・守護住台灣國格的小學女孩子
                ・台湾の國格を護り切った小学生の女の子
                ・一段日本地方都市的道路
                ・日本は尖閣問題について早急に台湾と對話すべし
                ・日本應就釣魚台問題儘早與台灣展開對話(上)
                ・日本應就釣魚台問題儘早與台灣展開對話(下)
                ・感恩節在台灣
                ・東日本大震災から見えた日台の生命の絆
                ・温家宝認同一辺一国?
                ・台湾・中国  一邊一国
                ・3・11震災一年の松島海岸で犠牲者のご冥福を祈る
                ・那一夜我看到了民主台湾的徳列莎
                ・蔡英文:民進黨的轉型和改革不會停止,我的心永遠跟台灣人民站在一起
                ・2012.1.14蔡・蘇競選総部現場採訪
                ・台湾における宣教医療の光と影
                ・江見政治と竹東大圳 (上)
                ・江見政治と竹東大圳 (中)
                ・江見政治と竹東大圳 (下)
                ・仏教慈済慈善事業基金会の四大志業と骨髄バンク設立物語
                ・陽耀勲栄登西鉄車箱彩絵
                ・Dr.J.L. Maxwell と新楼病院
                ・歌を歌う社長
                ・在遥遠的南国
                ・日本と台湾をつなぐ-台湾先住民族コンサート
                ・“中庸”は健康のみち


台湾の國格を護り切った小学生の女の子              柳原憲一

  ある九州の小学校の出来事です。
  社会科の「世界の国々を認識する」授業中に、生徒たちそれぞれが自分の大好きな国のことを
 紹介しているところ、ある台湾出身の可愛い女の子(Aちゃん)がこのように言いました:

 A:私の大好きな国は台湾です。
 B:台湾は国じゃない。

 突然に飛んできたB君の挑発に対してAちゃんが反論:

 A:台湾は国です。日本と同じ、台湾は国です。
 B:日本は台湾を国として認めていない、ほとんどの国も台湾を国として認めていない、だから、
   台湾は国じゃない。

 この大人でさえ泣きそうな突っ込み方に対して、Aちゃんが言う:

 A:間違いなく、B君は人間ですね。
   もし、誰かが「B君は人間じゃない」と言っても、B君は人間ですね。
   皆が「B君は人間じゃない」と言っても、B君はやはり人間ですね。
   B君が人間である限り、誰かにどうこう言われてもB君は人間です。
   台湾が国である限り、どの国にどうこう扱われても台湾は国です。
 B:・・・・・

<to 学友園地>


日本は尖閣問題について早急に台湾と對話すべし  柳原憲一

 **せっかく中華人民共和国が再三「釣魚島全体は中国の台湾の付属島嶼である」
を主張するならば、「中国の」かどうかは別として、「台湾の付属島嶼」と
指摘された以上、日本は直接台湾と話し合えばいいと思う。

 201097日尖閣諸島中国漁船衝突事件発生以来、尖閣問題は再度加熱してきてい
る。われわれは、現時点日、台、中それぞれの政府や学者が尖閣の領有権についての
主張を検証したところ、
台湾住民の視点からの思考が欠如していることが分かった。
しかも、この台湾住民の視点からの思考こそが、日、台双方にとって尖閣問題を打開
する鍵であると考える。

ここで「終戦までの尖閣領有」、「戦後処理と尖閣諸島」、「台灣住民の視点から」、
「日本国民と台湾住民に託す」という四つのセクションに分けて、ご報告させていた
だきたいと思う。

 

一、終戦までの尖閣領有

まず、終戦までの尖閣領有について考える前に、島の領有権に関する国際法を簡単
にご紹介させていただきたいと思う。

1928年、オランダとアメリカの島争いである「パルマス島事件常設仲裁裁判所判決」
に時際法 (intertemporal law )の概念が提示された。これは旧法が新法により改廃
され、また法秩序が一新される場合、二つの法または法秩序が時間的に先後関係にある
とき、ある法的事実がどちらの法に支配されるべきかを定める法則である。つまり、
「權利の創設」は当時の法律で判断すべきであると同時に、「權利の存続」も法律の
進化により産生した要件で判断すべきである。

よって、16世紀前葉までの「発見」(discovery)、「先占などの伝統的な「領域
権原」
territorial titleに依拠せず、18世紀中葉以後の「有効占領」(effective occupation)、つまり和平かつ継続的な國家権力の行使 (peaceful and continuous
display of State authority)
は、領域権原として十分に有効である。また、他方の
係争国の抗議や黙認の有無も重要な判断要素と考慮される。

もう一つの重要な概念は「決定的期日」(critical date)である。紛争が発生した、
あるいは領域権原が確立した時点を、決定的期日という。国際法上は、決定的期日以
前の事実や国家行為のみに、証拠能力を認めている。
決定的期日の認定は、最終的に
は裁判所に委ねられる。


