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7月7日

催 涙 雨 −5−
−2年後の織姫−








「はい、園田センセ、これに願い事書いてクダサイ?」
昨晩発作を起こし、小児病棟からICUに運ばれてきた瑛琉えいるくんと話をしていると、淡い色合いの不思議な模様の入った紙を渡された。

CRD(慢性呼吸器疾患)の患者さんの中でも、瑛琉くんは重症持続型だ。
大発作を起こした後は一人になるのを怖がることが多いので、先程目覚めた彼の頭を撫でて「頑張ったね」と声をかけていたところだった。

「瑛琉くん、短冊持って来たよ。まだ書いてなかったでしょ?」
小児病棟勤務のナースが、マジックと一緒に紙を差し出すと、瑛琉くんは見知った顔にほっとしたような笑顔を浮かべ、手を伸ばして短冊を受け取った。

「キレイね、これ」
「マーブリングっていうんだって。・・・みんなで作ったんだ」
瑛琉くんは嬉しそうに言って「天の川みたいでしょう?」と得意そうな顔をした。
入退院を繰り返す彼に限らず、病院の外に出る事の少ない入院患者にとって、ささやかながら、院内で行われる年中行事はちょっとした気分転換になるのだろう。

「瑛琉くんは何をお願いするの?」
私の問いかけに、5歳の彼は口元をふふっと綻ばせ「あのね、この夏は家に帰れますようにってお願いするんだ!」とマジックのキャップを外した。
慣れた消毒の匂いにマジックの独特の匂いが混ざり鼻をつく。
簡易テーブルの上に下敷きを置きながら「ああ、そうよね!」とナースは大きく頷いている。
「去年、兄弟が欲しいってお願いしたんだ。そしたら5月に弟が生まれたんだよ!だから、この夏は、どうしても家に帰りたいんだ!」
小さな瞳をキラキラと輝かせ、彼は言うと小さな手にマジックを握り締め、短冊に向かった。
真剣な表情だ。
「・・・じゃあ先生もお願いしようっと。瑛琉くんが弟くんと一緒に遊べますようにって」
私が言いながら、胸ポケットのペンに手を伸ばすと「ダメだよ〜!」と小さな唇を尖らせ、彼の小さな手で私の短冊を覆い隠した。
「駄目。先生は自分のお願い事書いて?」
「え?なんで?」
5歳の真剣さに気圧され、私は思わず目をパチパチとさせながら首を傾げる。
いくつもお願いできたほうがいいだろうに。

「先生は、僕の発作止めてくれたよ。苦しくて、何度も心の中で"助けてください"ってお願いしたんだ。その願いを叶えてくれただけでじゅーぶんだよ!」

瑛琉くんはそう言うと確認するように「ね?」と私を覗き込んだ。
私は頭が下がる思いで頷いて、彼の頭を二度撫でた。

こんな瞬間。
たまらなく翼に会いたくなる。
この仕事をしていて、よかった、と。
救われてるのは、私のほうなんだって・・・強く感じる。

翼の笑顔が浮かぶ。
"なんだ、それ?"って肩を竦め、それでも"よかったな"と目を細める。
"救命に来てよかっただろ?"なんて、全部自分の手柄にしながら。

「先生は?なんてお願いするの?」
解読不能な文字を必死に書いていた瑛琉くんが不意に顔をあげたから、私は「うーん」と唸ってみせた。
瑛琉くんが書き上げた短冊にこよりを通しながら、ナースも私の言葉に耳を傾けている。
私は「そうねえ・・・」とペンを指揮棒のように振りながら、窓の外を見た。
艶君の言葉が、不意に蘇る。

『もう・・・会うこともないと思うから』
『兄さんは、非生産的な感傷は苦手だったよ。』
『・・・だから、もう、こんなことはやめた方がいい』

その言葉の中に、確かに見つけてしまった優しさが、私の中で小さく疼く。
黙っていても、彼は知っているから。
私がどれほど翼を思い続けているのか、ずっと、この先も――翼を愛することを。
そんな私を心配してくれた言葉だと、わかってしまった。
冷たさを装っても、無関心を装っても、本当は優しい人だ・・・。

「今年も・・・やっぱり雨なんだ・・・」
私が呟くと、ナースもつられるようにして窓の外に視線を移した。
瑛琉くんは私が答えるのを待ち切れず、ナースが持ってきていた七夕の絵本を広げて歌を歌いだした。
そんな姿に私たちは思わず微笑んで、それからまた窓の外を見た。

