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slowly slowly slowly

step by step   − 5 −







思わずソファーに座り込んで、薄暗くなった店内で、何度目かわからない溜め息を吐いた。
頭上でからかうような笑い声が響き、俺はそのままソファーに倒れこんで横になる。
「あれが、唯の"お姉ちゃん"なんだ?」
ピアノの前に座り、指先にあたる鍵盤の重さを確かめるように、ショウ━━来栖 音哉が鍵盤に触れる。

「あの外見で処女はないでしょ。」

珍しく、音哉が『オンナ』に興味を持っている。
正しくは『人間』に、か。
「おもしろいねえ。こんなに"オトコ"な唯を、どうやったら"妹"だなんて思えたんだろう。」
初めてお前に会った時から、どう見たってオトコだったよ?
そう言って、音哉は前触れもなく突然ピアノを弾き出した。

「ラフマニノフ:・・・」
彼がこのホストクラブで働いているのは、単にこのピアノがここにあるからだ。
音哉にとって、このピアノはとても大切な物だから。
『ここのピアノと相性がいいんだ』と、ここに初めて連れてこられた時には驚いた。
俺が手放した・・・・父さんのピアノが、ここにあったのだから・・・

こうして仕事の後や、仕事前の同伴がない時は何時間でも鍵盤に触れている。
かなり自由にさせてもらっているのは、彼がNO1だからではなく、オーナーが彼の才能を認めているからだろう。

照明は最小限。
ピアノだけを浮かび上がらせるように灯しているだけの店内は、もう俺と音哉の二人だけだった。
こんな時の音哉は、初めて出会った頃のまま、ピアノが好きで好きでたまらないという表情を見せる。
「協奏曲・・・」
「3番だろう?」
「ご名答!」
軽くそう答えると、俺の言葉を待たずにピアノはどんどん走り出した。

ピアノ協奏曲第3番 ニ短調Op.30

難易度の高いこの協奏曲ですら、音哉は難なく弾きこなす。

「まさか弥生さんが唯の"お姉ちゃん"と同じ会社だったなんてね」
「お姉ちゃん言うな・・・。」

アレグロ・マ・ノン・タントをこんなに繊細に大胆に弾きこなす人を、俺は2人しか知らない。

一人は音哉で、もう一人は・・・・・・・父さん。
父さんは、こんな風に話をしながら弾いてはいなかったけど。
知っていて、音哉はわざと弾いてるのだ。

カデンツァを流麗に弾きこなす技量は、聞く人が聞いたら、何故こんなところで?と思うだろう。
音哉の技術は、在学中も一番だった。
父さんの事故がなければ、彼も俺と同じで、大学を辞めたりはしなかっただろう。
有望な彼の将来まで、あの事故は奪ってしまったんだ。

「携帯、返事しなくていいの?」
音哉の言葉に、右手に携帯を握り締めたままだったことに気づき、開いたままのメール画面にもう一度視線を向けた。


明日、映画行こう?
仕事終わったら電話して。
何時でもOKだから。    理子


「・・・理子さんだろ?」
第二主題の息もつかせないほどの盛り上がりにも、音哉はまるで軽く飲みながらを世間話をするような感じで言葉を紡ぐ。
「・・・・・・。」
返事をせずに、俺はこの曲の主題の再現部に耳を傾けた。視線は携帯画面に貼り付けたまま。
「珍しいじゃないか。唯が返事しないなんて。待ってるんじゃないの?彼女。」

俺がピアノに触れた瞬間の、理子の酷く傷ついた瞳を思い出して、そのまま携帯を折りたたんだ。

まだ、知られたくなかった。
理子には、まだ知られたくなかったんだ。
あんな顔させるつもりじゃなかった。

音哉の指先が激しく鍵盤を叩き、その勢いで立ち上がるとしばらく目を瞑り余韻に浸る。
俺の耳にオーケストラの音が聞こえるように、音哉にも聞こえているのだ。
そうして、どさっと目の前のソファーに倒れこんで、前髪の間から悪戯っぽく瞳を輝かせる。

「いいじゃん。なんでも"お姉ちゃん"に知らせる必要はないでしょ?ピアノを弾くことは、唯の表現方法の一つだ。」
それを彼女に知らせる必要がある?オトコと意識してくれない彼女に?
まるで心の中をそのまま読まれたかのような言葉に、眉を顰める。
「次は唯だよ。」
そう囁くように言った音哉は、体を起こすと俺をじっと見つめた。

「・・・・・あのさ、オケもないのに弾かせるつもり?」
内心を隠すように苦笑して立ち上がると、「必要ないくせに」とくすくす笑いが響く。
「アダージョとフィナーレ両方だからね?」
しれっと言って、音哉はテーブルに置いたミネラルウォーターに口をつける。
携帯をぽんとソファーに置いて、俺はゆっくりとピアノの前に立った。
「スコアもないのに、そんな長く弾けるかっ」
「弾けるさ。唯は。」
知ってるもん。
可愛く言って、オンナノコたちを骨抜きにする営業スマイルを見せ、「早く、早く」と急かす。

こいつに何を言っても無駄だ。
結局、誰よりも・・・・・ピアノに関しては音哉と時間を共有したのだから。

「先生が、お前にどれほどのものを残したのか、いい加減気づけよ・・・」
すっと笑顔を引かせ、音哉は真剣な眼差しを向けた。
「父さんが残したのは、お前にだよ?音哉。みんなお前が引き継いでくれた。」
父さんの技術を、ちゃんと受け継いでくれた。
それが、どんなに父さんを喜ばせていたか、俺が嫉妬したかなんて、知らないだろう?