明王朝と尖閣諸島

 ここで、時際法の概念に基づいて、尖閣における明王朝の存在を検証したいと思う。

明王朝時代の使琉球録によると、1534年、明王朝の使節陳侃は朝貢使に付いてきた
琉球人を同行させて58日に福州を出て、23日に琉球に到着した。この記事を見ると、
平嘉山、釣魚嶼(魚釣島)、黄毛嶼(久場島)、赤嶼(大正島)を次々と通過した。
一昼夜で三日の航路を進んだのである。琉球の船は小さく、付いてくることができず、
見えなくなった。十一日夕方、古米島(久米島)が見えた。これは琉球に属すため、
琉球人は太鼓を打ち、踊りながら自国に到達したことを喜んだ。」と書いてあるのだ。
これを見て、中国側は久米島から東は琉球領だから、その西は中国領だと決めつける
わけである。さらに、こうした文献に、島の中国語名が記されていることから、尖閣
諸島を「発見」し、「命名」を行ったのは中国人であり、それこそが中国の領有権の
根拠だと強調するのだ。

しかし、陳侃が出航する前の153311月の記事はこのように書いてた:「この月、
琉球国の進貢船が到着し、我々はこれを聞いて喜んだ。福建人は航路を覚えておらず、
それを憂慮していたのだが、その到来を喜び、航路の詳細を聞くことになった。翌日、
再び琉球船がやって来た。世子(王子)が長史の蔡廷美を迎えに寄越したのだ。これ
も嬉しかった。朝貢者に聞かずとも、案内をしてくれるからだ。長史は世子の挨拶を
伝えるとともに、世子は福建人が船の操縦に不慣れなことを懸念し、通訳航海士一名
に航海に慣れた者三十人を伴わせて派遣し、代わりに操縦させることにしたと言上し
た。」つまり、尖閣諸島周辺の航路を熟知していたのは琉球人であり、航路すら覚え
ておらず中国人は到底尖閣諸島を「発見」することは出来ない。
 記録によると、中国の冊封使の船が福州から琉球へ渡った回数は、明時代十六回、
清時代八回の計二
十三回に過ぎないことに対して、琉球から福州へ向かった進貢船は
明時代百七十三回で、清時代六十八
回の計二百四十一回に及んだ。というわけで、尖
閣の周辺海域に琉球人は中国人よりはるかに関わりが
深いことは、これでも分かる。

 馬英九総統を始めの中国派はよくこの明王朝時代の図鑑「籌海図編・沿海山沙図」を
中国が尖閣諸島
に対する「有効占領」の証拠として、取り上げている。しかし、この
図をよく見ると、島の名称と位置が現地とあまりにもかけ離れていることが分かる。
まず、沿海山沙図によると北から南へ並ぶ順番は、化瓶山、釣魚嶼、彭加山、雞籠山
の順であるが、グーグルの地図で見ると、どうも化瓶山と彭加山は
逆に示されている
ようだ。また、
釣魚嶼と表示されている島は棉花嶼であるような気がする。

また、沿海山沙図の陸地側には把截、把截要衝、巡檢司、水寨、烽堠、旌旗などの
軍事施設が多数描かれている。一方、島の方には島名以外の記載は一切載せていない。
つまり、この地図は海岸衛哨図であり、島の兵力配置図ではないと考えられる。よって、
尖閣諸島における明王朝の「発見」も「有効占領」も証明されがたいと思う。

  
              籌海圖編・沿海山沙圖(福八21巻)

明王朝と台湾

 最近、石泉山房文集に収録された1562年明王朝の郭汝霖の上奏文につての解釈
が日 中間に大きな波紋を呼んだ。「
渉琉球境界地名赤嶼」一文に対して、日本
の学者は「
琉球の境に渉(わた)る。界地は赤嶼と名づけられる。」のように解読
すべきと主 張し、
赤嶼(大正島)は琉球の国境の島であると主張した。これに
対して、中国側は「琉球との境に向かって進む、その境の名は赤嶼。」と
解読す
べきと主張し、
赤嶼(大正島)そのものが国境であると主張した。

 ところで同じ郭汝霖が同じ年に重編使琉球録の中に「閏五月一日に釣魚嶼を通り
過ぎ、三日には赤嶼についた。
赤嶼は琉球との境にあたる山である。さらに一日
進めば、姑米山(久米島)が見えてくる……六日午刻、風が吹き、船が進み、土納
己山(渡名 喜島)が見えた。土納己山は琉球の案山(界山)である。」と書いた。
つまり、
大正島 は琉球との境でありながら、渡名喜島も国境である。

更に、1719年(清・康熙58年)、徐葆光が中山傳信録に「姑米山琉球西南方
界上 鎮山
」と記載した。このように台湾北部沖から琉球までの間、ほぼ一直線
の航路の上 の島々に、
界山、鎮山、案山など国境と思わせる表現が無秩序に使
用されること自体 が「国境」がなお未確認のことを示唆すると考えられる。或
いは、界山、鎮山、案山 などの名詞は「国境」ではなく、「針路の目印」であ
る可能性が高いことを示唆する と考えられる。


 中国側は「赤嶼(
大正島)そのものが琉球との国境であり、赤嶼の東の久米
島からは
琉球領であるため、赤嶼から西、つまり尖閣諸島全体は中国の台湾の
付属島嶼だ」と主張してきた。ここで我々は仮に「赤嶼(
大正島)は琉球の国境
の島でなく、赤嶼(
大正島)そのものが国境である」という中国の主張に百歩
譲って、そして、明王朝、清王朝は果たして「釣魚島全体は中国の台湾の付属島
嶼」を主張することが可能かどうかを検討してみたいと考える。

