novel top top
slowly slowly slowly
step by step − 22 −
雨?
微かに聞こえる水音。
ああ、そうね、雨が降ってたいたわ。
事故の知らせを聞いた時から、雨が降り続いていた。
しとしとと降る雨は、おじさんとおばさんの死を悼むように降り続いていた。
悲しみ色で埋め尽くされたホールは、温かな色合いが大好きだったおばさんには似合わない寒々しい色の花が埋め尽くしていた。
ピアノの前で微笑むおじさんとおばさんの大きな遺影。
本当に? 本当にもう逢えないの?
現実感が乏しい空間。
遺影は中央に飾られ、その端にぽつんと唯が一人座っていた。
おじさんとおばさんが事故に遭われた日、私は母さんからの電話ですぐに病院に向かった。
講義が終わり、カフェに入ったところで携帯が鳴った。
そこからの記憶は酷く曖昧だ。
降り始めた雨の中、走りだしたことは覚えている。
「理子、あなた今から行ける? 唯ちゃんも向かってると思うから。」
キャンパスからほど近い救急病院。
おじさんとおばさんは、空港に向かう途中、事故に巻き込まれたらしい。
私は唯より先に病院に着いた。
緊迫したやりとりに、壁に背を預けた。
処置室からは、大きな声が響いている。
気がつけば、私は半分顔が見えないおばさんの横に立っていて、看護師さんに支えられるようにして見下ろしていた。
「り・・・こ・・・ちゃ・・・・」
必死に伸ばされた手が、私の方に伸び、私は弾かれたようにその手を掴み「ここにいます」と答えた。
ピーっという甲高い電子音が響き、カーテンで遮られた向こう側がざわめき、一層忙しなくなる。
カーテンの向こうに居るのはおじさんだって、わかってた。受け入れられないような現実。
「っ・・・・!」
その音に呼応するかのようにおばさんは苦しそうに顔を顰めた。
駄目だよ!唯が、唯が来るまでは!
「おばさん!」
「ゆ・・・い・・・」
私の手を強く握っていたおばさんの手から、ふっと力が抜けた。
「!!!!」
その瞬間をなんといえばいいだろう。
白く華奢なおばさんの手から、指先から、さらさらと"命"が流れ落ちていく・・・・。
「おばさん!!!」
慌てて両手で握りしめ、私はその"命"の流出を食い止めようと、必死だった。
お願いだから、逝かないで! 唯を一人にしないで!
溢れる涙で、何も見えなかった。
看護師さんに支えられて、私はおばさんから離されていた。
「・・・母さん!」
人影が、飛び込んでくる。
「・・・母さん!」
絶望的な声。
「父さん・・・!」
唯の世界の"音"が壊れた瞬間だった。
その瞳は開かれていても何も映してなんかいない。
「あの年で喪主だなんて」
囁かれる声も、唯には届いていない。
ただ、目の前に置かれた場違いなグランドピアノをじっと見つめていた。
潰れてしまいそうな胸の痛み。
「それでは、どうぞ」
その一言に、唯の顔が強張った。
『やめて! 誰かやめさせて! 唯ちゃんが壊れちゃう!』
どうして誰も気づかないのだろう?
大人たちが勝手に組んだプログラム。
それはなんて非情なのだろう。
唯がレクイエム(鎮魂歌)を弾くことが組み込まれ、それがまるでメインイベントであるかのようだ。
好奇の瞳が、一斉に唯に注がれている。
ゆっくりと歩きながら、唯はピアノの前に立った。
唯にとっての音楽は、おじさんとおばさんという愛情の世界で流れていたもの。
温かな世界で、音楽に育まれた唯。
それなのに、その世界が崩壊したのに、大人たちはレクイエムを弾けという。
心の内の、肉親を失った悲しみをみんなに伝えろと。
違う、"ピアニスト日浦 悟"の息子として、見世物になれというんだ。
それが唯に与えられた使命だとばかりに。
椅子に座り、唯は遺影を見つめた。
焦点が合ったのかわからない。
しばらく見つめ続けた視線が、何かを探すように彷徨い、私を見つけて止まった。
(ごめん)
確かに唇はそう動いた。
私は(やめて!)と唇を動かした。
喪失感の中で、唯をこれ以上傷つけたくなかった。
(一緒に帰ろう?)
