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slowly slowly slowly


step by step   − 16 −







「えっと・・・それじゃあ君は・・・」
「理子には弟なんて居ません。」
「いや、あの、そうじゃなくて"ライバル"って」
「俺が相手では、役不足ですよね?」

思わず微笑んでしまった。それは余裕とか、そんなものじゃなくて、半ば同士に向けた親愛の情のようなものだった。
課長サンは俺の言葉と表情とでその意味を理解しようと、動かしていた手を止めて凝視した。

「役不足だなんて!」

意外な言葉に、俺のほうが驚いてしまった。
課長サンは脱力したようにその場に座り込んで、困ったような顔で笑い出した。

「紺野サン?」
「知ってる?聞いてるかな?僕はね、一度理子にフラれてるんだ」
「紺野サンが"フッた"の間違いじゃなくて?」
「いや。僕が理子の上辺しか見てなかったから。だから、多分、役不足と感じるのは君の方じゃない?」

ふっと表情を翳らせて、課長サンは寝室の方を見た。
この人は本心からそう思っているんだ。
理子を傷つけたことを、心から悔いている。

「・・・俺が、本当の弟なら、紺野サンに"理子をお願いします"って言いたいところですね。」

課長サンの視線を辿り、ベッドルームの、まさかこんな展開になってるんなんて夢にも思わない――まあ、本人苦しくて、それどころじゃないんだけど――理子を見つめた。

諦めるつもりもなければ、手放すつもりもない。
俺にとって、理子だけが唯一、愛しい存在。

「役不足だなんて、思っていません。少なくても、俺は"弟"でしかないんですから。」

自分の言葉に胸が焼かれる痛みを感じながら、俺は理子から視線をテーブルへと移し、残っていた書類に手をかけ一纏めにした。
開かれたままのパソコン画面を見れば、幾つもの窓が開いている。

「・・・紺野サン、これから帰ってまたこれやるんですか?」
「ああ。時間がないんだ」

仕事のことを言われて、課長サンはますます複雑な表情を見せた。
早く仕事に取り掛かりたい、でも、ここも去りがたい。帰ったところで手につかない。
そんなところだろう。
理子の仕事好きを身近で見てきた俺でも辟易するくらい、この人も負けず劣らずワーカーホリックだ。
手にした書類を一枚めくって、思わず眩暈がする。

「これ、データ移しても平気ですか?俺でよければアシストしますけど」

打ち込むだけのものとか、データを下にグラフを作るだけなら俺にでもできる。
ピアノから離れていた間、そういう人の下で仕込まれた。
いや、本来、こんなの下の人間に任せてそうなものだけど。

「え!?もちろんありがたい、けれど・・・日浦くんはこういう・・・?」
「簡単なものなら。打ち込みは得意です。紺野サンが直接手を出さなくてすみそうなものをピックアップしてください。
このまま帰宅しても、仕事できないでしょう?俺の責任ですから。」

無暗に宣言なんかしたから。
Yシャツのカフスを外し、腕をまくって理子のノートパソコンを机の上に並べて電源を入れる。
起動させている間に勝手知ったるキッチンの棚から新しいフィルターとコーヒー粉を出して、コーヒーメーカーにセットした。
今日はアルコールが入っていなくてよかった、と思いながら。
コンロには佐倉さんたちが用意してくれたお粥が小鍋のガラス蓋越しに見える。

課長サンは少し躊躇っているようだったけれど、俺は敢えてそんな様子に気がつかないフリをした。
俺がそうした所為だけれど、気まずさは仕方のないことだし、課長サンの判断に任せることにする。
企業スパイだとか、懸念するのが当たり前だ。
こんな得体の知れない人間に仕事を任せるのは不安だろう。
しかし、彼は大きく深呼吸を一つすると、その場に座ってバックからUSBフラッシュを取り出し、自分のパソコンに差し込んだ。

「日浦くんの言葉に甘えさせてもらうよ。気になって仕方ないのは本当だからね」

そう言ったその声は、だけど、どこか面白がっている風な響きが滲んで、俺は肩を竦めた。
どうやら害はないと判断してくれたようだ。

「俺のことが、じゃないですね。理子の体調を気遣ってくれて?」
「そんな、聖人君子じゃないよ。」
「部下を気遣ってばかりいるから、睡眠時間も足りないんでしょう?だから、後腐れない関係を望んで、理子を選んだ。そんなところですか?」
「痛い痛い」

とんでもない状態だと思っているだろうに、彼はすぐに事態を飲み込み、すでに"仕事モード"に切り替えている。
そんなところが誰かさんによく似てる気がして、俺は警戒心を持てず好感を持ってしまってるんだろう。
ライバル相手に"好感"もないけれど、それが本心だから始末に悪い。

「様子見てきます」
「ああ、うん」

課長サンがデータを移動している間に、俺は理子のベットルームを窺う。

なんだかな。俺ってこんなキャラじゃないのに、理子の性格伝染してるのかな?

