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slowly slowly slowly


step by step   − 17 −







あつ い・・・
喉が熱い。
体中が痛くて小さく指を伸ばして、ブランケットをめくろうとした。
指先に柔らかな髪が触れて、私はゆっくりと目を開けた。
肩口に頭を乗せて、ベッドに体を預けて眠るその整った顔立ちに、私は泣きたくなるような感覚に支配された。

いつ来たの?

少し体を起こして部屋の中を見渡す。
たったそれだけなのに、体中がぎしぎしと音をたてて軋むような気がした。
自分の体じゃないように重い。

ベッドルームのスタンドライトだけは電気が点けたままになっている。
カーテンから漏れる日差しは、もう太陽が昇っていることを知らせていた。
まだうまく頭が回らない。
ほんの少し起こした頭がぐらりと世界を歪めるので、私はそのまま枕に倒れこむ。
冷たい感触が耳の辺りに触れ、濡れタオルが落ちてしまったのだと理解する。
昨晩は・・・確か課長がここに居てくれたはずで――。
鈴木さんが来てくれた・・・気がする。
でもそのあたりもあやふやだ。
もしかしたら夢だったのかもしれない。

今、この部屋に他の誰かの気配は感じない。
右手を伸ばしてタオルを掴み、左手は眠っているその人の――唯の頬に向けて伸ばした。
もしかしたら、これも夢なのかもしれない。
熱く感じて目覚めた体は、だけど時折ぞくりと寒気を感じて震える。
まだ熱が下がっていないのだろう。

ただ・・・唯のことを考えていた。
会社で倒れた時も、浮かんだのは唯の怒った顔だった気がする。

『ああ、でも、大切な女性はいますよ。何よりも大事で、僕にとっては宝物のような人です。あんまり綺麗だから、僕は手を出せないんですよ。』

暫く忘れていた言葉まで急に思い出して、唯の頬にたどり着く手前で指が止まった。
唯が言った言葉に胸が苦しくなる。
唯に誰か大切な人が居るってわかって・・・。

『いい加減、私も唯から卒業しなくちゃかな・・・って・・・』

それで私は課長と付き合ったほうがいいんじゃないかなって思って。
でも、付き合い出せなかったのはなんでだろう?

『理子のペースで、考えればいいよ。俺は、もうずっと待ってるんだから。』

唯に会いたくてたまらなかった。
たった1週間会えなかっただけで、連絡を取れなかっただけで、会いたくて仕方なかった。
だからかな?
これは熱の所為で見ている夢だったりして・・・?

私は唯の頬にゆっくりと触れた。
私の指が冷たいのか、唯の頬からはじんわりと温かさが伝わる。
指先だけが敏感になったように、唯の肌に触れた指先が震える。
凹凸のないすべすべの肌。
男の人だとは思えないくらい、すべすべの。
長いまつ毛を爪で弾いて、指の腹を顎のラインに沿って動かした。
そのまま指をカタチのよい唇に滑らせて、その輪郭を恐る恐るなぞった。

瞬間、唯がはっとしたように起き上がり、甘い痺れを伝えていた私の指をぎゅっと掴んだ。
私は咄嗟に手を引くことが出来ず、唯に捕まってしまった指たちに息を飲んだ。

「・・・理子?」

窺うように覗き込む瞳が、驚きと心配とで私をじっと見つめている。

「ゆ・・・い、いつ来た・・・の?」
「ん?昨晩だよ」

見つめられて視線を逸らすことができず喘ぐように問うと、唯は心配そうな顔から少し怒ったように眉を顰め「ちゃんと寝てた?」と呆れたように呟いた。
その表情はとても見慣れたもので、私は言葉に出来ない安堵感に包まれて力の入らないままへにゃっと笑った。

唯は握り締めていた私の指先を頬にあて、私の指先が辿った軌跡を追いかけるように私の指を掴んだままなぞらせた。
時間をかけてゆっくりとなぞらせ、最後に唇に押し当てた。
唯の肌と自分の指先でもたらされたその刺激は、熱でぼうっとする頭をますます混乱させる。

「・・・まだ熱あるね」

手を握られたまま、唯の顔が近づいてきてあたしは驚いて目を閉じることができず、息を止めた。

こつん、と額に額をぶつけられる。
「まだ熱高い」と超至近距離で視線が絡まる。

・・・キスされるかと思った・・・

心臓が激しく暴れて、それでなくてもぐるぐるとしている私の頭はショート寸前。
苦しくなってぎゅっと目を閉じると、くすくすと笑われた。

「理子」

ベッドが少し沈み、薄く開けた視界の端で座った唯が見下ろしていた。
熱で潤む私の瞳は、唯の瞳にも熱が篭っているように見せた。
額に張り付いていた髪を指ではらい、唯はその長い指で今度は私の頬を撫でた。