俺は静かに目を閉じて椅子に座り、父さんがピアノの前に座る瞬間に見せた、瞳の厳しさを思い浮かべた。
いつもは温厚な、ただ優しいだけの父さんが、リサイタルの前などに見せる厳しい表情。
演奏家としての父さんは、どこまでも厳しく、そして激しさを秘めていた。

頭の中で、オーボエの切々としたメロディーが流れ始めた。
そして、オーケストラがそのメロディーに重なり、哀愁を深める。

大きく息を吸い込むと、ゆっくりと鍵盤に指先を置いた。
まるで吸い寄せられるように、指先が動く。
胸が焦がれ、切なくなっていく。

「ラフマニノフは・・・・・・先生の一番好きな作曲家で演奏家だったからね」
音哉の満足げな、どこか悲しそうな声が聞こえた。

「お前には、先生の血が流れてるのさ・・・・」
どうやっても、それは、手に入らない。

それなのに、それを手放すなんて、絶対に許さない。
―― そんな風に、ピアノから離れた俺に・・・・音哉は言った。

すべての色を失って、真っ白になってしまった俺には、理子が居た。
まるで俺のためだけに、鮮やかに色を放つ。
例えそれが、家族に対しての気持ちと同じでも、その温かな色に包まれて、悲しみも痛みも安らぐかのようだった。
一緒に泣いて、抱きしめてくれる存在に、俺は幾度助けられたのかな?
ただ立ち上がる為には、理子に向かって手を伸ばせばよかったのだから。

そんな逃げ場所を持たなかった音哉にとって、共に悲しみを分かち合うはずの俺が、ピアノから離れ行く姿は辛かっただろう。
心の中の何かを殺し、それでも立ち上がった俺に、またピアノを弾かせたのは、音哉。
『お前には、先生の血が流れてるのさ』


「返事しておいたよ?」
「・・・・は?何?」
「いや、なんでもない」

携帯をぽんとソファーに戻す音哉が、にっこりと悪魔のような笑顔を見せたのに、俺は気がつかなかった。

長い旅を終えたかのような脱力感に、肩で息をする。
心地よい疲労感と充足感。
それでも、罪悪感は消えない。

理子に伝えられない。
まだ、心からピアノを楽しめていない。
それは、理子に気づかれてしまう。
また・・・悲しませてしまう。
俺は贅沢者だから・・・・ピアノを弾いた後に零れるような笑顔を見せる理子が、理子ちゃんが大好きだったから。
だから、まだ、理子には聞いてほしくなかった。

「ほら、ちゃんとここに入ってる」
スコアなんて、不要だろう?
音哉は俺のこめかみに人差し指をあてがうと、とん、と突付いた。
「唯の音は、どこまでも純粋だね。聴いてて切なくなる。」
「選曲が悪いんだよ。もっと明るいのにすればいいのに。」
苦笑する俺に、音哉はふわっと笑った。
「だって、聴きたかったから。」



俺たちが店を出ると、空は静かに白み始めていた。
吹き荒れていた春の嵐は治まり、静けさが辺りを包む。
ジャケットを羽織った俺は、携帯の重さを感じてポケットから取り出した。

「返事、しなかったな・・・。」
呟いたすぐ隣で、音哉が大きく伸びをした。
「なんか喰ってく?眠いけど、腹すいた」
「そうだな。何がいい?」

さすがに、理子も寝てるだろう。
どうしても行きたい映画なら、きっと電話してくる。

そんな風に言い訳をして、先に歩く音哉の後を追った。

店での理子に、どうしようもないほど心が乱された。
無自覚な可愛さに、思わず舌打ちしたくなった。

本当は怖かった。

どんどん理子を求める気持ちが強くなる自分が。
焦ってしまう自分が。
暴かれる前に、暴きたくなる、自分の中の「オトコ」に。

背伸びをするだけの、年下の自分が・・・・。
酷く幼く感じた。
まだ立ち直れて居ないことを曝け出す勇気が、今はない。
なのに、衝動は抑えきれないくらいに強くなる。

お願いだから、もう少し。

「待ってて」

「?」

胸に手をあてて、苦しいくらいの想いを閉じ込めるように、そっと呟いた。







2006,6,3




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