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slowly slowly slowly
step by step − 23 −
「君、今のままじゃピアノ弾けなくなるわよ」
レッスン室には自分一人しか居ない筈だったから、背後から聞こえた女の声に少なからず驚いた。
振り向かなくても、それが誰かわかる程度には親しんだ声に溜め息が零れる。
「それ、先週も言われましたね。」
楽譜に視線を向けたまま苦笑する。コツンと気にもしなかった靴音が響いて、ピアノの前に広げられた楽譜を長く白い指がなぞる。
「Goldberg-Variationen(ゴルトベルク変奏曲)」
「綺麗な発音・・・」
「わかるの?」
「ドイツにいたんです・・・小さな頃。」
俺の言葉に、まるで魂が引き裂かれた瞬間のように瞳を閉じ、吐息を零すように「ああ、そうだったわ」と呟く。
この人と父さんの間に何があったのかわからない。
だけど、この人が父さんに惹かれているのだろうということは、わかっていた。
「これ、この間のリサイタルであなたのお父様が弾いていた曲だわ。」
「・・・ええ。」
ボブショートの髪はレイヤーで軽やかに見えて、小さい顔が引き立っていた。年より若く見えるのはこの髪形の所為かもしれない。頭の上で軽やかに跳ねる髪は彼女の奔放さが現れている気がした。身体のラインを強調するようなぴったりした服を着ているのに、セクシャルな匂いを感じさせない不思議な人だ。この人は自分に何が必要なのかを熟知しているのだろう。
俺はちらりと彼女の横顔に視線を向けただけで、すぐに鍵盤に視線を落とす。
言いようのない焦燥感に囚われ出したのは・・・彼女に言われた言葉の所為。
そう思おうとしたのに、本当はずっと、胸の奥にあったのだとようやく受け入れる気持ちになってきていた。
でも、だからって、どうしたらいい?
弾けなくなるって、どういうこと?
指が動かなくなるとでも言うの?
苛立つ気持ちが沸々と滾り、その気持ちのまま鍵盤に触れようとした。
「ダメ。弾いちゃダメよ。」
「どうして?雨宮先生。普通は"もっと練習しなさい"っていうところでしょ?」
その細い身体のどこにそんな声量が隠されていたの?と問いたくなるようなしっかりとした声が俺の手を止める。
非難めいた視線で彼女を見つめれば、可笑しそうにくすくすと笑い「そんな真面目な生徒だったかしら?」と俺の肩をまるでショパンを奏でるように指をトトンと乗せて叩いた。
附属からの生徒がほとんどのこの音大で、彼女は際立って目立つ存在だった。
講師と呼ぶには若すぎる風貌。でも、彼女が本当は幾つなのか、知っている人間はこの大学内では極めて少ないだろう。
・・・それは裏を返せば、知っている人間は彼女と親密な関係だということで、俺は彼女が10歳年上だと知っている。
「君は耳が良すぎるのよ。」
そう言いながら、雨宮 涙(あまみや るい)は俺を押しのけるようにして椅子に座ると、鍵盤に向かってしなやかな指先を動かした。
ゴールドベルク変奏曲・・・「眠りのための音楽」。なのに、彼女が弾くと、音符が躍り出したように体中がざわめきだす。確かに譜面通りに弾いているというのに。
「あなたは聞きすぎたのね。幼い頃から、確固たる"音"を。仕方ないわ。日浦 悟の息子ですもの。彼が生み出す作り出す世界にどっぷりと浸かってきたのだもの。」
水面を飛び跳ねるように動く指先が、急に悲しげに重くなる。
何故この曲をそんなにも悲しい音色に変えてしまうのだろう。
「日浦 悟という音楽の世界、それがあなたの全て。誰が指導したって、それ以上になることはないの。」
「・・・!」
永遠の眠りへと誘うかのような音。
「気がつかなければ、きっと"さすがピアニストの息子!ピアノがとっても上手!"って一生持て囃されたのに。そのルックスがあれば、きっと・・・」
「それじゃあ何故貴女は、ここに来たんですか?」
悲しみから、喜びへ。
まるで道化師がおもちゃのピアノを弾くように鍵盤を軽やかに弾く指先を掴んで見つめた。
瞳の中を覗き込んでも、まるで人形のガラス玉の瞳を見ているような気持ちになる。
好きなように鍵盤を操る女性なのに。
そのアンバランスさが、俺の中の何かを揺さぶる。
掴んだ指先が微かに熱を持ち、人形ではないのだと辛うじて気づかせてくれていた。
「頼まれたからよ。日浦先生に。もうすぐ・・・君が弾けなくなるだろうからって。」
「父さんに?」
「"唯はそろそろ気がつくころだ"って。楽譜通りに演奏しても、"思い通りに"弾けないということに。日浦先生は、演奏家としても一流だけれど、センセイとしても一流だわ。・・・いえ、父親として、かしら?」
俺が握りしめたままの指をちらりと見て、彼女は唇に口づけた。