バタヴィア城日誌によると、1624年中国の明王朝とオランダの間で行われた澎湖島
休戦協議で、明王朝は台湾を無主の地として認識していることをオランダ側に表明し、
台湾領有を勧めた。この協議の成立により、これまで中国側の台湾とその附属島に対
する如何なる主権主張の根拠に繋がりそうな歴史記述の効力は皆無となり、また、台
湾に近い尖閣諸島に対しても同様である。

同一時期に明王朝側も類似な記載が残されている。例え顧祖禹の讀史方輿記要卷
九十九に「總兵兪諮皋者,用間移紅夷於北港,乃復得澎湖」と書いていて、何楷
疏の春明夢餘録に「台灣在澎湖島外,水路距漳、泉約兩日夜,其地廣衍高腴,可
比一大縣;中国版圖所不載」と書いていた。

また、明史には台湾を朝鮮、日本、琉球、安南(ベトナム)、呂宋(フィリ
ピン)と一緒に外國列傳に載せている:「鶏籠山(台湾)は澎湖島の東北に位置
するため北港と呼ばれ、東番とも称す。土地は広大で山野は深く、湖沢は広い。
集落が散らばり、君主がいない…」。清王朝が公式的に発行した欽定四庫全書も
「自古荒服之地、不通中国、名曰東番、明天啓中為紅毛荷蘭夷人所據、属於日本」
と書いていた。

このように明王朝が台湾を所有しない歴史事実を前に、仮に尖閣諸島全体が
台湾の付属島嶼
であっても、中国の領土にはならないことが明白である。

清王朝と台湾

引き続いて尖閣における清王朝の存在を検証したいと思う。

清王朝は1683年(清・康煕22年)の台湾遠征以来、徐々に台湾における支配領域を
広げたが、最後まで台湾を全島領有しなかった。

1867年(清・同治6)、アメリカ商船ローバー号(The Rover)がバシー海峡で
難し、台湾の最南端に上陸した乗組員は先住民に殺害された。事件発生後、アモイ駐
在アメリカ
公使チャールズ・ルジャンドル(C.W.Le Gendre)清帝国に交渉したところ、
「生番の地は中国に属せず、出兵し難く」との返答を受けた。これを受けてアメリカ
政府は
清帝国が台湾全島を領有していない事を確認し、台湾の最南端に出兵した。
の戦争の後、
アメリカ政府と台湾南部十八社連合恆春で南岬条約」という完全
平等
海難救助条約締結した。

1878年(清光緒4年)、清帝は加礼宛戦争でカマラン族とサキザヤ族連合軍を
撃破、排除し、
花蓮を占領した。

1895年(清光緒21年)清王朝は終始台湾を全島支配しないまま、日清戦争の敗戦を
迎え、台湾を下関条約で永久割譲した。島の半分しか支配していない国が島全体の主
権を他国に譲ったこと自体が非常識である。

清王朝は1912212日まで、尖閣諸島を「発見」したり、「有効占領」したりする
ような事実を証明できるものを残すことなく王朝が滅びた。

一方、日本はご存じのように、十分な調査と法的手続きを踏まえて、1895114
日閣議で尖閣諸島を領土に編入した。その翌年から終戦まで、島における国民の居住、
事業の展開など「有効占領」を満たす和平かつ継続的な國家権力の行使が十分行われ
ていた。また、この継続的な「現実の支配」に対して、係争国格の清国は日清講和条
約調印時の1895417日までだけではなく、清朝が滅びた1912212日までも、
一度も異議を唱えることはなかった。さらに、清朝の後継政権である中華民国の国家
元首である孫文も、袁世凱も日本に対して多額な借金を度重ねて要求したが、尖閣の
領有権について一度も触れることはなかった。よって、終戦まで尖閣諸島は確かに日本
の領土であると考えられる。

 二、戦後処理と尖閣諸島

 ご存じのように、第二次世界大戦後、日本の領土に関する処理はサンフランシスコ
講和条約に基づいて行われたと認識されている。つまり、琉球諸島を含む北緯二十九
度以南の南西諸島などの島々を「合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下に
おくこと」(サンフランシスコ講和条約第三条)である。

これに対して、中華人民共和国は(1)中国はサンフランシスコ講和会議に参加せ
ず、「サンフランシスコ講和条約」は中国に対して拘束力を持たない。(2)「サン
フランシスコ講和条約」が定める信託統治範囲に釣魚島は含まれていない。と異議を
唱えた。

ここで我々はサンフランシスコ講和条約が定める信託統治の在り方と尖閣諸島との
関係について、考えて見たいと思う。

まず、尖閣諸島が琉球諸島に含まれている場合、しかも、尖閣諸島も琉球諸島も
サンフランシスコ講和条約が定めた信託統治制度の下に置かれた場合、尖閣諸島並び
琉球諸島の主権は一旦日本国から剥奪されて、国際連合或いは国際連合が指定した
米国に委ねるべきである。その後、住民自決により、信託統治のままにするか、独立
国家にするかを決めるわけである。 もし、日本と併合したいときも、独立国家に
なってから、両国間に国家併合の手続きを踏まえて達成すべきである。

次は「尖閣諸島が琉球諸島に含まれていない」中華人民共和国の主張について、
考えてみたいと思う。

終戦までは確かに日本の領土であり、八重山郡に管轄された尖閣諸島に対して、1945
41日から既に尖閣諸島も琉球諸島も占領統治下に収め、サンフランシスコ講和条
約を主導してきた米国は、わざわざ尖閣諸島を条約の第三条信託統治制度の対象から
外す考えもなく、わざわざ条約の中に尖閣諸島を表記することもないのが自然ではな
かろうか。

