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slowly slowly slowly
step by step − 20 −
唯を呼ぶ自分の声が、まるで他の誰かのような気がした。
「ありさちゃんて」
「は?」
「ありさちゃんって、今どうしてるの?まだヴァイオリン続けてる?」
私の言葉にいよいよ唯は眉間に皺をよせてる。
「ありさって・・・日比野のこと?」
「そう、真っ白天使のありさちゃん」
唯は天井を仰ぎ見て「また急に・・・」と呟いて、腕を掴む私をちらりと見降ろした。
「期待しちゃダメってことか」とぽつりと吐き出す。
何のことなのか、私にはまったくわからない。
眉を顰めた唯は少し目を閉じて考えているようだった。
「日比野は確かウィーンに住んでるよ。ヴァイオリン続ける為に向こうに行ったんだから、続けてるんじゃない?」
「ありさちゃん、唯のこと好きだったよね」
「はぁ?」
「可愛かったな〜。私のことも妙に慕ってくれたよね」
「いつの頃の話?」
「他にも、唯の周りには天使ちゃんがいっぱい居て・・・」
「天使って・・・理子の思い違いだって。」
私だって、中学・高校と唯の知らない世界を作り上げていたのに、唯が音大付属に入ってからは、やけに寂しくなってた。
随分勝手な言い分だけど、唯のピアノを聴くのは私の特権で、いつも一番近くで聞いていたのに。
唯のパパやママのように、音楽という絆で繋がっている人たち。
そこは天使の集う、音楽の楽園。
私が立ち入ることができない神聖な場所。
唯の奏でるメロディーが、私だけのものじゃないと気がついた。
同時に、唯を遠くに感じた。
唯が再び私のすぐ近くに戻ってきたのは・・・皮肉にも音楽から切り離された瞬間から。
唯の奏でるメロディーから色が感情が消えてしまってからだった。
いろんなことがあったから、その感情について深く考えたことはなかった。
考えれば考えるほど、わけがわからなくて。
ただ、大好きな唯ちゃんと居れればよかった。
「・・・凄く苦しい・・・・よ」
唯の腕の中にずっと居たいと思う。
・・・唯を私の腕の中に、閉じ込めてしまいたいとも思う。
「・・・医者行こうな?」
私の言葉に怪訝そうに眉をよせ、唯は呟く。
「病院、どこがいい?」
「違う、そうじゃ・・・・ない・・・多分・・・お医者さんじゃ、治せないよ?」
唯の手を掴みながら、私は小さく頭を振って、ともすれば霧散しそうな――自分の頭の中に、心に込み上げる想いをかき集めてた。
本当は問いかけてた。自分自身に。
なんで唯なんだろう。
話を聞いてほしいのは、傍にいてほしいのは、いつだって唯だけだった。
唯が居れば、寂しくなんてないの。
唯が居れば、とても楽しくて。
唯が居れば、ツライことも笑い飛ばせた。
問いかけながら、いつだって真剣に答えを探そうとはしなかった。
唯は肉親以上で、小さな頃から知っていて、守ってあげたくて・・・そういう存在だったから。
でも、ようやく答えめいたものを感じてる。
もしかしたら。
それはずっとずっと前から・・・私の心の奥深くにあって。
誰が蒔いたのかわからないその種は。
ずっとそこにあって、ゆっくりゆっくり芽吹いていたの?
私はそれに気づかずに。
ずっと、水も栄養もやらずに放っていたのに。
いつの間にか私の心に深く根付いて。
そして今、それは急速に成長し、葉を広げ蕾をつける。
小さく固そうだった蕾はどんどん膨らみ、今にも綻んでしまいそう。
綻ぶ前から、甘い香りが洩れていた。
花の香りに、眩暈がしそう。
ねえ・・・どんな花が咲くの?
色鮮やかな花が咲く。
それがなんなのか、まだ私にははっきりとした答えを出せない。
唯に伝えたかった。
唯に訊ねたかった。
この感情は?
