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7月7日

催 涙 雨 −4−
−2年後の織姫−








芝生の上に寝転び、空を見上げる――

そんなこと、もう何年もしていなかったことに気がついた。
太陽の光を真正面から受け止めても、湖畔から吹く風で暑さは和らいだ。

『時には人間も光合成が必要かも』
隣でそう呟き、目を細めた彼女の言葉に知らず口元に笑みが浮かぶ。
彼女は僕なんかよりずっと忙しいだろうから、僕以上にこんな時間が持てないのかもしれない。
『光合成と言うより、火傷しそうですね』
彼女の白い腕見て言うと、彼女は僕の腕をとんと突き『艶君もね?』と笑った。

穏やか、という言葉をこんなに実感したのは初めてだった。
再会した当初浮かんだ様々な感情は、澄み切った青空に吸い込まれて消えていくようだった。
きっと、一人で空を見上げても、こんなに穏やかで満たされた気持ちにはならないだろうと思えた。

『気持ちいいなあ』
そう言って目を閉じた彼女に、兄さんが彼女を見つめる横顔を思い出した。



人付き合いのキャパがそれほどなかった兄は、必要以上に他人と関わる事を避けていた。
"冷たい"と評されることが多く、ルックスだけで寄ってくる女のコは、だからすぐに離れていった。
"冷たい"のではなく、情をかけるのが苦手だったんだ。
感情を表に出すのが苦手で、誤解される事も多くて・・・。
本人はそんなことあまり気にしていなかった。
恋愛に関して、未練を抱いたり追いかけたりすることもなかったと思う。

今となれば、あまりに早い別れを知っていて、深く関わらなかったのかな?と思うほどに。

そんな兄さんだったから、連れて歩く女性が同じと言う事はなくて。
なのに、冴実さんには何度か会った。
初めてあったのは、行きつけのレストランだった。
家族で利用する事の多い店でシェフの腕が確かだから、僕も接待に使ったりして。
偶然鉢合わせたあの日、兄は「同僚だ」と素っ気無く紹介した。
初対面だった僕にでも、彼女が兄さんに対してどんな感情を抱いているか感じたし、異常なほど緊張しているのがわかった。

ほどなくして、兄の部屋で再会した。
その時に「付き合うことにした」と呟いた兄さんの顔が、悔しそうだったのがおかしかった。

実家で生活している僕は、職場が兄のマンションの近くだったこともあり、よく顔を出していた。
夜勤だ残業だと、ほとんど部屋に戻らない兄をいいことに、僕の方が都合よく使わせてもらっていた、というべきか。
冴実さんと付き合いだしたばかりの頃は、どうせすぐに終わるだろうと思っていた。
それが、なんだかんだ言い争うのが趣味のような付き合いは続いて。

いつだったか、彼女のお世辞にも美味いとは言えない手料理を食べたこともあった。
料理には煩いはずの兄さんが、「不味い」といいながらも口にするのを驚きながら見届けた。
そんな僕から顔を背ける兄さんが、可愛らしかった。
兄さんを可愛いなんて感じたのは、初めてだった。

冴実さんは、よく笑って、よく泣いて、ポーカーフェイスで嫌味を言う兄にもずけずけと物を言う人だった。
時折ふっと微笑む兄を何度か見つけた。
誰かに対して、柔らかく微笑む兄さんを見たのも・・・初めてだった。
冴実さんを見つめる横顔が、忘れられなかった。