 仮に百歩譲って中華人民共和国の主張通りに「尖閣諸島が琉球諸島に含まれてい
ない」場合、どうなるかを考えてみたい。この場合、ポツダム宣言第八項「吾等の決
定する諸小島」が頼りになると思う。無論、この「吾等」は国連であり、中華人民共
和国ではない筈である。中華人民共和国の前政權である中華民国は1945年から1971
まで、国連の常任理事国でありながら、尖閣諸島に対する米国の占領統治、琉球政府
の和平かつ継続的な「現実の支配」に黙認をし続けてきた。

もし、中華人民共和国が自ら国連における前政權が黙認し続けてきたことに異議を
唱えたい場合、まず、国連の場でポツダム宣言第八項に基づく「尖閣諸島の主権は日
本に歸屬するか否かの判断」を提案すべきである。もし、結論は「尖閣諸島の主権は
日本に歸屬しない」にしても、直ちに中華人民共和国に歸屬することではなく、無所
属の島になるわけである。無所属の島である以上、これまで述べた論理によると、や
はり、戰後米国の協力の元本日まで和平かつ継続的な國家権力を行使してきて、「有
効占領」を実行し続けてきた日本のものになる筈であると考える。

琉球における米軍の占領政治

 ここで、戦後琉球における占領政治について、検討してみたいと思う。

 戦後、本家本元のサンフランシスコ講和条約による琉球諸島の信託統治は実行さ
れなかった。代わりに、194541日から琉球列島米国軍政府、19501215日か
ら琉球列島米国民政府による占領政治(施政権)が実行された。19681110日琉
球政府行政主席選挙を経て、1972515日「沖縄返還協定」により施政権を日本に
返還した。つまり、194541日から1972514日まで、絶え間なく琉球列島に
君臨したのは米軍による占領政治であり、国連による信託統治制度ではなかった。
国連による信託統治制度が実行されていない以上、サンフランシスコ講和条約による
日本国から琉球諸島の主権を剥奪することも実行されていない筈である。これがいわ
ゆる米国が主張する日本は琉球諸島における残存主權(residual sovereignty)を有
する根拠である。琉球諸島の主権が剥奪されたことがない以上、尖閣諸島の主権だけ
が剥奪された訳はない。

 では、なぜ米国はサンフランシスコ講和条約が定めた信託統治制度を無視したか?
また、なぜそれが出来るのか?について考えてみたい。

 まず、冷戦の時代背景があって、米国にとって、琉球における基地の長期、安定
使用が不可欠である。既に194541日から米軍による占領政治が定着した琉球に、
もし信託統治制度が実行された場合、当然ながら、その後、住民自決により琉球が
独立国家になる可能性や、独立した琉球国が反米路線を採る可能性も視野にいれなけ
ればならない。ここで考え出した方策は、条約の第三条に「合衆国を唯一の施政権者
とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案に
も同意する。」という文言を付け加えることだけでなく、さらに「このような提案が
行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に
対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するもの
とする。」という文言まで付け加えた。

 実際のところ、米国は一度も「信託統治制度の下におくこととする」件について、
国際連合に対する提案を行わなかった。結局、提案が行われない以上、可決されるこ
ともないまま、米国の想いのまま占領政治(施政権)が実行された。

 これがいわゆる日、米が主張する「サンフランシスコ講和条約に基づく戦後処理」
の真相である。基地確保のために考え出した「インチキなやり方」と言われても仕方
がないが、一応は合法的であった。もし、第二次世界大戦の付随戦勝国である中国が、
主要戰勝国である米国と敗戦国である日本が手を組んで仕掛けたこの「インチキな
やり方」に異議を唱えたいならば、やはり国連の場で、日、米を控訴すべきではなか
ろうか?勝手な実力行使は国連憲章に違反するわけであるため、どうしても自力で対
決したいならば、まず国連を脱会してはいかがだろうか?

三、台湾住民の視点から

日本が1895417日下関で調印した日清講和条約と同年62日基隆沖で行われた
引き渡し手続きにより、清国から手に入れたものはただ台湾に対する出兵の権利に過
ぎない。なぜならば、実は同年525日台湾民主国は既に成立した。台湾における日
清両国間の主権並び行政権の移行手続きは物理的に不可能になってしまった。

日本軍は清国の代表者からの引き渡しを待たずに、1895529日から1021
まで、台湾の西部平野地域で対台湾民主国作戦、対台湾民衆蜂起作戦を行い、また、
191486日まで、東部山岳地域で対台湾先住民族作戦を展開した。日本はこの二つ
の戦争(日台戦争)を勝利に収め、史上始めて台湾全島を領有した。従って、1951
調印したサンフランシスコ平和条約で日本が台湾の主権を放棄するとき、当然、日台
戦争の相手側である台湾の西部平野地域住民と東部山岳地域先住民族つまり台湾住民
が唯一の放棄の対象である。台湾住民は大西洋憲章の精神に基づき、戦争によって強
奪された主権及び自治を回復する権利がある筈である。

歴史に「もし」ない。でも、「もし」を考えると面白い。

もし、戦後の台湾は沖縄と同じように米軍の占領下に扱われ、同じような住民投票
が行われたらどうなったでしょうか?まず、蒋介石は行き場を失い、中国で消滅され
てしまったに違いない。台湾人は共産中国も選ばず、台湾を空爆し、占領したアメリカ
も選ばず、独立建国を選んだに違いないと思う。そうすると1972年に占領軍は相変わ
らず尖閣諸島を沖縄県の一部として扱うかどうかが面白い。

もし1968年琉球の行方を決める琉球行政主席選挙に、琉球の独立を訴える野底
武彦が当選し、琉球国が独立した場合、いくつかの判断がありえた。

占領軍は尖閣諸島を1)日本国に帰属するか、2)琉球国に帰属するか、3)台湾国
に帰属するか、4)中華人民共和国に帰属するか、5)引き続きアメリカが占領管理を
するか?
  