ベッドサイドに膝をついて、呼吸の荒い理子の頬に触れる。
久しぶりの再会が、まさかこんなシュチュだとは思わなかった。

「ったく・・・」と思わず呟けば「唯ちゃん」と手が彷徨う。
無自覚なこんな時でさえ、俺はどきりとさせられる。
ホント理子には敵わない。

「ここに居るっての」

言いながら冷たい指先を握れば、ほっとしたような顔で再び「唯ちゃん・・・」と言葉が零れる。
頬の熱さとは恐ろしいほど温度差のある指先をぎゅっと握り締める。
「早く熱下げろよ」
祈るような気持ちで、冷えた指先にキスを落とす。
理子は、ふにゃっと照れたようなくすぐったいような顔をして、深く眠りに落ちた。
ベッドサイドから立ち上がると、課長サンが肘をついてこちらをじっと見つめていた。

「"唯"って、そうか、君のことだったんだ。」
「?」

俺はタオルをひっくり返して額に戻し、リビングに戻ってパソコンの前に座った。

「何度か呼んでた。君の事。」
「は?」

課長サンは「妬けるなぁ」と目を細め、それでもくすくすと笑いながらUSBフラッシュを手渡され、俺はそれを受け取った。

俺にとっては、この関係は諸刃の剣と同じだ。
誰よりも何よりもお互いが特別なことはわかっている。
だけど、そこ止まりで終わることだって十分にある。
そんな繋がりがなくても、最初から"男"と"女"で出会えた紺野サンが、羨ましいとさえ思う。
でも、そうだったら・・・俺を必要としてくれたのか、わからない。
二人で共有してきたくすぐったくなる思い出を引き換えにしてまでとは、やはり考えられない。

「ないものねだりですよ。」

俺にとって、理子の代わりは居ない。
今までも、これからも、ずっと。

「幼馴染、だからかな?それとも、彼女にとって、日浦くんはもっと何か特別な存在なのかな?」
「特別、ですよ。男としてでなく、ですけど」

妹だって思い込んでたくらいですから。
それは言わずに、ただ苦笑する。

「う〜ん興味惹かれるなあ。いろいろと聞いてみたいことはあるんだけど」
「理子に聞いてみたらいいですよ。」
「ああ・・そうだね。ところで・・・日浦くんって仕事何してるの?」
「何してるように見えますか?」

理子のパソコンにデータを移しながら、紺野サンから手渡された書類をめくる。
プレゼンか何かに使用するものなのだろうか?
ある程度まとめられているものに、手を加えて視覚的にはっきりとさせたいらしい。
たくさんの書き込みや、修正が施されている書類だった。
的確な書き込みで、これなら俺でも大丈夫そうだ、とほっと胸を撫で下ろし、さっそくファイルを開いた。
紺野サンはパソコンを叩きながら、少し考えるように手を止める。

「書類見て、すぐにそうやって打ち込んでいけるとこみると・・・どこかの事務系?情報処理とか・・・」
「あはは、まさか。」
「同じ業種?」
「いいえ。接客業ですよ」
「接客?営業なの?」
「ホスト、ですよ。」
「えぇ!?」

あんまり盛大に驚いてくれたので、俺は思わず噴出してしまった。

「ホストって、ホストクラブ?」
「見えませんか?」
「いや、見えないどころか、ああ、適任・・・女の子が放っておかない・・・というか、初めてお会いしたよ"ホスト"君に。」

"ホスト君"という言い方に思わず苦笑いして、俺はまたパソコンのキーボードを叩き出す。
しばらくしても視線を感じて、顔をあげれば、紺野サンは俺をまじまじと見つめて、どこか腑に落ちない様子で首を傾げた。

「・・・どうかしましたか?」

ホストという人種に嫌悪を抱く人が多いことも知っている。
特に、しっかりした仕事を持ってる男から見たら、女に媚びへつらいお金を巻き上げるような仕事だと唾棄する者も多い。
課長サンもそうだったかな?
だとしたら、理子にとってマイナスだったかもしれない。