だから兄が渡米する時に、彼女は連れて行かないと聞いて驚いた。
それと同時に"その程度か"と。

あんなに特別な存在だと思っていたのに。
別れてしまったんだ・・・。

兄を見送る空港に、彼女の姿はなかった。

兄さんは、彼女を切り捨てて行ったのだと思っていた。


事故の知らせを聞き、日本から単身駆けつけた僕は。
変わり果てた兄さんの姿に絶句した。

包帯に滲む血液。
兄さんの体から、目に見えない何かが流れ落ちていくのを確かに感じ取りながら。

震える指先で兄さんの頬に触れた。
俺の指先が、誰のものかわかったかのように、最期に一瞬意識を戻したその理由。
兄さんは最期の願いを俺に託した。

「さえに、わたして・・・くれっ・・・」

俺を見て、喘ぐように言って。

「さえに、あい・・・たかっ・・・」

そのまま目を閉じた。

ああ、兄さんは、彼女を想っていたんだ――ずっと。

最期の瞬間、間違いなく、兄さんは彼女を想っていた。

兄さんが微笑んで見つめていた、あの笑顔の人。

その笑顔が涙で壊れるのを見るのが・・・ツラかった。



『あの兄さんが、どんな顔でその指輪を選んだんだろうね?』
そんなことを考えていたから、別れ際に不意にそんな言葉が漏れた。
彼女の指に、まるでそこだけが輝ける場所だとばかりに光る指輪に視線を落とした。
本当は、兄さんの気持ちがわかるような気がしてた。
予想外の再会で混乱していたはずの僕の心が――気持ちが、凪いでいった。
隣で呼吸する彼女にどこか癒されていく自分を感じていたんだ。

感傷的になっているのは、僕の方だったのか・・・?

指輪をじっと見つめて、彼女は暫く考え込み『想像できない』と寂しそうに笑った。
その笑顔に突き動かされるように、僕は胸が苦しくなった。
抱き締めてしめてしまいそうだった。
自分の衝動に驚き、慌てて両手をぐっと握り締めた。

これは同情なんだろうか?
憐れみだろうか?

そんなものを彼女が喜ぶとは思えなかった。
彼女がただの感傷でここまで来たのではないと、今ではわかっていた。
彼女は、ただ純粋に、兄の見た風景を、吸い込んだ空気を知りたかったんだ・・・前を見て歩いて行くために。

『もう・・・会うこともないと思うから』
だから、僕は躊躇わずに言葉にした。
『兄さんは、非生産的な感傷は苦手だったよ。・・・だから、もう、こんなことはやめた方がいい』
いつまでも、ここに、兄さんに留まるべきではない。
僕も含め、兄さんに関わる全てから離れた方が・・・彼女の為になる。

僕の言葉に、彼女はこくりと頷いた。
ゆっくりと僕を見上げ『心配してくれてありがとう』と綺麗に微笑む。
まるでそう言われることを知っていたかのような彼女の言葉に、僕は思わず顔を顰めた。
キツイ言葉だったろうに、それでも彼女は僕に『ありがとう』と笑った。

『もう会うこともないと思うから』
今度は彼女がそう切り出した。
それまで浮かべていた微笑をすっと消し、気遣わしげに言葉を続ける。
『・・・翼は今の艶君見たら怒ると思う。ちゃんと食事摂ってる?睡眠、足りてる?私たちの仕事もそりゃハードだけれど、艶君働きすぎよ・・・』

僕なんかよりずっと忙しいはずの彼女は、だけど医師の顔でそう言って、困ったように首を傾げた。
やけに可愛らしい仕草と言葉に、僕は口元を歪め『兄さんはそんなこと言わないよ』と苦笑する。
『僕なんかより、よほど無理する人だったんだからね』
僕の言葉に彼女は『うーん』と唸り『確かにそうね』と笑った。

他に言葉が見つからなかった。
ちらりと腕時計に視線を落とし、視線を彼女に戻す。
束の間、僕たちは名残を惜しむように無言で見つめあった。

それから静かに頭を下げた。
ざわめく空港で、それは異質な光景だったろう。
顔をあげると、彼女の瞳には涙が滲んでいた。
そのまま互いに背を向けた。
少し歩いて、何かに引き寄せられたように振り向いた。彼女もほぼ同時に。

『ありがとう』

それが僕たちが最後に交わした言葉だった。


* * *


「兄さん、何してるの?時間ないよ?」
不意に足を止めて道路を見つめる兄さんに、僕は声をかけた。
そのまま視線を兄さんの見つめる先に移す。
兄さんのマンションの前の道路。
街路樹の脇、道路で不自然に小さく羽ばたく・・・鳥の雛。