当然、アメリカは何があっても4)を選ぶはずがない。また、5)にしても尖閣諸島
の単独占領管理は物理的に難しい。もし、1)が選ばれたら、台湾国より先に琉球国か
ら猛抗議が飛び出すに違いない。目の前の島が遥か1,800キロも離れた大和政府の物に
なることは到底納得できない。残った選択肢は2)と3)にしかない。

もし、尖閣諸島を琉球国に帰属することになると、台湾国はどのように抗議すること
になったか?

1)日本政府は1879年すでに琉球処分を行い、沖縄県を設置したにもかかわらず、
1895114日、わざわざ
閣議を開き尖閣諸島を領土に編入した。つまり、1895
114日以前の尖閣諸島は、琉球王国のちの沖縄県
に所属してはいなかったこと
が自明である。

2)尖閣諸島は沖縄本島(300km)より台湾本島(170km)に近いし、琉球の附属島
与那国島( 147km)より台湾の附属島彭佳嶼(140km)に近い。

3)郭汝霖の「上奏文(石泉山房文集)」(1562年)に「琉球の境に渉(わた)る。
界地は赤嶼と名づけられる。」と記した。赤嶼(大正島、赤尾嶼)が界地である
以上、大正島より西にある
魚釣島(釣魚台)、久場島(黄尾嶼)、南小島、北小
島、
沖北岩、沖南岩、飛瀬(飛岩)は地勢的に台湾に属すべしである。

4)日本は1895114日、尖閣諸島を領土に編入し、同年529日台湾に出兵し、
台湾を占領した。台湾住民、特に一度も中国の統治を受けたことなく、台湾の50%
強の面積を支配する山岳地域先住民族は告知されたこともなければ、異議する機
会も与えられなかった。

 このような抗議を受けたアメリカは果たして尖閣諸島の帰属を琉球国にするか?
台湾国にするか?

つまり、歴史的にも、地勢的にも尖閣諸島との関係について台湾は琉球より近いこと、
1895年日本政府が立て続いて尖閣諸島を沖縄県に編入したり、台湾を軍事占領したりし
たことより考えると、戦後同じアメリカの占領下から独立した台湾国と
琉球国は、尖閣
諸島の帰属について、互角の立場であると考えられる。

もし、戦後に独立した台湾国と琉球国が尖閣諸島の帰属について、互角の立場であれ
ば、独立を選んだ台湾国と本土復帰を選んだ琉球とも互角であったはずだ。

もし、戦後同じアメリカの占領下から独立した台湾国と本土復帰を選んだ琉球が尖閣
諸島の帰属について、互角の立場であれば、戦後蒋介石亡命政権の占領下から独立した
台湾国と米軍占領下本土復帰を選んだ琉球とはやはり互角でなければおかしい。

つまり1895525日に成立した台湾民主国は同年525日から日本の攻撃を受け、
それに
屈服したため、同年114日に発生した日本の尖閣諸島占領に対して異議を唱え
ることが出来なかった。台湾民主国にとって、日本の尖閣諸島占領は決して和平かつ継
続的な國家権力の行使とは言い難い。また、日本が敗戦、降伏後の19451015日より、
台湾は連合国マッカーサー将軍が派遣した中華民国軍により再占領されたため、住民自
決による国家樹立も出来なければ、米国主導による日本の尖閣諸島領有に対しても異議
を唱えなかった。よって、台湾国が成立し、台湾国が日本国と尖閣諸島の領有権につい
て、交渉が出来るまで、両国間の「紛争」は持続していると考える。「決定的期日」(critical date)も同様に先送りにすべきと考える。

要するに、明王朝、清王朝や中華民国の後継政権ではなく、サンフランシスコ平和条
約、大西洋憲章の精神に基づき、台湾先住民族の歴史に基づいて立国した台湾国であれ
ば、自由民主主義で第一列島線を守る台湾国であれば、尖閣諸島帰属問題に関して、
際司法裁判所への提訴も
、日、米政府と議論する余地も十分あると考えられる。
頑張れ!台湾。


日本国民と台湾住民に託す

日本は「琉球ありきの尖閣」と同様に、一貫して「釣魚島全体は中国の台湾の付属
島嶼
である」と主張してきた中華人民共和国は「台湾ありきの釣魚島」である。この
中華人民共和国は
尖閣諸島を手に入れるためにも、第一列島線を突破するためにも、
台湾を直接支配しなければならない。一方、中華人民共和国に立ち向かう日本は、
尖閣
諸島を守るため
にも、第一列島線をキープするためにも、必死に台湾を自由民主主義陣
営に引き留めなければならない。このような情勢を背景にした尖閣
諸島を取り囲む日、
台、中の先行きについて、考えてみたいと思う。

