、課長はスーパーのビニール袋からイチゴのパックを取り出して見せてくれた。
「美味しそうだね」
赤い大粒のイチゴ。
高そう。鈴木さんったら、奮発してくれたのね。
「食べる?」
小さく首を振って「今は、いいです」と答える。今は何も食べたくない。
「冷やしておくよ?」
「は・・・い」

答えられたのかどうかも定かじゃなかった。
「おやすみ」
ただ、優しい声と大きな手が降りてきたような気がした。





* * * * * * *





最近は夜中まで開いているスーパーが増えたのを感謝して、イチゴのパックを入れた袋を持ちながら待たせてあったタクシーに乗り込んだ。

熱が下がると、理子はイチゴを欲しがる。
完全に復活するまで、イチゴしか食べない。

理子が小学生の頃、インフルエンザで寝込んだことがあった。
インフルエンザだから、もちろんお見舞いに行くことも会うことも理子のお母さんに禁止されたのだけれど、ようやく熱が下がりOKサインが出た時に、お見舞いに持って行ったのがイチゴだった。
それまで何も食べれず、点滴を打っていたらしくて、たった1週間ほどだったのに、酷く痩せてしまって。
俺はそんな理子の姿にショックを受けて「これ食べて早くいつもの理子ちゃんになってねっ」と泣き出した・・・らしい。
俺の記憶では・・・その・・・泣いた覚えはないのだけれど、それでも「唯ちゃんを悲しませるなんて、ごめんね」ってそのイチゴは食べてくれた。

それから、理子はイチゴなら食べてくれる。
熱が下がってくるとイチゴを欲しがるのだ。


「元気になったら、唯ちゃんのピアノ聞かせてね」
理子はやっと、という感じで起き上がって、言った。
「うん」
「あのね、唯ちゃん、毎晩あの子守唄弾いてくれてたでしょう?ちゃんと聞こえてたんだよ。あれ、私のために弾いてくれてたの?」
そう、お見舞いに行けないならと、理子が大好きだと言ってくれた子守唄を弾いていた。
窓を少しだけ開けて、10分間だけ。
「早く唯ちゃんと遊びたかった」
そう言った理子の笑顔は、さすがにいつものイキイキとしたものではなかったけれど、俺は嬉しくて「うん」と頷いた。

理子に届いていたメロディー。

・・・あの頃は、何をするのもそこにピアノがあって。
優しいメロディーが流れていた。
理子と俺が過ごした時間。

「・・・」

ここのところ、やけに昔を思い出す。
理子にピアノを弾くところを見られたからだ。

父さんと母さんの葬儀でピアノを弾いたのは、周囲の大人の意向からだった。
悲しみの中でピアノに触れたことのない俺は、葬送曲を弾いた後、ピアノに触れられなくなった。
理子はそんな俺を見ていたから、ピアノから遠ざかってしまった俺をそのまま受け入れてくれた。
荒れてどうしようもなくなった俺でも、変わらず受け入れた。
・・・それは妹として、だったけれど。

もう少し、わだかまりを持たずにピアノに触れられるようになるまで、聞かせるつもりはなかったのに。
感情を素直にピアノに出せるようになったのは、最近だ。
まだコントロールできない。
理子には、ちゃんとコントロールできるようになってから聞かせたかった。

俺は首を振って、深呼吸をした。

すでに理子は課長サンと一緒に居るというのに、悠長にイチゴを買って、昔に浸っている場合じゃないだろう・・・。

でも、思い出した記憶から流れる、懐かしい子守唄。
それは愛しさを募らせるものだった。



タクシーが理子のマンションの前に停まる。
マンションのエントランスを抜けて、エレベーターに乗り込んだ。
理子の部屋のある5階へのほんの数秒が、長く感じる。
3階、4階と表示パネルが移動していくのを見つめ、これが天国行きなのか地獄行きなのかと不安になった。
扉が開いて、5階フロアーに降り立つ。
深夜のマンションは小さな息遣いが漏れてくる以外は、とてもひっそりとしていた。
もともとビジネスマンが多いマンションで、理子のような独身の若い女性が住むには少し古くてセキュリティーも甘い。
女性向けではないことから、敬遠されている。
逆にそのお陰で、今まで怖いことは起きなかったのかもしれないけれど、俺は何度も怖い想いをしてる。
夜中に鍵が開いたまま・・・なんてよくある。
でも、今回の恐怖はもう少し違う種類のものだ。
「・・・さて、こんな夜中に押しかけてくるのを・・・どう思うかな?」
余裕のない声が漏れて、苦笑した。