「"催涙雨"っていうんですって。」
聞きなれない単語に、私は首を傾げてナースを見つめた。
「さいる、い・・・?」
「七夕の日に降る雨は、織姫と彦星が流した涙なんですって。催す涙が雨になる、で"催涙雨"」
ナースは「自分たちが流した涙で逢えないのだとしたら、本当になんて皮肉なのかしら」と呟いた。

「涙・・・」

細かな雨粒が窓にぶつかり、涙のように流れ落ちていく。

「でも、織姫と彦星も大変ですよね。自分たちが一年に一度しか会えなくて、まして雨が降ったらその一年に一度の逢瀬すら叶わないのに、たくさんの願い事を託されちゃうんですもの。」

短冊を持ち上げた瞬間、受け入れ要請の緊急コールが響き、私は「あとはお願いね」と二人に背を向けた。
短く緊張した声で「はい」と答えたナースの声のすぐ後に、瑛琉くんの声が被さった。

「雨が降ってもね、お空の上は晴れてるんだって。だから、ちゃあんと逢えるんだって、ママが言ってたよ!」

私は無意識に短冊を握りしめ、ポケットに突っ込んだ。
救急車からの無線の声が、瑛琉くんの声に重なって消えた。

「"・・・代男性、・・・の社内で胸部を抑え意識を失った模様・・・"」
「急性心筋梗塞、か?」
部長が仮眠室から飛び出してきて呟き、私も頷いた。
私は緊急入り口に足早に向かった。



* * *



何もかも上手くいくほど、世の中が自分寄りじゃないことくらいわかっていたはずだった。
わざわざシアトルまで飛び、答えを先延ばしされた事案。
僕一人が背負うには大きすぎるリスクだとわかっていたけれど、実際決断された内容に帰国する足取りは重かった。
シアトルから連絡を入れた時には、すでに陰鬱とした社の空気が携帯越しに伝わってきていた。
この契約を結べなかったのは大きな痛手だ。
反対に突きつけられた条件は厳しく、散々行われたリストラが、再び行われるのは必須だろう。
想うだけで息が苦しくなるような状態から、逃げ出すことも投げ出すこともできずに、僕は溜め息を零すしかなかった。
出国する前から漠然と抱えていた不安は、見事的中したのだ。

帰国した僕を待っていたのは、重苦しく纏わりつく湿気。
それと――

「艶」
「おかえり」

別れた彼女と、友人――冬香と、笠松だった。


「・・・二人揃って・・・どうしたの?」
空港に着いてから、いつ落ちてきてもおかしくなかった雨が、まるでタイミングを計ったかのように落ちてきて、冬香のスカートにぽつぽつと丸い模様を描き出した。
立ち上るアスファルトの匂いに雨の匂いが交じる。
アスファルトに落ちていく細かな雨粒は、一瞬跳ねて空に還ろうと試みて、けれど見えない何かに引き寄せられるように下に吸い込まれていった。
その一瞬があまりに寂しげで、僕は堪らず二人に視線を戻した。

僕の言葉に身体を固くした冬香は、笠松に支えられるようにして一歩前に出た。
彼女が緊張しているときに見せる仕草・・・親指をしきりに触っている。
そんな冬香を気遣わしげに見つめ、笠松はそっと肩を叩いた。
冬香は笠松に向って頷くと、いつになく小さな声で呟いた。
――訣別の言葉を。
僕はそれを酷く惨めな気持ちで聞いていた。

言い返す気力も引き留める術も持たず、ただ落ちて消えていく雨のように冬香の言葉を聞いていた。
言葉は頭の中を素通りして残らないのに、胸には黒い染みとなってじわじわと広がっていった。
俯いて目を逸らすこともできず瞳には二人が映っていたのに、度の合わない眼鏡をかけた時のようにぼんやりとしか見えず、次第に吐き気すらこみ上げてきていた。
そんな僕に、彼女は気付かない。

「・・・・・私は・・・・・艶のこと・・・・・表面しか見てなかったのかもしれない。艶がそうだったように。」
冬香はそう言って顔をあげ、実に軽やかな表情でほっと息をついた。
「長い間一緒にいて、なんでもわかっていたつもりでいた。でも、そうじゃなかった。艶は何も話してくれなかったもの。」

何を話せただろう?
結婚を望んでいた君に、路頭に迷うかもしれないと言えばよかった?

