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7月7日
催 涙 雨 −2−
−2年後の織姫−
何故彼女がここにいるのか、僕には理解しがたかった。
今更、何故、ここに彼女が来たのだろうか?
兄の命日に合わせて渡米したのだろうか?
やめておけばよかった。
彼女に会うなんて、想定していなかった。
シアトルまで来たのだからと、わざわざ来たりしなければよかった。
僕を見つけた彼女は、まるで亡霊でも見るかのように、青ざめ震えている。
兄に似てきた、と母さんに言われた。
ここのところがくっと視力が落ちた所為で、眼鏡をかけることが多くなった。
兄の眼鏡のフレーム、僕もあのブランドが好きで。
思わず同じものを手にしてた。
「そうしていると、本当によく似ている」
普段はあまり感傷的なことを言わない父さんまで目を細めて呟いた。
兄は僕より華奢だった。
身長だって10cmも違う。
それでも、彼女の表情が泣き笑いのようにかわったのを見ると、やはり僕は兄に似ているのだろう。
苦しそうに嬉しそうに微笑む姿に、胸が痛む。
違うのに。
僕は翼じゃないのに。
彼女と会うのは一年ぶりだった。
昨年、彼女は兄の忘れ形見のハッピーを連れて実家を訪れた。
ハッピーもなついていて、彼女が忙しさの中でもハッピーを可愛がって居るんだろうということが推測できた。
僕はただ挨拶をしただけだった。
想いの外、元気そうで安心した。
一昨年、兄の最期を伝えたのは僕だったから。
だから、笑顔を見せる彼女にほっとした。
兄から託された指輪を渡しに、彼女と兄が約束した場所へ行った。
何も知らなかった彼女に、兄が来れないことを伝えたのは、僕。
泣き崩れてしまった彼女を支えながら歩いた。
あの日の彼女はこのまま消えてしまうような儚さで、いつまでも震えの止まらない体に胸が痛んだ。
同時に、こんなにも兄を想ってくれていたのかと心が痺れた。
僕をじっと見つめる彼女の瞳に涙が浮かぶ。
「つ・・・」
ばさ、と声にならない声が空気を震わす。
僕は兄さんじゃないよ。
近づくごとに、表情が変わる。
くるくると、まるでTVのチャンネルをでたらめに押したかのように。
『冴実といると飽きない』と言っていた兄さんを思い出す。
ああ、兄さんでもこんな表情するのか、なんて少し驚いた。
叫びを封じるかのように口元を手で押さえる姿は、2年前の彼女に重なった。
「・・・艶・・・くん」
呟きと共に、絶望の色が浮かぶ。自嘲の笑みを貼り付けて。
だから、わざと今気づいたフリをした。
彼女が落胆する姿に、これ以上胸が痛まないように。
「冴実さん?」
名前を呼ぶと、零れそうだった涙を慌てて拭く。
無理に作ったのがバレバレの笑顔を浮かべると、彼女は「こんにちは」と頭を下げた。
僕は彼女の前に立ち、小さくはない彼女をそれでも見下ろして「こんにちは」と同じように笑顔を作った。
「こんなところでお会いするなんて、思ってもみませんでした。」
「あの、」
「バカンス・・・なわけないですね。・・・わざわざ、来てくださったんですか?」
冴実さんは僕を真っ直ぐ見つめたまま、何か言おうと口をぱくぱくと動かしていたけれど、やがて大きく息を吸い込んで諦めたように「ええ」と呟いた。
「キモチ悪い、わよね?ごめんなさい。どうしても、どうしても、ここに来たかったの」
彼女はそう言って、微笑んだ。
彼女の心の中まで踏み込む気はなかった。
何故彼女がここにいるのか、僕には理解しがたかった。
でも、誰にも他人が入り込めない領域がある。
僕にも誰にも入り込んで欲しくない領域があるように。
「"キモチワルイ"だなんて、思っていませんよ。ただ少し驚いただけ。」
もう、この世に居ない兄を、この人はまだ想っているのだろうか?