私が手を伸ばすと、唯はくすっと笑って悲しそうに瞳を伏せ、首を横に振った。
(これで・・・)
終わり――
私には、唯の声が聞こえた気がした。
鍵盤に向かって、唯の指先がのびる。
やめて!!
唯が鍵盤に触れた瞬間、悲しみが何十倍にも膨れ上がった。
それは、今まで聞いたことがない、鋭い音。
鎮魂を願う音楽は、悲鳴を上げ、死者の眠りさえ悲しみで阻んでしまうかのような、そんな音だった。
壊れてしまう!
おじさんもおばさんも、唯のこんなメロディーを聴くのは耐えられないだろう。
自分たちの愛した息子が、心が壊れていくのをあの二人が気付かないわけがない。
それで喜ぶわけがない。
大好きだったあの家で、大好きだった曲を弾く。
それが二人が聴きたい唯のメロディーのはずだ。
心が壊れていく。
私はその場から逃げだすこともできず、しゃがみこんで耳を塞いだ。
死んでしまう。
唯の音が、死んでしまう。
悲しくて、悲しくて、胸が苦しくなる。
あの時、涙も流さずに、流せずに、唯はピアノを弾き続けた。
そして、ピアノに鍵をかけた。
唯は、思い出の詰まったピアノを手放した。
私が落ち込んだ時、嬉しいことがあった時、唯はいつもピアノで励ましたり慰めたりお祝いしてくれた。
だから、今度は私が、唯を助けたいと思った。
唯の家族になろうと思った。
大切な、私の、唯。
その想いは、すでに恋だったんだろうか?
でも、唯に心を戻したのは、私じゃない。
唯にピアノを弾かせたのは、他の誰か――。
「あ・・・れ?」
頬に触れるシーツの感触がいつもと違う。
サラサラでツルツル。
何故だかわからないけれど、私は自分のベッドじゃないところで寝てるらしい。
唯の肌みたい・・・
知らないベッドだというのに、私はちっとも不安にはならなかった。
だって最後の記憶は、唯と一緒だった。
それに、ちゃんと服着てる。
何より、一番安心する香りに包まれているのだもの。
唯の匂い。
それで、ここは唯の部屋なんじゃないかって気づく。
傍らにその体温も息遣いも感じない。
なのに、全身唯に包まれているような感覚は、それ以上考える必要がないことを私に伝えていた。
体中があげていた悲鳴は、それほどでもなくなっていた。
ただ痛みの名残りのように、体を動かすのは億劫だ。
喉がからからに渇いてる。
これは抗生剤を飲んだ時の渇き方に似てる。
何故だか私は風邪薬を飲むと無性に喉が渇く。
薬も飲ませてもらったのね。
酷い寒気もうだるような熱さもない。
ああでもまだ少し体温は高めかもしれない。
それでも、あの地獄のような状態から比べれば、格段に体は楽になっていた。
・・・唯が病院に連れて行ってくれたんだ。
そのあたりの記憶は曖昧で、だから白衣姿は唯じゃなくて医師(せんせい)だったのかも。
私は瞳を閉じたまま、もう一度シーツの感触を確かめるように頬ずりした。
慣れない感触。シルク・・・だよね、きっと。
そこで、はたと気がついた。
そういえば、唯のベッドルームに入ったのは・・・初めてだ
唯の部屋に来るよりも、唯を私の部屋に呼びつけることの方がずっと多い。
私と唯とでは生活リズムが違うから、ここで過ごす時間は限られていた。
あ、あれ??