「私じゃ・・・苦しみまで分かち合うつもりなんてなかった、それくらいの関係だったのよね?」

お嬢様育ちの君が心配しないようにと、そんなことを考えていた僕。

「・・・笠松クンと一緒に、バンクーバーに行くことにしたの。」

なんて滑稽だったんだろう・・・。

「逡巡していても、仕方なかったのに・・・艶は私のことなんて、好きじゃなかったでしょう?」

ああ、それが。

「君には免罪符があったんだ・・・?」
僕の呟きは冬香の泣き声で掻き消された。

僕が冬香を愛していないと断罪することで、冬香は次の恋を始めることができるんだろう。
それならば、それでいい・・・。

それまで申し訳なさそうに俺を見ていた笠松が、慌てて冬香を抱きとめた。
笠松は、わかっているのかもしれない。
だけど、それを無視してまで、冬香を欲っしている。
結局、僕はそれを奪い返そうと思うほどには、執着していない。
冬香が言うように、思うようには・・・"好きではない"のだろう。




眠りたかった。
体も心も疲弊していた。
眠りに逃げて、何もかも忘れてしまいたかった。

それでも、何もかも放棄するほど感傷に浸れず、僕はパソコンの電源を入れた。
打開策がないわけではない。
降り続く雨が体に重く溜まっていくような錯覚を覚えながら、僕は無機質な起動音を発する画面に視線を張り付けた。
頭の中で、何度も困ったような微笑みを浮かべる女性ひとの言葉が巡っていた。

『もう会うこともないと思うから』
『・・・翼は今の艶君見たら怒ると思う。』
『艶君働きすぎよ・・・』

何故彼女なんだろう?
ずっと付き合ってきた冬香でさえ、僕の心の中までは見抜けなかったのに。
僕の言葉に冷たく放つ言葉に、彼女は微笑んだ。
『心配してくれてありがとう』と綺麗な微笑みさえ浮かべて。

冴実さんの言葉が巡る。
静かに警鐘を鳴らしながら・・・。

7月7日。
朝が来ても、雨は上がらなかった。
今年も雨だ。
恋人たちが再会するという言い伝えのある日。
彼女は、兄さんを待っているのだろうか?
このまま雨が続けば、兄さんは会いに来れないのだろうか?

壊れた頭は、壊れた想いを浮かばせる。
会えなければいいのに、そんな風に想ってしまった。
ほんの一瞬だったけれど。

何故なのか、わからない。




重い足取りで出社して、打開策を見いだせないままオフィスで報告を済ませた。

会議室から出て、自分のデスクに向かう。
突然胸を締め付けられるような痛みに襲われた。
先月から時々あった痛み。
すぐに治まっていたから・・・無視していた。
息を詰めて胸を押さえる。
胸を圧迫されるような痛みに、デスクに手をついて目を閉じる。
異変を感じた同僚が、覗き込んで声をかける。
「真島?」
「おい、大丈夫か!?」
「顔色、おかしいぞ」
「誰か、救急車!!」
様々な声が飛び交う。
大丈夫です、と口を開きかけて、また痛みに襲われる。
ぐうっ、と息が詰まり冷汗が背中を伝うのがわかる。
気がつけばシャツを握りしめてその場に蹲まっていた。

周囲の声が届かなくなっていた。
代わりに聞こえたのは、兄さんの声。
"馬鹿、何やってんだ!"
ああ、兄さんが迎えに来たんだ。
兄さんは常に・・・そう最期の時ですら研究成果を残せたのに、僕は何一つ残すことができないんだな・・・。

遠くで誰かが悲鳴をあげるのを聞きながら、僕は完全に意識を手放した。



* * *



運び込まれたその人を見て、私は息をするのも忘れて立ち尽くしてしまった。
ストレッチャーに横たわっていたのは、先日別れの言葉を交わした艶君だった。
私の様子に気づいた部長が「待機していなさい」と私を下がらせる。
ぽんと肩を叩かれ、私は自分が立っていられないくらい震えていることに気がつく。
壁に手をついて、背を預けた。
救急隊員の申し送りに、ナースも部長も彼が翼の弟だと気がついたようだ。
そして、私を見て納得したような表情を浮かべた。

そう、挨拶に来てたもの。
覚えているだろう。
だって翼によく似ている。
兄がお世話になりましたって、頭を下げる彼に涙を浮かべていた・・・。

ようやく吸い込んだ空気。
ひゅっと音をたてた呼気の異常さに、自分の混乱具合が現れているのを感じていた。
自分の頬を叩いて、目を瞑る。

私は、何のためにここに居るの?