まさか、と笑いが込み上げる。
一昔前のドラマじゃあるまいし、そんなことが現実であるとは思えなかった。
「・・・少し、悪趣味じゃないかな、と思いましたけど。」
言ってから、キツイ言葉だったかな?とちらりと彼女を見た。
嘘はついていない。
傷つけるつもりもない。
思いとは裏腹に、僕の言葉はいつも鋭利だ。
わかっていて"傷つけるつもりはない"なんて偽善だ。
僕の言葉に、はっとして、ゆっくりと俯いてしまった冴実さんの肩が、小刻みに震えた。
先週別れたばかりの冬香と重なり、思わず苦笑する。
大学から7年も付き合ってきて、今更あんな一言で彼女が泣きだすとは思っていなかった。
"プロポーズ待ってたんだよ"と友人たちから呆れた顔で言われた。
それでも、その時だって嘘は言っていなかった。
傷つけたなら悪かったと思うけれど、アレで終わってしまうなら、それだけの繋がりでしかなかったということだろう。
あまり肉付きのよくない体を震わせる、かつて兄が心を傾けた相手に、僕は言葉にするのが難しい感情を抱きだしていた。
「悪趣味・・・かなあ。ちゃんと、感じたかっただけ、なんだ。」
泣き出すと思っていたから、しっかりした声が響いてきて僕はまた驚く。
まだ震えは納まっていなかったけれど、彼女はしっかりとした声で続けた。
「翼がここで生活をしていた。それだけで、ここが特別な場所のように感じるのよ。私の勝手な思い込みだってことは百も承知。
もうすぐ30っていうオンナが、かつての恋人の軌跡を辿るなんて・・・・あー・・・うーん・・・確かに悪趣味だわ。」
くくっと彼女は笑いを噛み殺して顔をあげた。
不意打ちだったから、その表情にどきっとした。
まるで幼い子どものように、邪気のない笑顔を見せたから。
「どう思われても、仕方ないんだ。自分でもちゃんと説明なんてできないんだもの。ただ、ここに来たかったの。
何かがあるわけじゃない、だけど、来たかった。本当に、ただそれだけ。
・・・これでも、ドラマの撮影地巡りのツアーなんて!って笑い飛ばしてた人間なのよ?信じられないだろうけど。
うーん・・・私って、悪趣味・・・。」
冴実さんは兄が暮らしていたアパートメントを見上げた。
その瞳の端に涙が滲んでいた。
「・・・恋人がよく許しましたね、こんな傷心プログラム。」
僕はざわつく胸を誤魔化すようにそう言って、同じようにアパートメントを見上げた。
兄が暮らしていた3階の中央の窓辺には、あの頃はなかった花が飾られていた。
その鮮やかな色彩が、"今"を如実に現しているように感じた。
「許すも何も、相談してないもの。」
軽く肩を竦める気配。
「気分を害するんじゃないですか?黙って昔のオトコに会いに来たなんて。」
「ダイジョウブ、でしょ。あー・・・・でも、やっぱり嫌な顔されるかも。」
「そりゃあ、そうでしょう。」
「きっと"悪趣味"って言われるわね。"だから冴実はバカだっていうんだ"って呆れられながらね。」
彼女は言いながらくすくすと笑った。
だけど、その口調も、似せたのだろう言葉の中に織り交ぜた皮肉なニュアンスにも、僕は懐かしさが込み上げて、彼女を見下ろした。
「兄さん、だっていうの?」
「え?あ、似てなかった?」
オカシイナ?と首を傾げ、彼女はふーと溜め息をついて眉間に皺をよせ、眼鏡のフレームを押し上げる真似をしながら「悪趣味」と呟いて見せた。
「結構、似てると思うんだけど・・・」
それはどう考えても兄さんの所作で、僕はまた胸がざわざわしだすのを感じていた。
「まさか、あれから誰とも付き合ってないとか、そんなこと言うんじゃないでしょうね?」
「だって、ハッピーはメスだし」
「知ってますよ!」
「指輪ももらったし・・・」
「そうじゃなくて!」
指輪なんて!
なんの意味もないだろう?
もう兄さんは居ないんだ。
貴女にとって、どんなメリットがあるというの?
寂しくても抱き締めてくれない、涙を流しても受け止めてくれない、そんな、もうここに居ない人を、どうやって想い続けるというの?
肉親でもないのに、無条件で愛し続けることなんて、不可能だろう?
何故こんなにイライラするのだろう?
「ね・・・艶君、さっきから気になっていたんだけど、顔色悪いよ。ちゃんと休んでる?」
「あなた、は」
「艶君は・・・海外出張多いって翼言ってた。今日も仕事で?」
「冴実さん!」
「だって!」
遮るように名前を呼んだ。
彼女は食い下がるように叫んだ。
「仕方ないの!まだ好きで、愛しくて、翼の事だけが、好きなんだもの・・・!」
言って、彼女は涙をひとつ零しながら、それでも笑顔で僕を見つめた。
2008,7,8