理子の中で自分の位置が確立しているのはわかっている。
それが俺にとって望むべき場所ではないことも。

ドアチャイムを押す。
しばらくして「はい?」と抑えた男の声が返された。
「理子の具合はどうですか?」
俺が問いかけると、すぐに扉が開いた。
扉の中から現れたのは、ネクタイを緩めYシャツのボタンを2つほど外し、前髪が少し崩れた男。
なるほど、とその姿を見て思う。
どこかで鍛えているのだろうか?俺を見下ろすその人は、意外なほど身体が引き締まっていて顔だって悪くない。
自分の仕事や生き方に自信を持っている、そんな顔つき。
川名様が好きになるのも頷ける。
彼女だけでなく、彼を想う女性は多いだろう。

理子ってば、こんないい男だって言わなかったじゃないか。

見た目で惹かれるような理子じゃないけれど、男から見ても羨ましくなるような男だったことに、俺はなんだか苦笑してしまった。
その課長サンは、俺をじっと見つめ視線をスーパーの袋に向けた。
「・・・それ?」
「あ、イチゴです。理子、熱出した後、これしか食べられないから」
なんとはなしに答えた言葉に、課長サンは急に得心した顔になり「弟さんだね?」と笑顔になった。
「・・・はい?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった俺に、課長サンは大きな身体をずらして「どうぞ、というか、お邪魔しています」と照れたような顔をして、扉を大きく開けた。
「僕は高瀬君の上司の紺野といいます。」
玄関からリビングに移動すると、課長サンは律儀に頭を下げた。
「・・・理子がいつもお世話になってます」
俺も頭を下げて挨拶する。
リビングのテーブルには、理子が仕事をするのと同じようにパソコンが開かれ、書類が置かれていた。
「仕事されていたんですか?」
俺はいつものように上着を脱いで、ダイニングの椅子にかけながら訊ねた。
「ええ。まとめておきたいものがあって。」
彼は頭をかいて、片付けやすいように最小限しか広げていないスペースを片付けだした。
「理子の様子は・・・?熱はどれくらいですか?」
冷蔵庫を開け、イチゴを仕舞おうとして同じスーパーの袋を見つけて、思わず振り返った。
「あ、ああ!鈴木さんから聞いたんですか?弟さんとも連絡とれたんですね。」
「?」
鈴木、鈴木・・・イチゴのことを知ってる?
冷蔵庫を閉めて、少し考える。
鈴木・・・ああ、理子の会社の警備員さん!
そうか、あのおじさんならイチゴのことを知ってるし、ここも知ってるわけだ。

「熱は・・・まだ高いんだ。ただ体温計がどこにあるのかわからなくて・・・」
それを聞いて、すぐに食器棚の引き出しを開ける。
「そんなところだったんだ。彼女に聞いてもわからなくて・・・」
「・・・やっぱり」
忘れてるんだろう。いつもコレを使うときは、理子が倒れるときなんだから。
中から体温計を取り出して、ベッドルームにまっすぐ向かう。
不思議と課長サンに対して自分が好意を感じてることに驚いていた。
理子が前に話してくれたように、とても理性的に接してくれているのがわかったからだろう。
最初に理子に手を出そうとしたときには、理子を"そういう女"と思っていたからで、ちゃんと今の理子を理解してくれてるのがわかる。

ベッドの上の理子は、額のタオルに押しつぶされそうなくらい苦しそうに目を閉じている。
タオルをずらして手あてる。
・・・めちゃくちゃ熱い。
自分を抱えるように掛け布団を掴んでいる腕を布団の中に戻して、体温計をベットサイドに置いた。
水の置かれたコップがあり、水分は摂っているんだ、とほっとした。

「・・・ありがとうございます。」
課長サンに頭を下げると、彼は「それじゃあ僕は帰ることにするよ」と書類をまとめだした。
「弟クンが来たなら、僕はお払い箱だからね」
ここで、黙っていれば彼はなんの疑いもなくここを出るだろう。
その方が俺にとって都合がいいことはわかっていた。
だけど、彼は紳士的に理子に接していたわけで、俺だけずるく立ち回ることはしたくないと思った。
・・・ちっぽけだけど、理子に対しては誠実でいたいという男のプライド。

「俺、日浦といいます・・・理子とは幼馴染です」
「え?」

驚いた顔の課長サンに、俺はにっこりと笑いかけた。
「俺にとって、貴方はライバルってことだと思います。」

当の本人は、まだ俺を「恋愛」の対象と認めてくれていないようなんですけど、ね。








2007,12,24




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