好きでやってる訳ではないけれど、だからと言って適当にしてるつもりでもない。
自分なりのスタンスだって持っている。
プライド持ってホストしてる人だってたくさん居る。

でも、個人の感覚まではどうこう言えない。

「嫌でしたか?」
「ああ、違う。嫌悪なんて感じてないよ。感心しただけ。今時のホスト君って、なんでもできるんだなぁって。加えてその顔!うちの営業に欲しいくらいだよ」

惜しいな、と呟いて、紺野サンは俺がキーを叩く指を見つめた。

「長いね、指。それに、本当に早い。まるでピアノでも弾いてるみたいだ」
「・・・同じようなものです」
「不思議だな。日浦くんほどホストって仕事がぴったりくる男は居ないと思う反面、一番似合わないような気もするなんて。」
「褒め言葉ですよね?」
「そのつもり」
「俺も、そう思いますよ」

俺がそう答えると、課長サンは「それじゃ、わからないとこは聞いて」と言って、自分もパソコンに向かった。
それからしばらく、俺たちはコーヒーのドリップされた匂いに包まれた室内で、短い言葉を交わしながら仕事に没頭した。


何度か自分用と紺野サン用にコーヒーをいれてテーブルに置き、キリがいいところまで打ち込んでは理子の様子を見た。
熱は一向に下がる気配はないものの、呼吸は幾分楽になった様子でよく眠っている。
うなされることもなく、タオルを替えると気持ちよさそうにさえ見えた。

時計が3時を示す頃には、頼まれていたグラフ作りと添付ファイルの整理は終わり、紺野サンの方も大きく伸びをしてどうやら一段落したらしい。
慣れない俺を指導しながらだったから、余計時間はかかったのかもしれないけれど、最終的なチェックをしながら彼はしきりに俺を褒めて喜んでいた。
仕事ができる人だから、かなり厳しいって聞いた気がしていたから、驚いた。社外の人間だからだろうか?
そう、本来社外の人間に資料を見せたりしない人だろうに。

「あ〜嘘みたいだ。少し眠れる。」
「ソファー、使ってください。今ブランケット出しますよ」

書類を片付け、パソコンの電源を落として言うと、紺野サンは「いや、今日は帰るよ」と首を振った。
ベッドルームをちらりと見て「日浦くんが居れば・・・安心だしね」と、どこか寂しそうな笑顔を浮かべる。

「信用しないで下さい。」
「仕事までつき合わせたんだ、"信用するな"なんて言わないでくれよ。企業秘密まで見せちゃったのに」

どこまでも大人な態度の紺野サンに、俺はやっぱり好感しか抱けなくて困ってしまった。

「本当に助かったよ。これで今日の打ち合わせがスムーズになる。明日プレゼンなんだ。」
「頑張って下さい」
「彼女、まだ熱ありそうだね。・・・朝になって仕事に行こうとしたら"有休申請しとく"って伝えてくれるかな?」

紺野サンはベッドルームを覗き、ずれたタオルを戻しながら、少しの間理子を愛おしそうに見つめていた。
それから振り切るように踵を返すと、俺がハンガーに掛けた背広に袖を通しながら真面目な顔つきになり「"また会社で倒れられちゃ困る"ってベットに縛り付けておいて」と、念を押すように言った。
理子のことよくわかってるなって、思わず口元に拳を当てて笑いを堪え「わかりました」と呟いた。
玄関を開けようとした紺野サンに「ありがとうございました」と頭を下げる。
「3度目、ここに来ることができるかな?」
扉が閉まる瞬間、彼がそんな風に小さく呟くのを聞いた気がした。





上着のポケットに入れていた携帯には、何通かのメールと不在着信が記録されていた。
消音設定だったから気づかなかったけど、昨晩来てくれた常連さんからの残念メールと音哉からのメール。
着信も同じだ。
音哉はともかく、ゲストには後でフォローしなくちゃいけない。
そのまま携帯を閉じて上着に戻し、俺は冷蔵庫からイチゴを一つ摘み出した。
口に含んだイチゴは、甘くて瑞々しい。

両腕を伸ばしながらベッドルームへ行き、ベッドサイドに座り顎を載せて理子を見つめた。
理子の熱い息が微かに髪にかかる。

♪♪♪

頭の中にメロディーが押し寄せる。
ベットの上に置いた指先が、ぴくりと反応する。

弾きたい。
あの日のように、理子のために。

「・・・理子」

囁くような声を残して、懐かしい旋律に飲み込まれるように眠りの国に誘われた。
自ら、誰かの為に弾きたいと想ったのは、本当に久しぶりだった。








2008,1,18




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