"助ける為、だろ?"
呆れたような翼の声が、聞こえる・・・はずだった。
だけど、声は聞こえなかった。
替わりに私は自分で呟いた。
「救命する為・・・」
やわらかな雨が降る空に向かって、私は答える。

そして願った。私のたったひとりの彦星に向かって。

翼、艶君が行ったら、追い返して!



* * *



恐ろしく久し振りに"眠った"気がする。

深く沈みこむような意識を少しだけ浮上させ、僕はゆっくりと目を開けた。
僕の目の前には兄さんが居た。
驚く気持ちもなく、僕は穏やかな気持ちで微笑んだ。
だけど、どうやら兄さんは僕とはまったく逆の気持らしい。
両手を組み酷く不機嫌な顔で僕を見て「何してるんだよ?」と溜め息混じりに呟く。
「早過ぎ。却下。今すぐ戻れ」
何が、とかそんな言葉を紡ぐ暇も与えず、ぐいっと腕を引っ張られる。
もっと何か他に言うことがあるだろ?
久し振り、とか。
それにしても、簡潔すぎるその言葉遣いが懐かしくてたまらなかった。
言葉にしなくても兄さんには伝わるようで、ますます不機嫌そうに眉を顰めると吐き捨てるようにして言う。
「こんなことで恨まれるなんて、まっぴら御免だ。」
誰に?と訊ねる前に「泣かせるなよ!」と愚痴られる。
「お前は少し休まないとダメだろ?冴実に言われたのに」
あいつ怒らせると・・・涙止まらなくなるんだよ。
溜め息交じりの言葉。

ちょっと、話が見えないよ?
散々泣かせたのは兄さんだろう!?

頭の中で言い返す。

今でも兄さんを想っている彼女が、なんで兄さんを恨むっていうの?
兄さんは知らないだろうけど、彼女は兄さんの残像を求めて、シカゴまで行ってたんだぞ?
今日だって、多分あの日と変わらず兄さんを待ってるんだ。

困惑しながら兄さんの手を振り払うと、兄さんは愛しそうに・・・寂しそうに微笑んだ。

「お前なら、いいよ。」
何がいいの?
「艶なら、今のままのさえでも」
はぁ?
「・・・冴実、頼むな」
だから、なんで?僕はもう・・・死んでしまったんだろう?
「馬鹿言え。そんなこと、冴実が目の前で許すわけないだろ」
え?
「死神に喧嘩売ってでも、お前を離したりしないよ」
え?
「ほら」

兄さんが指し示したのは、僕の手。
僕の手を誰かが握り締めている。
ぎゅっと握って離さない、その手のひらから想いが伝わる。

早く目覚めて・・・!

冷たくなっていた指先が、温かくなっていく。
兄さん、と振り向いた先には誰もいなくて。
その瞬間、真っ白だった世界が弾け飛んだ。



視界が広がる。
白い世界、ではない。
アイボリーのカーテンに覆われた場所、腕にちくりと痛みが走りゆっくりと目をやれば透明なチューブがテープで抑えられている。
「・・・ここ・・・」
掠れた声が喉から絞り出されたように出てぎょっとした。
自分の声じゃないようだったから。
それから、温もりが伝わる右手の先へと視線を動かした。
ベッドの手すりに器用に頭を凭せ掛ける人が視界に入る。
緩やかに纏められた髪が、肩から落ちていた。
温かな指先から逃れるように引きかけた手を、無意識に引き寄せてまた力が籠る。

僕は、生きてる・・・?