はっとして身を捩り、だけど身体の奥底で昨日の名残りを思い出すかのように熱が膨れ上がるのを感じていた。
「君はもうすぐ弾けなくなる。日浦 悟という音楽の中にいる限り、日浦 唯というピアニストは死んでしまうのよ。・・・私のように。」
ピアノは何を弾いても、どんな風に弾いても、何一つ指と耳に馴染まなくなっていた。
それまでレッスンを苦痛と感じたことは少なかったのに、ピアノの音色が・・・自分の奏でるピアノの音に嫌悪すら抱くようになっていた。
音が壊れていくのを感じてた。
今まで築き上げてきた"音楽"が"世界"が軋んで歪んできているのを止めることができなかった。
それでも、理子を想って弾く時には優しさや愛しさが溢れてくるのがわかった。
理子が好きで、大好きで、それでもいつまでも子供扱いされていた俺。
だけど、昔とは違う。
大人になっていく理子とは、知らない間に距離ができてた。
幼かった頃のように、気軽に家に来ることもなくなった。
就職活動も上手くいき、毎日嬉しそうにキャンパスに向かう理子が憎らしく思えた。
時には玄関先まで男が迎えにくる。
無防備なほど眩しい笑顔で出てくる理子を、何度家の中に閉じ込めてしまいたいと思っただろう?
久しぶりに顔を合わせれば、まるで幼い頃のまま時を止めてしまったように「唯ちゃん!」と笑う。
男として意識されていないことなんて、とっくに知っていたのに、それが俺を苛んだ。
理子から逃げるように、崩れていく音楽から逃げるように、俺は涙との関係に没頭した。
1か月しか続かなかったけれど。
涙は、俺に父さんを重ねて、俺は理子を重ねていたのかもしれない。
倒錯の世界に溺れる思春期の子どもように、俺は涙に溺れた。
そこに救いなんてないと、知っていたのに。
親父たちが亡くなって、涙の言葉の意味がわかった。
もちろん、こんな風に世界が終るなんて、流石の彼女も予測してなかっただろうけれど。
俺にとって、ピアノも音楽も"日浦 悟"というフィルターを通して取りこんで来た。
楽譜から何かを感じる前に、五感全部で"日浦 悟"の音楽感を刻みこんできたんだって。
俺にとって、世界は、音楽は、父さんが死んだ時に一度全部崩壊してしまったんだ。
* * * * *
『それで、今日も休むの?』
音哉のからかうような声が携帯越しに響き、俺はちらりとベッドで眠る理子に視線を落として微笑む。
"ピアノを聞かせて"と可愛らしく強請った恋しい人は、再び眠りの世界へと落ちて行った。
静かな寝息をたてて、ベッドの中で丸くなっている。
そっと前髪を指先で払って、寝顔を見つめる。熱も下がり、どこか安心しきったような寝顔。
『あーでもな、今日はダメ。出て来いよ。』
「何かあったっけ?」
シフト表を思い出そうとしたけれど、思い当たらず首を傾げた。
『あの人から電話あったんだよ。お前当分遊ばれるぞ?』
「ボスの不興を買うようなことしてないつもりだけど。」
それは嘘だ。
今朝の電話でそんなもの、とっくに予測してたことだ。
『"今日ゲスト連れてくから、唯を絶対連れて来い"って命令が・・・わかってる?あの人の機嫌損ねると後が怖いから、俺はお前をどうしても店に引きずり出さなくちゃいけないってわけ。』
「・・・それは穏やかじゃないね。」
その言葉があまりに真実味がありすぎて笑えないことに、俺も音哉も同時に溜め息を吐いた。
「わかった、行くよ。」
あの人が関わっているなら、多分、俺が今乗り越えなくちゃいけない・・・再構築しなくちゃいけない世界に関係があるんだろう。
携帯の向こうで『意外・・・』と呟く音哉に苦笑する。
そうだろう。
今まで、意図的に避けてきたようなものだから・・・。
『でも、お姫様はどうするわけ?もう一人にして平気なわけ?』
「・・・傍に居たいとこだけど・・・この辺で距離とらないと」
『自制心なくす?』
音哉の言葉に俺は自嘲して「いっそなくしてしまいたいけど」と呟いた。
もう本心を曝け出してもいいだろう。
賞賛するような口笛が響く。
「とりあえず、いつもの時間に出勤するよ。お姫様をお城に返しに行かなくちゃ。」
『そこに閉じ込めておけばいいじゃん。ベッドの中に。』
「このお姫様はとってもお転婆だからね。元気になったらベッドで大人しく寝ていられないんだよ。」
きっと、次に目覚めた時には、仕事のことが心配でPCを開けてメールチェックしたがるに決まってる。
「明日の予定はっ!?」ってスケジュール帳引っ張り出して。
『働き者だなーそのお姫様は。だからロマンチックなことに疎いんだな。』
「馬鹿だな、こんなロマンチックなお姫様、どこにも居やしないよ・・・」
理子は、恋をしらない。
そんなお姫様に、恋を伝えていくんだ。
これがロマンチックじゃないって?