そして私が唯にしたように、指先で唇に触れた。

自分でしていた時には、唯の肌の感触にただ夢中になって触れていたけれど、その行為はとても・・・・・艶めかしくて、甘い痛みが胸に迫った。
唯の顔がまた間近に迫り、私はゆっくりと目を閉じた。

唇を甘い痺れが支配する。
ほんの一瞬、下唇を甘噛みされ、体がふるりと震えた。

唇が離れるとイチゴの香りが仄かにした。
唇からもたらされた痛みが体中に回って、甘い熱が新たに生まれる。
だけど、熱でうかされている頭はそれを何かは理解させてはくれず、ただただ心臓が激しく高鳴っていくのを止められなかった。

「汗かいてる。着替えた方がいいよ」
「ん・・・」

寒気は濡れたパジャマの所為なんだと気づく。だけど半身を起こそうと身を捩るだけでキツイ。
いつの間にか放していたタオルを、唯が拾い上げてベッドサイドに置いた。
多分、ちょっと我慢すれば動けないことはない。
だけど・・・唯が傍にいると思うと、何故か泣きたいくらい人恋しくて甘えたい気持ちになってしまう。
安心しているのに、心細くて切なくて、傍に居てほしい。
今まで熱を出したって、こんな風に思うことなかったのに。

今回の病(風邪)は、精神的にキテるのかな・・・?
恋しい病とか・・・?

そんな馬鹿なことを思い浮かべる時点で、相当参っているんだなということだけはわかっていた。
不意に唯が立ち上がろうとして、私はその手首をぎゅっと掴んだ。
ぎしぎしと音が出るんじゃないかという体を唯の方に向け、手首に頬を寄せて猫のように丸くなる。

「理子?」
驚いたような声の唯に「いやだよ」と呟いた。
自分が唯の手首にぎゅうっと巻きつくような感覚。
心地よいベッドではなく、私の体は不安定な場所に浮かんでいた。

唯のこの腕を放したら・・・・唯は・・・。

「何言って・・・」
「離れちゃヤダよ・・・、私は唯ちゃんの傍に・・・」

唯のパパとママが事故で亡くなって、唯はピアノを手放した。
ピアノだけじゃない。
唯が音楽と笑顔に包まれていた想い出のたくさん詰まったあの家も引き払ってしまった。

世界が暗転する。

「理子?俺はただ、着替えを・・・」

知らない女の人が、唯の首筋に腕を絡めるようにして抱きついて・・・唯が愛しそうに体を抱きしめその髪に顔を埋めている。
その人なの?
唯が大事にしたいっていう女の人は。

「・・・イヤ・・・・・・誰も抱きしめちゃダメ・・・」

言葉にしているのか、頭の中で呟いているのかもわからない。
あの晩、唯から卒業しなくちゃと思ったのに、唯が安心して大切なヒトと向き合えるようにって思ったのに。

「・・・ここにいてよ、唯」

また深い・・・真っ白な世界に落ちていく・・・。





* * * * * * *





手の甲に温かな涙が零れて落ち、震えるように掴んでいた手からふっと力が抜けた。
だけど、俺はそのまま動けずに固まったまま理子を見下ろしていた。

何・・・?

髪を掬い上げて、再び眠りに落ちた理子の顔を覗き見る。
苦しそうな表情は、熱の所為なのか今口走った内容の所為なのか、その両方なのかわからなかったけど、肩で息をする姿に思わず「バカ」と呟いてしまう。

こんな状態の理子を放って、どこに行けというの?