呆気なく命が消えることを、兄さんの事故で知った。
だから、僕もその時がきたのだろうと思ってしまった。

知らず握り返した手の中で、指先が小さく跳ねるのを感じた。
慌てて起き上ったその顔が、安堵と怒りがごちゃまぜになったような顔になる。

「冴実さ・・・?」
「・・・・・よかっ・・・・・っ・・・・・・!」

きつく握りしめられた手が、ガタガタと震えだして苦笑する。
涙が大きな瞳から流れ落ちて、白いリネンに吸い込まれた。

「大丈夫だって・・・わかってたけど、でも、・・・ほっ・・・とは、張り倒してやりたい・・・!おばさまもおじさまもっ・・・凄くっすごくっ心配したんです、から・・・ね!」
「冴実さ、ん」
「原因はっ、過労とストレスっ・・・!」

しゃくりあげながら冷静さを取り戻そうとするその姿に、僕は言葉にできない感情が湧きあがるのを感じていた。
多分、医師として接することができずに、戸惑っているのだろう。
彼女の表情がくるくると変わるのを見ていると、考えていることが手に取るようにわかる。
他の患者さんには、ちゃんと"医師"できてるんだろうか?
僕は冴実さんが聞いたら今度こそ張り倒すだろうことを考えて、内心首を傾げていた。
そんな僕の考えていることが伝わったかのように、不服そうに頬を膨らませ冴実さんは立ち上がった。
僕の手を握り締めたまま。

「な、なんでそんな嬉しそうな顔してるの!?わかってる?自分で自分の体大切にしないで、誰がしてくれるの?過労っていてもね、狭心症とか心筋梗塞とかだったらっ・・・・・・!」
「違い、ます、よ。」

嬉しそう?そんな顔をしているんだろうか?
目覚めた先が病院なのに?

自分自身にも首を傾げたくなる。
倒れたことで、何か事態が好転するわけじゃない。
むしろ、酷くしているかもしれない。
会社にも、両親にも…心配させて迷惑をかけた。

それでも、何かが変わった。僕の中で、確かに・・・

兄さんが彼女を愛しく感じる気持ちがわかる気がした。
この人は・・・自分の弱さも強さも全部受け入れようとする。
多分、誰よりも泣き虫な癖に・・・こんな場所で・・・死と向かい合っているのだから。



* * *



今度という今度は、七夕が大嫌いになりそうだった。
翼が会いに来れないのは仕方ないにしても、これじゃあんまりだ!と心の中で叫んでいた。

「園田先生は外で待っていて!」
婦長に言われ、私はショックで動けなくなった。
「私は、救命医です!」
「なら、知っていますよね?身近な方が運び込まれた時には・・・」
「身近って、彼はそんなんじゃ・・・!」
「わかっています、でも、震えが止まらないでしょう?」

諭されて、深呼吸して、私は頷いた。
ここで、私が今やらなくちゃいけないことは、引っかき回すことでも治療を邪魔することでも・・・ないはずだ。
医師としてのプライドなんて、こんな時には必要ない。
大事なのは、もっと。



命には別状はないと告げられた。
だけどその何十分かが、酷く長く感じた。

駆け付けたおじさまとおばさまに症状を説明すると、おばさまは気を失ってしまった。
どれだけの緊張感だっただろう。私なんかの比じゃない。
また息子を失うのかと、不安だったに違いない。



勤務時間を終えても、立ち去ることができなかった。
大丈夫だとわかっていても、それでもその瞳が開くのを見るまでは、不安だった。

そっとカーテンを開ける。
目を閉じる姿に胸が痛む。
何ができるわけでもない。
それでも、立ち去ることはできなかった。

ポケットに手を入れると、かさりと何かが指先に触れた。
「・・・短冊・・・」
すっかり暗くなった窓の外は、まだ雨が降り続いている。
「催涙雨、っていうんだっけ・・・?」

織姫と彦星が流した涙。

今年も貴方達は逢えないの?
それなのに、私の願い事は叶えてくれたのね・・・。

必死に願ったのは、艶君のこと。
翼は願いを叶えてくれた。
ねえ翼、あなたの願いは何?
私は何も叶えてあげられない・・・。

私はスツールに座り、艶君の手を握った。
過労と心労で、自らの体がブレーキをかけブラックアウトした。
その手はとてもかさついて冷たかった。

「なんで貴方達兄弟はそうやって無理するの?」

呟きながら目を閉じた。

早く、目覚めて!
無事な姿を・・・見せて。



昨晩から眠っていなかったことを思い出した。
そうしたらもう瞼が重くて仕方なかった。

艶君の手を握り締めたまま、私はふわりと浮きあがったような感覚に囚われた。
それはまるで空を飛ぶような感覚で、私は驚いて目を開けた。
あれほど重かった瞼は、嘘のようにすんなり開いた。