「・・・落ちたのかな?」
街路樹を見上げ呟いた僕の足は、駅の方に向かっていた。
もうダメだとわかっていた。
雛は必死に羽を動かしていたけれど、まったく宙に浮かぶ事ができず、次第に交通量が増えた車道へと動いていく。
「行こう、兄さん。」
兄さんは、僕以上に冷静だ。
下手に情をかけることなく立ち去る。
そう思っていた。
だから、僕はネクタイを締め直しながら、すでに歩き出していた。

「先に行っていいぞ。艶。」
兄さんの言葉に、驚いて振り向いた。
兄さんはまるで自ら車に飛び込もうとしているかのようだった雛を片手で持ち上げると、上着からハンカチを取り出して雛を包んだ。
小さな存在は、まるで最期の命を空へ羽ばたくことに懸けているように、不恰好に兄さんの掌の上で暴れていた。

「なんで?」
思わず呟いた僕に、兄さんは表情を変えずに首を傾げ「なんでだろうな?」と呟いた。
「助けろって・・・・冴実が言う気がして」
くすっと笑う兄さんに、僕はイライラして答えた。
「わかってるくせに。助けられないって」
「そうだな、多分、助からない。」
兄さんは雛を両手で持ち上げると、静かにそう答えた。
「・・・獣医に知りあいでも居るわけ?」
嫌味をこめてそう言うと、兄さんは目を細めて僕を見た。

「艶は優しいな。」
僕はその言葉に真っ赤になって、どう聞いたら"優しい"などという言葉が出てくるのかわからず、ますますぶっきらぼうに呟いた。
「誰かさんの"お人好し"が伝染ったんじゃないの?」
「かもな。」
そう言って歩き出した兄さんの背中に、僕は打ち負かされたような気がしてた。

僕の、人間としての底の浅さが身に染みた。

兄さんと同じつもりだったのに。
合理的で、冷静で。

兄さんは、いつも僕よりずっと優れている。



"馬鹿だな"

声が聞こえた。
ああ、僕は夢を見ているんだ、と気がつく。
あれは、兄さんが渡米する少し前の出来事だ。

"気がつかないフリだってできたのに、いつだって艶は気がついて・・・傷つく"

兄さんの言葉が、真っ白な世界に響く。

"手を差し伸べられない苦しさ。僕は、それに耐えられるだけの器がなかった。底が浅いのは・・・・僕だよ、艶。"


『そうよ!貴方は私のなに?寂しさも何も埋めてくれない!』
冬香は、そう言って泣崩れた。
大学時代から・・・ずっと仲のよかった笠松と、朝を迎えたと知った翌日だった。
『私が・・・ずっと・・・貴方を待っていたって知ってる?ずっと、ずっと、待っていたって!』
僕は親友と恋人を一度に失くすことになった。
自業自得。
僕は笠松の気持ちを知っていた。
冬香の寂しさも。
けれど、何も出来なかった。
手を差し伸べても、その寂しさを埋められないと感じていたから。
僕は、僕なりに彼女を愛していた。
でも、人の気持ちは決して同じではない。
どんなに長い時間を共に過ごしても、わかりあえないことのほうが・・・多いんだ。

そう言い聞かせるように、僕は冬香との別れから目を逸らした。
赦すことも、赦されることも放棄して。


あの後、勤務先に連れて行った雛に、冴実さんは兄さんの予想通りに接したらしい。
今にも消えかけた命に、「頑張れ!」と何度も声をかけ、兄さんにとっても彼女にとっても専門外の"患者"に、冴実さんは友人の獣医のところへ走ったらしい。
その後、再び空に羽ばたけるようになるまで、彼女が献身的に世話をしたと、兄さんから聞いた。
羽ばたいたその後は、彼女の事など忘れてしまっただろう。
それでも、彼女は花咲くような笑顔を空へ向けた、と。


"冷たさを装っても、あいつには通じないよ"

その裏側にある優しさに、気がつく。
それが彼女だ。


* * *


長い夢を見た気がしていたのに、実際に眠っていたのはほんの1時間足らず。

出張を終えて帰国した僕を。
待っていた空は、まるで泣くのを堪える彼女のようだった。

もう会う事のない、兄さんの愛した人。


明日は七夕。

多分、今年も空に天の川は見えないだろう。









2008,7,12






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