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slowly slowly slowly

step by step   − 6 −







シャワーを浴びて、すっかりアルコールの抜けた私は、冷蔵庫から良く冷えたビールを取り出してプルタブに指をかけた。
今頃は、さすがにお開きになっただろうか?
弥生ちゃんのことだから、朝まで歌っているのかもしれない。
吹き荒れていた風はおさまったようで、窓の外は穏やかな空気が漂う。
ソファーに座り、ふと本棚を見つめると、アルバムが目に留まった。
「よっ・・・と。」
私はソファーに片足を載せて、かなりの厚さになったアルバムを広げた。
パラパラとめくり、懐かしい空間を納めた写真に指で触れた。

小さかった私と唯が笑顔を向けている。
唯そっくりのおばさんと、優しく微笑むおじさんも居る。
これは唯の家で写したものだ。
大きなグランドピアノがあって、私と唯が椅子を半分こして座っている。
おじさんはピアノに手をかけ、おばさんは私たちの後ろ。
いつも優しさで満ちていた、お気に入りの空間。

『唯ちゃん、何か弾いて!』
あたしが言うと、唯は照れたように俯いた。
『パパに弾いてもらおうよ。パパならどんなお歌でも弾けるよ?ママだって、優しいお歌うたってくれるよ?』
ねっ?と二人に問いかける唯の瞳には、悲しみなんて知らずに居て欲しかった。
そう、おじさんとおばさんは唯の自慢の二人だった。
おじさんはくすくすと笑うと、その大きな長い指で唯の頭をくしゃくしゃと撫でる。
『理子ちゃんは唯のピアノが好きなんだよ。唯だって、理子ちゃんに聞いてもらうの好きだろう?』
落ち着いた、穏やかな声は、今の唯の声と似ているかもしれない。
『理子ちゃんのお陰で、唯、練習いっぱいするようになったもんね?』
屈託のない明るい声。おばさんはその繊細な指で私の頭を優しく撫でてくれる。
『じゃあ、さ、理子ちゃんも一緒に弾こうよ!ね、パパ、教えてくれるでしょう?』
『ダメだよ〜!理子、唯ちゃんのパパに教えてもらってるのに、指がバラバラに動かないもん。ママに「理子は才能ないなあ」って言われたんだよう。「唯ちゃんみたいに、素敵なピアノが弾けたら、いいお嫁さんになれるのにね」って言われたんだよ!?』
私がむくれて言うと、それでも唯は身を乗り出して私の手をとった。
『理子ちゃんは、才能なくないもん!唯が、一生懸命教えてあげるから!それに・・・・!』
真剣な表情。
――あれ、小さな私の胸がどきどきしてる?
それとも、今のあたし?
そんな私たちに、思わず顔を見合わせて笑い出すおじさんとおばさん。
私は真っ赤になった唯に代わって、胸を張って言う。
『いいの、理子、唯ちゃんが弾いてくれるピアノを聞くのが大好きなの。それにね、ママに言ったんだ!「唯ちゃんが理子のお嫁さんになってくれるから、いいんだもん!」って。』
得意げに言うと、唯ちゃんが困ったようなもじもじした顔をして、だけどゆっくりと花が綻ぶように笑顔を見せる。

唯のあどけない笑顔。
思い出すだけで、きゅんとしてしまう。
あの幸せな時間。
愛しい。
この笑顔を守りたい。
・・・守りたかった。
私が、守っていくんだと、そう思っていた。

唯の天使のような笑顔が、急に大人びる。
『だけどね・・・俺には大切な女性が居るんだ。だから、理子のオヨメサンになんてなれないよ?』
美しい男になった唯に、私は、思わず椅子からずり落ちそうになった。

びくっと、体中が固まり、私は慌てて目を開けた。
「・・・夢・・・?」
そこは、あの懐かしい空間ではなく、見慣れた私の部屋で。
ソファーに広げられたアルバムと携帯が目に入った。
あのまま、眠っていたらしい。
私は、携帯を手にとり、開いたままのメールを見つめた。



映画は先約があるから行けない。
これから大事な人と過ごすから、もう寝な?