「う、わあ!」

満点の星空が、私の足元に広がっていた。
風が心地よく、あれほど苦手な梅雨のジメジメした感じがなくて、ああなんて素敵な夢だろうと呟いた。
こんな星空を見たのは初めてだった。

「雲の上は、こんな星空が隠れてるんだよ」

背後から響いた声に、私の身体が大きく震えた。
背中から抱きしめられ、懐かしい匂いに包まれる。
翼、だ。

「ごめんな、艶が世話になった」
翼の息遣い。
囁くような声。
振り向かなくても、これが翼だとわかる。
「・・・何もしてない。駄目だね、まだまだ。動揺しちゃって、情けないの。」
腕にもたれかかり、溢れてくる涙に星空が揺れるのを見ていた。
私の言葉にくすっと笑い、翼は「ホントだよ」と容赦なく続けた。
だけどそんな言葉ですら、私には甘い囁きとなる。
「でも」
私は深呼吸して振り向き、翼の腕の中でゆっくりと彼を見上げた。

翼、翼、翼・・・・!

抱きついて、泣きついて、甘えたかった。
愛しくて、切なくて、ずっと逢いたかった。

「これから、きっと、艶にはさえが必要になるよ」

私の頬を撫で、目を細める。
その瞳に、私は自分の姿を探した。
だけど、翼の瞳には、まばゆい星が瞬くだけだった。

「僕の願いは、ただ一つ。・・・・さえ、君に会いたかったから・・・その願いは叶えられたから・・・だから・・・笑っていて。君が笑っているなら、それでいい。」

私は嗚咽を堪えて、笑顔を作る。
翼はそんな私を見て「それは笑顔じゃないな」と眉を顰めた。
「・・・ひどいなあ」
私がむくれて胸を叩くと、またくすっと笑みを零す。
涙が零れてきて、私は唇を噛みしめる。
「僕じゃ、本当の笑顔をさえにあげられないよ。7月7日だけ笑顔にしたって、そんなの意味がないんだ」
僕は欲張りだからね。
翼の指先が、私の唇をなぞる。
「・・・さえ、艶を頼むな?」
寂しそうな微笑みが、霞んでいく。
唇に触れた指先が、すっと離れた。
「つばさ・・・!」
私は慌てて翼に手を伸ばす。
心が壊れてしまいそうになって、私は名前を呼んだ。

"さえ・・・"
再び、耳元で囁く声が、空に吸い込まれていく。
必死に手を伸ばしても、そこに翼はもういない。
いってしまったんだ。
伸ばした手と反対の手が、じんわりと温かくなってきているのを感じた。
ぴくりと指先が動く。

"さえ、逢いに来てくれて、ありがとう"

耳元で最後に聞こえた言葉。
これが、翼の声を聞く最期になるだろうと、私は気付いていた。
これからも、変わらずに翼を愛しく想うだろうということも。
そして、私は目を閉じて、それからゆっくりと瞼を開けた。
私を見つめている二つの瞳と視線が重なると、急に安堵感が私を飲み込んだ。

「冴実さ・・・?」
「・・・・・よかっ・・・・・っ・・・・・・!」

震える手で、その手を握りしめた。
私は、確かに、この人を失いたくないと思った。
それが、まだどんな感情に結びつくのか、私にはわからないけれど。

私が怒るのを、何故か微笑みながら聞いている艶君が憎らしかった。



翼の馬鹿。
まだまだ、私は貴方以外の人と向き合うことなんてできそうにないのに。
――だけど、これからは、本当の笑顔で星空を見上げられるようにするから。
そうしたら、七夕の夜に、また私の頭上に星が瞬くだろう。
翼が、私の笑顔を見るために・・・雨雲なんて吹き飛ばしてしまうでしょう?

「冴実さん」
「艶君」

私たちは同時に名前を呼んで、見つめあった。
その瞳に、私の顔が映る。
そして同時に窓の外に視線を移した。

「今年も雨でしたね」
ぽつりと呟いた艶君が瞳を曇らせた。
まるで何か悪いことをしてしまったかのような顔。

「催涙雨っていうんですって。・・・多分、この空の上で、出会えた織姫と彦星が・・・嬉しくて泣いてるんだろうね・・・」

私の言葉に、艶君がそっと指先に力を込めた。


7月7日。

翼、あなたに逢えた――奇跡の日。

来年は、きっと私の笑顔を、貴方に届けるよ・・・





◇ E N D ◇





2008,7,22






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