政治情勢が不安定、経済発展が行き詰まりつつ、汚職、環境破壊、民族問題、国内格
差、資金流出、エリート層の海外移住ブーム、軍部の台頭など、山積する難問に追い詰
められた中華人民共和国政府はやがて、「反日愛国」という大義名分で、義和団のよう
な前近代的手口を用いて領土問題に火をつけた。

 一方、中華民国を名とした台湾統治機構は中国本土から追放されても、国連から追放
されても、殆どの国々から国交を断絶されても、総統全面選挙を5回行っても、政権が
交代、再交代しても、サンフランシスコ平和条約、大西洋憲章の精神に基づき、住民自
決で施政権を台湾人民に返還し、台湾国を樹立させる意思はなお見当たらない。このよ
うに「現状維持」のまま本日まで来て、一旦尖閣問題で日本に直面せざるを得ない時、
曖昧な國格の限界を露呈した。行く行くはこの統治機構は中華人民共和国に吸収合併さ
れるか、台湾国に大政奉還するかは台湾住民の意思と努力次第であると思う。

日本にとっても、台湾にとっても尖閣諸島の重要性は安全保障と資源である。ここで
日本国民並びに台湾住民に託したいことは、よく知恵を出し合って、いかにこの日台共
通の利益を確保するかを考えることが急務である。

まず、冒頭から尖閣諸島と無関係な中華人民共和国をリングから出てもらわなければ
ならない。せっかく中華人民共和国が再三
「釣魚島全体は中国の台湾の付属島嶼であ
る」を主張するならば、「中国の」かどうかは別として、「台湾の付属島嶼」と指
摘された以上、日本は直接台湾と話し合えばいいと思う。

そのロードマップは、日本国民と台湾住民双方の代表が第一列島線における自由
民主主義を断固守るという認識を前提に、
短期的には漁業交渉であり、中長期的には、
海底資源の共同開発についての交渉であり、最終的には領有権の交渉であると、
具体的なロードマップを提示すれば面白いと思う。無論、台湾国はまだ誕生してい
ないが、これは誕生するまで待てばいいことだ。

この案は決して日中共同声明に違反することにはならない。

たしかに、日中共同声明に「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土
の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府
立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」が書い
ている。しかし、中華人民共和国政府の立場理解したり尊重したりすることは、必ず
しもこれらに賛同したり、承認したりことではない。要するに、中華人民共和国政府が
欲しくて堪らないあの島の上の住民が、自らの国が欲しいために頑張っている。日本は
この住民らの努力を見守っていて、その結果を待ち続けるだけだ。

 そして、台湾住民らはこれを機に、一層台湾国の樹立に励んでいただければ幸いと思う。

<to 学友園地>


   感恩節在台灣    文 Pasoa

    曾幾何時,台灣人也開始過起感恩節了。
    這是個好現象,住在台灣的人們是應該想想要向誰感恩,該如何感恩的。

    古早古早的台灣,無論是平埔族或是高山族都是敬畏天地、感謝祖靈的族群。早年的唐山
   移民羅漢脚側身平埔族聚落,得以在台灣安身立命,傳宗接代。埔漢聯姻與平埔族漢化的結
   果,當今台灣社會固然一方面很難識別誰是平埔族了,叧方面祭拜平埔族祖靈的儀式――
   拜地基祖,却又深入民間,深植人心。所以,拜地基祖可以説既是平埔族後裔的祖靈祭,也是
   羅漢脚後裔的感恩祭。

    台灣史上最大的移民潮,無庸置疑的是1949年冬天,隨着中華民國滅亡,離開中國的逃難
   軍民。他們的人數是1620年搭乘五月花號 (The Mayflower) 離開英國的清教徒(Pilgrims)的
   一萬倍以上,他們在高雄港和基隆港登陸,他們比清教徒們幸運,一上岸就得到台灣人的協
   助,而不必等到隔年的春天。當年的那個寒冬没有讓他們吃多少苦,第二年他們幾乎全數存
   活,而且佔去了台灣人大部分的工作機會與政經地位。往後的幾年,他們的同胞、同袍從海
   南島、舟山島、富國島(越南)、大陳島、一江山島、朝鮮半島等地相繼撤來,台灣人仍然列
   歓迎,行禮如儀。

    他們之中或許有人在感謝上帝或神佛,但没聽説過有誰在感謝台灣人的。很奇怪的,他們毎
   年替那個把他們的國家與國土弄丟的人舉行祝壽大會,還要台灣人跟着膜拜。

    隨着時間的流逝,他們之中有些人成為我的同學、朋友或親戚,有些人也開始過起感恩節了。
   只是,不知道還要多少年月,他們或他們的子孫才能學會像他們的移民學長羅漢脚那様子的
   「揮別原郷莫怨嘆,安身立命在台灣」呢?才能學會像羅漢脚後裔那様子的拜地基祖的感恩祭呢?