急に鼓動が速くなる。私はベッドの中で自分を抱きしめて丸くなった。
抑えようとしても、鼓動はちっとも元に戻ってくれない。
ぎゅっと強く閉じていた瞳の端に涙が滲むのを感じて、慌てて瞳を開けた。
なんで泣きたくなるの?
悲しいわけじゃない。
なのに、苦しくて切ない。
うわ、うわわ、こんなの知らない。知らないのよ!
私はぽろぽろと零れてくる涙に驚き、重い体を起してスプリングのよく利いたベッドの上で、その涙の一粒一粒に答えが隠されているような気がして、掌で受け止めた。
どうしちゃったの私!?
涙がぱたぱたと手のひらに落ち、私はそれを胸の前でぎゅっと握りしめうずくまった。
温かだった涙は手のひらで冷たくなった。
どうして、なんて、そんなの、この持て余す感情の所為だってことはわかってるの。
唯が教えてくれた。
これは、この気持ちは"恋"なんだって。
きゅっと締め付けれられる胸に、ただ唯の笑顔が浮かぶ。
唯のベッドの上で、私は何をしてるの?
混乱する頭の中で、たった一つ、はっきりしてることがあった。
唯、が、好き。
うわぁ、と自分自身に驚いているのに、笑い飛ばすこともできずに涙が止まらない。
抱きしめて欲しくて涙が出るとか、どうしてそんな思考回路になってしまうのだろう?
「ぅぇ゛・・・・」
あまりに理解できない感情に、私はまるで自分の体から追い出されてしまったみたいに、嗚咽を押し殺す私を見下ろしていた。
愛しいと、恋しいと、涙が出ることを初めて知ったの。
ただ逢いたくて、それだけで、苦しくなるなんてこと、今までなかったから。
気持ちがコントロールできないことが怖い。
だってね?
初めて好きになった人に、私はとことん情けない姿を曝し続けてきたのよ?
そしてその人には私以外の誰かが既に居て、心を捧げてしまってる。
「理子?」
慌てたような声。
その声が分離してた私を一つに束ねて、体の中に押し戻してくれる。
そうして、情けなくぼろぼろなままで、私は顔をあげた。
唯を前に、私は取り繕うということができないのだ。
「ゆ、い・・・・」
シャワーを浴びていたのだろう。
雨音は、シャワーがタイルを叩く音だったんだ。
濡れたままの髪をタオルで拭いていた唯は、私を見て固まってしまってる。
ふぇん、とまた新しい涙が浮かぶ。
唯は困った様子で大股で近づいてくるとベッドの端に座って私に手を伸ばした。
私のベッドより少しだけ大きく感じるベッドが軋んで、私は小さくぐらついた。
「なんで泣いてるの?苦しいの?」
おいで、と伸ばされた手を見つめ、私は躊躇してしまう。
当たり前のように伸ばされて、それが私の特権とばかりに掴んでいた手。
今までは、男として、女として、互いの性別を意識することなく甘えていた。
掴んで離せなくなったらどうしよう?そう考えると、戸惑ってしまった。
「・・・・なんで悩むの」
唯は言いながら苦笑して、私の腕をぐいっと引きまるで赤ちゃんのように抱きかかえた。
長い指が慈しむように優しく頬に触れ涙を掬う。
「俺の全部、理子のものだよ。」
唯の前髪から落ちてきた水滴が、唇にあたる。
びくんと体が跳ねる。
「唯」
名前を呼んでみる。
声は相変わらず枯れていて、小さな声だった。
「ん?」
聞き返す唯に、私は何も言えなかった。
だって、唯は一度も私を好きだと言っていない。
私が唯を好きだって知っても、答えてはくれていない。
「・・・・ピアノ、聞かせて・・・?」
唯の心を聞かせて欲しい。
恋は人を欲張りにする――