「どこにも行かないよ。」
耳元で囁いて、目じりから滲んだ涙に口づける。
熱にうなされて理子が呟いた言葉、どんな情景を見ていたのか、俺にはわからなかったけれど・・・。

『誰も抱きしめちゃダメ』
『ここにいてよ、唯』

その言葉は、たとえ熱の所為で出た言葉でも・・・・それが理子の心の声だと思いたい。
本人が気がついていない、俺への気持ちが溢れ出たんだと思いたい。

俺の腕に絡みついていた理子からそっと腕を引き抜き、首の下と膝裏に腕を差し入れて抱き上げ、理子を再び枕に仰向けに横たえる。

「あんな誘い方しておいて、一体誰のところへ行けるっていうの・・・?」

唇にとんと指を押し当てて苦笑する。
「・・・ん」
それまで苦しそうに眉を寄せていた表情から、ほっとしたように力が抜けた。
こうして眠る理子の顔は、幼かった頃とあまり変わらない。
頬を撫でているだけで、愛おしくて仕方ない。

「・・・とりあえず着替えないと・・・」

立ち上がって、備え付けのクローゼットの扉を開けた。
理子が妹扱いしてくれていたお陰で、理子のワードローブは自分のそれと同じようにわかっていた。
平気で下着姿で目の前で着替えられて、泣きたくなったことだって何度もある。

本当は全部取り替えた方がいいのだろうけど、本人があの状態では無理だよな。

俺はこの季節にしては少々不似合いなワッフル地のパジャマを出して扉を閉める。
寒気を感じてる理子にはこれでもいいだろう。
着替えさせようとベッドの上にパジャマを置くと、携帯が鳴った。
理子の携帯だ。
俺はリビングに移動して、理子のバックを開けて携帯を取り出す。
サブウィンドウには、予想通り"紺野課長"の文字。
壁に取り付けられた時計を見る。8時を少し回ったところだった。

そりゃ、心配だよな。

俺は少しばかり躊躇したものの、そのまま理子の携帯を開いて通話ボタンを押した。
「・・・日浦です」
『あ、おはよう。紺野です。』
数時間前まで一緒にキーボードを叩いていた彼は、礼儀正しく『朝方までありがとう』と礼を述べて『高瀬の具合はどう?』と訊ねた。
あのまま、彼がここに居たら・・・さっきの言葉を理子は彼に向けただろうか?と考えて苦笑した。

「熱はまだありますね。さっき一度目覚めましたけど、また寝ちゃいました。」

俺が答えると『そうか』と少し塞ぎこんだ声が返ってくる。
不安・・・心配・・・嫉妬・・・いろんなものがない交ぜになった声。

「今日は休ませます。」
『ああ、書類は出しておくから。よろしく頼むよ。』
「紺野サンは少しは休まれたんですか?」

携帯を肩で挟みながら、バスルームに移動してタオルを出し、洗面所のカランを捻る。
しばらくして湯気が立ち上り、お湯をためてそこにタオルを浸した。

『お陰さまで、眠れたよ。君は?』
課長サンの問いに俺も「ええ」と答えた。課長サンは他に何を言っていいのかわからないように『あ〜・・・』と言った後、『それじゃあ』と会話を切り上げた。
「あ、明日のプレゼン、頑張ってくださいね」
思わずそう言うと、少しの沈黙の後『ありがとう』としんみりとした口調で言われ、通話は切れた。
課長サンからしたら、そりゃ言葉では言い表せないくらい複雑だろう。
だからといって、仕事を放り出すことなんてできないわけだし。

自分の今置かれている状況に苦笑した。
彼より融通がきくことが、情けなくも有利にしてくれているんだから・・・。

とりあえず、理子が次に目覚めるまで眠らせて、医者に連れてこう。
一晩たっても熱が引かないなら、それがベストだ。
ってことは、俺も一度家に戻って車でくるか・・・?

そう考えて曇った鏡を見る。
俺も着替えたいし。

でも、それも理子が起きてからだ。
あんな縋りつかれて、それがたとえ熱がもたらした無自覚の行動でも、一人にするつもりはない。
タクシーで一緒にマンションへ連れていくのがいいか・・・。

理子の携帯をポケットに突っ込み、浸して温かくなったタオルをぎゅっと絞る。

ああ、俺も休みの電話入れとかなくちゃ。

リビングに移動して、理子の携帯を机の上に置き、椅子に掛けたままの上着から今度は俺の携帯を出して開いた。
履歴から"音楽教室"を選んで押す。
もう誰かしら出勤しているだろう。
今日は早い時間に予約が入ってた。

3コールで繋がって、愛想の良い事務の女の子の声が響く。

「・・・おはようございます。日浦です。今日の俺のレッスン、誰か代わり頼めますか?・・・ちょっと体調崩して・・・いえ、俺じゃないんですけど。」

ちらりと視線をベッドルームに向け、眠る理子を見つめて俺は小さく呟いた。

「ええ・・・大切なヒト、ですよ」

自分の言葉に、胸が甘く疼いた。







2008,2,18




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