   後記:
    
台灣是個神奇的地方,人們來到這裡、愛上這裡、也埋骨在這裡。雖然常常被出賣,台灣人從不
   吝於接納外來族群。

    從我小學一年級算起,剛好經過半世紀,身邊堅持講「國語」的「他們」確實變少了。當「他們」漸
   漸的熟悉台灣語,關心台灣文化時,「他們」也漸漸的變成「我們」了。担心的倒是「我們」之中的有
   些人,對台灣就是不在乎,成天想同15億人分杯羹。

<to 学友園地>


   東日本大震災から見えた日台の生命の絆
 産経新聞(九州・山口版)2012.7.15-16
 
 
 

<to 学友園地>
   
   温家宝認同一辺一国?         Pasoa

    3月14日,中国総理温家宝在十一屆全国人大五次会議
   閉幕会的記者会上,引用台湾詩句「情天再補雖無術,缺
   月重圓会有時」,回答台湾記者関於退休後到台湾自由行
   的提問。

    這首詩出自「無悶草堂詩存」,是日本軍占領台湾時,避
   居福建的霧峰林家林朝崧,於1896年為送別友人回台湾
   而作的。

    原文的意思是:台湾與清国永久割離雖然是無法改変的
   事実,但是你我的重逢如月缺月圓,時日可期。林朝崧果
   真在3年後放棄清国的庇護,終老於日治下的台湾。

    温家宝花盡心思挖出這首詩,是否想隠喩台湾與中国
   一辺一国是無法改変的事実,但是温某到台湾自由行與
   各位重逢,時日可期?

       送呂厚庵秀才東歸 

   吾人聚散本難知,分手何須泣路歧。
      但使三生盟片石,不應一歩阻雷池。
      情天再補雖無術,缺月重圓會有時。
      珍重萊衣歸故里,相思寄我釆薇詩。

<to 学友園地>
         
           台湾・中国
  一邊一国                  文:編集部

          2011年7月12日、平戸港に中華民国(台湾)の国旗(青天白日旗)と中華人民共和国
         (中国)の国旗(五星旗)が日の丸の両側に掲げられた。
           
          13日、平戸市役所に於ける前夜祭で台湾・台南市からの訪問団を率いる頼清徳市長
         より「平戸の皆さんの長年にわたる温かい友情に感謝したい。特に平戸港に国旗を掲げ
         ての歓迎に心から感動している。」と挨拶した。

          14日、川内町内の鄭成功居宅跡で鄭成功生誕祭が開催され、中華民国台南市長頼
         清徳と平戸市長黒田成彦と来賓として出席した中華人民共和国駐長崎総領事李文亮
         と3人で握手を交わす歴史的な場面が残された。
          
          
          
<to 学友園地>
       3・11震災一年の松島海岸で犠牲者のご冥福を祈る     図・文 Pasoa
    一年前、津波に襲われた宮城県・松島町でも追悼行事が行われた。
    午後14時46分、半旗が掲げられた中央公民館の外に、案内役の方々が海に向かって黙祷。   
島々の御蔭で松島海岸に大きな被害は比較的少ない     奥松島の住宅はほとんど流された
      元来、風光明媚の東名運河      鳴瀬川沿いに一斉捜査に展開した警官
    完全破壊された矢本消防署成瀬出張所 高さの半分は土砂に埋められた墓石(鳴瀬川沿い)
                          仙石線野蒜駅の無残な姿
    かつて白砂青松の奥松島パークライン               瓦礫の山
<to 学友園地>

 那一夜我看到了民主台湾的徳列莎
   図・文 Pasoa

     小英主席,辛苦了。

     一月十四日晩上,我在台下最前列聆聴您的談
   話。拭去雨水與涙水,我看到您那堅定如昔的笑
   容,我看到台湾民主的希望,看到了台湾的徳列
   莎。


     敗選的原因千頭萬緒,検討、分析、反省、改革
   與轉型都是必要的。但是只有一件事情必須由您
   親自去做,也唯有您才能做得到、做得好的,那就
   是去教育您親愛的國人同胞。
  

     歹命的台湾人,在民主化的進程裡,歴経一次又一次的打撃,在挫折中学習,靠経験
   来成長,却没有好好接受過一天真正的民主教育,没有冷静思考過一次現代公民社會
   應有的教養。過去,在街頭抗争的民主前輩們没有這個餘裕坐下来和人民好好談;現在,
   接踵而来的選挙譲大家疲於奔命,還是没有機會和人民好好的談。再窮的人,也能把進
   教堂聴福音當成生活的一部分,而両千三百萬的台湾人却永遠只能在街頭、在造勢場
   合裡,撿拾那片断的民主経験。

     
一月十四日晩上,在「小英,不要走!」的吶喊聲裡,我看到您那堅定的笑容,我看
   到了民主台湾的徳列莎。我希望、我更相信您會用往後的四年的時間,走遍台湾的廟口
   與村里聚會所,走進一間又一間的客廳,去訪問一個又一個的社團,去撫慰一位又一位
   的小英之友。像徳列莎修女那様的去跟人民促膝長談,譲民主素養與公民精神深植人
   心,譲台湾共識内化成為台湾人民的晨禱,而非選挙時才有的大拜拜。


     您不只是台湾現今政治人物之中,能與莘莘学子談読書、談做人與做事,而深獲好評
   的奇蹟;您更是唯一能「譲十幾萬人在等待您一個多鐘頭之後,再在寒夜裡聆聴您的國
   政論述而捨不得離開」的奇女子。敗選,是老天爺刻意為台湾人民安排的與您相聚、接
   受您福音的契機,不用急着回去中央黨部辦公開會,羊群正引頸等待牧人。請把握這個
   千載難逢的機會,告訴大家如何勇敢地扛起這個國家的責任,告訴大家如何繼續為台灣
   這塊土地打拼。