苦しくなって、息を吐く。
「唯」
名前を呼ぶだけで、また胸がきゅっとなる。
「・・・なに?」
そんな私を心配そうに見つめ、唯は首を傾げた。
私の混乱している言葉にも、唯は嫌な顔したりしなかった。
そのまま急かすことなく、私の言葉を待ってくれてる。
それは何気ない言葉と仕草。
ああ、そうだ。
唯は、いつもこうやって私を待ってくれてた。
ただ手を差し伸べて、私を見つめていてくれた。
『ゆっくり、ゆっくり考えて』
私に何度となく言ってくれた言葉。
恋することができない私を慰めてくれた言葉。
人と違っても、ゆっくりでもいいんだと、唯が言ってくれたから。
「・・・唯に逢えないと、寂しい・・・寂しかった・・・唯が他の誰かといると思うと・・・苦しい・・・」
「・・・」
「"ハナレナクチャ"って、そう思ったのに、離れることが怖い・・・唯が誰かのものになるのが怖い・・・」
唯を掴んでいた指先が反対にぎゅっと引き寄せられ、あっと思った時には再び唯の腕の中にいた。
私より数倍艶めかしい唯の唇から吐き出された息が熱く、絞り出したようなうめき声が私の耳を痺れさせる。
「苦しくて、寂しくて、つらくて・・・だけど、唯の中に・・・こうやって抱きしめられてると・・・嬉しくなる。安心する・・・のに、きゅうっと胸が苦しくなるよ・・・なんでかな?」
妹でも、弟でもない唯。
それでも、誰より近くて特別な――男。
そう、唯は、ずっと、ちゃんと、男の人だった。
「これは、酷過ぎる独占欲だ・・・って・・・わかってる・・・なのに、どうしても・・・」
「・・・あのね、理子・・・」
唯の肩に零していた呟きは、ますます力を入れて抱きしめる唯の腕で押えこまれた。
呆れたように名前を呼ばれて、私はだけど、その言葉が少し震えていることに気がついていた。
酷い告白をした所為だろうか?
だけど唯は背を向けず、正面から抱きしめてくれている。
「待つのは、やめにしてもいい?」
苦しそうな声。
私は首を傾げる。
「何を?」
「・・・その感情の名前を知りたい?」
問いかけた私に、唯は囁くように言って、両手で私の肩を掴んでゆっくりと体を離した。
驚くほど優しいその指先に、また得体のしれない疼きが起こる。
重い頭を持ち上げて、私は唯の瞳を見つめた。
泣き出しそうな苦しそうな唯の微苦笑に、思わず右手を伸ばして頬に触れる。
「教えて・・・?」
その表情は、何を意味してるの?
未知なこの感情は、どんな名前を持ってるの?
私の右手に左手を重ね、唯は目を伏せ私の手のひらを見つめ、そっと口づけを落とす。
唯の唇が触れた場所は、必ず甘く痺れる。
それが不思議で仕方ない。
「恋、だよ。その感情の名前は――"恋心"。」
私の手のひらに魔法をかけるように、唯は言葉を紡いだ。
「好きって言う感情だよ。恋愛感情」
「こ・・・い?」
言い聞かせるようにゆっくりと囁きながら、唯は私の瞳を覗き込んだ。
私は唯の瞳を見つめながら、もともと半分しか動いていない頭で、唯の言葉を反芻した。
「理子は、認める?理子の中にある感情が・・・"恋"だって」
乞うような切なげな瞳が、まっすぐに私を見ている。
綺麗な瞳。
茶色い大きな瞳。
唯の。
胸がどきんと跳ねる。
「熱の所為じゃ・・・なかったんだ・・・?」
心拍数が上がり、私の頭はまた沸点に近づいていた。
「私は・・・唯のことが・・・好き・・・?」
まるで他人事のような言葉。
だけど、ようやく導き出した答え。
「唯が、好き・・・」
吐き出した言葉とともに、安堵で頬が緩んだ。
なのに胸に走った痛み。
あまりの鋭さに、私は苦しくて瞳を閉じた。
好き、だけど。
涙が頬を伝う。
唯の心には、もう他の女が居る。
唯に再びピアノを弾かせたのも、そのヒトなんだろうか。
私ができなかったこと。
唯に再びメロディーを奏でさせたヒト。
どうしたらいいの?
唯に向って、育ってしまった私の恋は。
"初恋は実らない"って、誰か言ってなかった?
実らせるどころか、見せる相手もいないのに開いてしまった花は・・・どうやったら枯らすことができるの?
また気がつかないままだった時のように、唯の傍にいる方法を私は知らないのに。
恋というやつは、本当になんて厄介なものなんだろう。
唯から与えられた甘い痺れが、脳を支配する。
恋は猛毒なの?
じわじわと広がる毒が、唯を求める。
体中で、唯を欲しがる。
相手の全部が欲しくなってる。
毒なだけじゃない。
猛獣だ、恋って。
自分ではコントロールできない、獣。
ほらね、やっぱり、私には恋って難しい。
こんなに苦しいなんて、思ってもいなかった。
「理子」
熱に浮かされ、初めての感情に支配されて、なのに私にはどうしたらいいのかわからない。
私の名前を呼ぶ唯の声がだんだん遠のいていく。
最後に記憶に刻まれたのは、唇に落ちた温もり。
唯の長い指で優しく髪をかきあげられた感触と、耳の後ろに走った甘い痺れ。
そして私の中で咲き乱れた、花。
この感情を恋と認めるのは、この咲いたばかりの花を散らしてしまうかもしれないということ。
2008,9,15