ああ・・・・唯に送ったメールの返信。
これを見て、寝ちゃったんだ・・・。

胸に何か冷たいものが刺さったままのような気がする。
頭を振って、携帯を閉じた。
初めてだ。

唯が、私より、誰かを、優先した。

それは、思っていたよりも、ずっと辛い出来事。
自分自身でも、驚くくらい。
「・・・私って、もしかして凄くラッキーだったの?」
唯の仕事先で、みんなの目にどんな風に唯が映るのかを初めて実感した。
唯はいつの間にか、私なんかより、ずっと大人になっていた?
私の知らない唯が居るなんて、今まで考えたこともなかった。
ううん、頭の中で『唯とはお互いのプライベートを尊重しあえる』なんて思ってた。
多分、オトコとオンナの関係を超えた――それが今までは『姉妹』『姉弟』だったわけで――存在なんだって、自負してた。
私が、唯のお姉ちゃんで、守ってあげるんだと、勘違いしてた。
違うのだ。
きっと、唯は呆れていたに違いない。
いつまでも、恋もまともにできない、幼い頃のままの私に。
「だから、最近はいつも不機嫌だったんだ・・・?」
ラッキーだったんだ。
唯みたいな優しい幼馴染が居ることが、あたりまえに思えてた。
ちょっとした愚痴にも付き合ってくれて。
買い物だって、嫌がったって、結局は一番似合うものを見たたてくれて、失敗したり、悩んだりした時は、私の気が済むまで傍に居てくれた。

それって、本当は、特別なことだったんだ。
あんまり私が頼りないから、情けないから。
唯は放っておけなかったんだ。
だけど、今日は。

「ああ、でも、大切な女性はいますよ。何よりも大事で、僕にとっては宝物のような人です。あんまり綺麗だから、僕は手を出せないんですよ。」

蒼くんが・・・唯が言った言葉が胸に突き刺さったままの冷たい塊をますます大きくした。
そんな大切な人が居たことを私は知らなかった。
私がいつも唯を振り回すから、きっと言えなかったのだろう。
申し訳なさと、酷く寂しい気持ちになって、私は怒られた子どものように、ソファーの上で膝を抱えた。
唯という存在が、どれほど自分にとって特別だったのか、今更思い知るなんて。
「シスコン?ブラコンかな・・・・?本当のお姉ちゃんでもないのに・・・・」
呟いた吐息が熱い。
喉の奥がひりひりとした。
声をあげて、泣き出しそうなのを堪えているからだろうか?
酷いことをしてきた。
唯にも、唯の宝物のような女性にも。
「いい加減、一人でちゃんと歩き出さなくちゃ・・・・」
まるで自分に言い聞かせるみたいだ、と、あまりに滑稽で笑ってしまう。
涙が溢れていることに、笑いながら気がついた。

どこか、麻痺してしまったのかな。
いいオトナになって、こんなに泣いたのは、初めて。

私は思い当たって胸を押さえた。

そうだ、いつも、唯が、受け止めてくれてたから・・・。
だから涙は零れなかったんだ。
20年間、どれだけの涙を受け止めさせたんだろう?
不安を乗り越えさせてくれたんだろう?

「・・・理子のペース、悪いとは言わないよ?ゆっくり、ゆっくり、そういう風にしか恋ができないんだもんな。」
唯は、私のただ一人の理解者で。
「理子、俺のことなんだと思ってる?」
肉親以上に近い存在で。
「理子のペースで、考えればいいよ。俺は、もうずっと待ってるんだから。」
・・・・そして、ずっと待っててくれる・・・・?
何を待っていると言いたかったんだろう?
私が、もう一人で大丈夫だと、言えるようになる時を?

それは、もう唯との繋がりを絶つという意味だろうか?
唯が大切な誰かを、守るために。
その心をすべて、その人に傾ける為に?
私でない、誰かが、唯に再びピアノを弾かせたのだろうか?

窓の外は、明るくなり、夜が明けたことを残酷にも教えてくれた。

唯が、誰かと、夜を明かした。







2006,6,30




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