『ほっんと、苦労性だね。唯は。』
「音哉ほどじゃないよ。」
『ああ、そうだ。不安の種は取り除いた?』
「何?」
怪訝に思って問い返せば「こっちの話〜♪」と歌うように答えて「まだ楽しめそうだな」と不穏な言葉を呟く。
天性の悪魔が宿ってる音哉のこの言葉に、一瞬不安になって携帯を見つめた。
『ま、大丈夫だろ。少しくらいのハードルは恋愛のスパイスだよな?』
「・・・なんのこと?」
俺が一瞬言いよどむと、音哉は携帯の向こうで大笑いを始めた。
シャットアウトするように、携帯を切ってベッドサイドに置いた。
一抹の不安は過ったけれど、自分のベッドに理子が眠っているというシチュエーションはすぐにその不安をかき消してしまった。
ようやく、近づくことができる?
それがどんな意味を持つのか、理子にはわからないだろう。
新しい世界の構築に、理子は必要不可欠な存在だった。
スーツを着て、眠り姫よろしく眠る理子を抱き上げる。
身じろぎする理子の額に口づけを落とし「寝てていいよ」と囁く。
訳がわからずに「んー?」とすり寄る理子の髪が頬に触れてくすぐったい。
外気に触れないようにブランケットに包んで、連れてきた時と同じように車に乗せた。
倒したままだったシートに理子を座らせると、さすがに目覚めた様子でシートベルトを回す俺を不思議そうに見つめていた。
「・・・あ、あれ?」
「ごめん。仕事行かなくちゃいけないんだ。」
「あ、ああ・・・うん・・・」
「理子のマンション帰るよ。イチゴ食べたいだろ?」
「うん。・・・鈴木さんがおっきい苺買って来てくれたの・・・あれって夢?」
ぐるりとボンネットを回って運転席に乗り込むと、理子はちょっと自信なさそうな瞳で俺を見つめて訊ねた。
鈴木さんだけじゃない。俺が買っていったイチゴも理子に食べてもらうのを待ってる。
それにしても、理子の反応が可愛くて、思わずイジワルしたくなる。
「これも夢だろ?」
「え?そうなの?」
俺のしれっとした言葉に、理子はきょとんとした顔を見せる。
本当に26歳って疑いたくなるような、懐かしい表情だ。
とぼけてる俺に、理子は自分の頬を思い切りつねって「いたっーーーーー!」と叫んだ。
お決まりと言えばあまりにお決まりな行動に、俺は思い切りふきだしてしまった。
そんな俺を咎めるように見て「唯ちゃんのイジワル」と少し赤くなった頬を摩っている。
「・・・"ちゃん"は禁止。」
そう言って、赤くなっている頬に唇を寄せた。
触れて、舌でそっとなぞる。
「ゆっ・・・!」
「イチゴ、いっぱいあるから。冷蔵庫の中に。」
なぞった場所に手をあてて、理子は真っ赤になって絶句した。
戸惑いが先に立って、理子はどうしたらいいのかわからないんだろう。
もっと、俺でいっぱいになればいい。
「理子の方がイチゴみたいだけど。」
「運転中なのに、よそ見しちゃダメ・・・。」
力の入っていない腕を伸ばして俺の腕を軽く押す仕草に、いつもの理子が戻ってきたのを感じる。俺は安堵しながらも少しだけ残念な気持ちで「はいはい」とハンドルを握り直した。
多分、もう大丈夫だ。
アクセルをゆっくりと踏み込みながら、ミラー越しに理子を見る。
同じようにミラー越しに見つめていた理子の視線とぶつかって、思わず微笑んだ。
もう少し、こんな穏やかな時間を過ごして・・・そうすれば、理子も戸惑わずに"恋"を始めてくれる?
俺も、また理子の為にピアノを弾けるように・・・壊れた音じゃなく、新しい世界を作り上げるから・・・。
「理子の誕生日、予約させて。」
俺の言葉に、理子はこくんと頷いた。
「約束だよ?」なんて、可愛く微笑みながら。
すべては動きだしていた。
ゆっくり、ゆっくり、恋を育てたい俺たちを無視して――。