     
小英主席,等您,在故郷的某個角落。
<to 学友園地>


  
蔡英文:民進黨的轉型和改革不會停止,我的心永遠跟台灣人民站在一起  

                       【2012/1/14】

   謝謝大家在這裡等,尤其下這麼大的雨,大家還這樣情意相挺,大家等我們來,來跟大
  家説一聲:謝謝,謝謝大家!
   我們在場的朋友、在電視機前面很多國人同胞,還有網路上的網友,大家晩安。
   對於今天2012年總統選舉的結果,我們敗選,我要在此向大家致上最深的歉意。

   我們承認敗選,也願意接受台灣人民在這次選舉裡面所做的決定。我知道,很多支持者
  聽我這樣講或許會覺得心碎,可是在這裡,我們還是要恭喜馬總統。希望他在往後四年,
  要傾聽人民的聲音,要用心執政,要公平的照顧毎一個人民,千萬不要辜負人民的期待。

   我知道此刻大家的心情。今天,我相信有很多人原本期待勝利,但是,現實不盡如人意。
  但是,我要跟大家説,我們要堅強,我們一定要堅強,我們一定要比誰都堅強。我們是民
  進黨,我們過去在面對挫折的時候,我們從來沒有倒下過。以前不會,我知道,這一次也
  一定不會。
 
   我要請大家回想一下,四年前,我們曾經是這麼的是絶望,我們所要挑戰的山頂,曾經
  被認為是遙不可及。但是,我們咬著牙,整個黨團結在一起,在這四年,一歩一歩的往前
  走。這一次,我們已經接近山頂,我們還差一哩路。

   我要告訴大家,這樣的結果很遺憾,但是,我們不是一無所有:
   我們對小額募款的堅持,樹立了新的政治典範。我們提出的政策主張,在台灣未來的發
  展中,依然扮演關鍵的力量。

   最重要的是,我們所團結的力量,是一股不可以忽視的力量,這一股力量,不能潰散,
  也不能消失。各位,你們真的不要懷憂喪志。台灣不能沒有反對的聲音,台灣不能沒有制
  衡的力量。未來這四年,雖然我們沒有辦法以執政者的角色,來實踐我們的理想;但是,
  這並不代表,在野就沒有力量。

   我相信,只要大家繼續站在我們身後,給我們支持,給我們鞭策,我們一定還有未來!
  下一次,我們一定可以走完最後一哩路!

   接下來,我要以民主進歩黨主席的身分,感謝大家對民主進歩黨立委提名人的支持,
  讓民進黨的國會席次成長。他們未來,會在立法院扮演人民的代言人,會把人民的困難
  放在心上,努力提升公共政策的品質,讓毎一個國民都得到最好的照顧。

   民進黨的轉型跟改革,不會停止。我們堅持和弱勢人民站在一起,我們堅持政策理性,
  我們堅持以小額募款擺脱對財團的依賴。我們會一直做下去,總有一天,我們會贏得多
  數人民的信任。

   雖然我們很努力,但是,我們要完成最後的理想,這條路比我們想像得更漫長,我們還
  可以做得更好。面對今天的結果,民進黨會認真的做一個檢討,會把它當作一個警惕。

   敗選的責任,由我一肩扛起來。我剛剛已經宣布,辭去民主進歩黨的黨主席。我相信,
  下一任的黨主席,一定會堅持,繼續堅持民進黨的改革轉型,帶領大家繼續走下去。

   最後,蔡英文也要以個人的身分,感謝大家一路相伴。這四年,是很美好的旅程,我們
  一起並肩作戰,在我的心中,你們不只是投票給我的人,你們是我最好的夥伴。

   今天晩上,我相信大家心裡都很難過;如果你心裡真的很難過,就讓它發洩出來。你可
  以哭泣,但不要洩氣。你可以悲傷,但是不要放棄。因為明天起來,我們要像過去四年一
  樣的勇敢,心裡充滿著希望。因為,我們必須勇敢地扛起這個國家的責任,我們必須樂觀
  地,繼續為台灣這塊土地打拼。

   無論我們在哪個位置上,這個國家,都需要我們繼續愛她、呵護她。

   各位親愛的台灣人民,有一天,我們會再回來,我們不會放棄。在2012年的這一天,支
  持民進黨,支持蔡英文,我相信是一件驕傲的事。我們抬起頭,堅強勇敢的走下去。謝謝
  大家,我的心會永遠跟台灣人民站在一起。

<to 学友園地>
    2012.1.14蔡・蘇競選総部現場採訪  図・文:編集部

支持者心情七上八下的看着電視実況転播 数千人冒雨等待小英
蔡英文発表敗選宣言 支持者熱情未減
蔡英文宣布辞去党主席、群衆哭着高呼:「小英不要走!」
支持者不捨小英、大家都哭了、分不清是涙水還是雨水
小英向羅致政致意 小英帯領大家向支持者致意 志工強忍涙水安慰支持者
発言人陳其邁 呂前副総統 台湾青年反共救國團林保華
<to 学友園地>

   2010.10.11 九州大学医学部百年講堂  西日本台湾学友会主催  市民公開講座:台湾における宣教医療

          演題 2: 台湾における宣教医療の光と影   柳原皮膚科クリニック 柳原憲一

                          摘 要
  西暦1865年、最初の宣教医であるDr. Maxwell(馬雅各)が台湾にやってきてから、145年の間、数多くの優秀且献身的な西洋人
  宣教医が台湾に尽力し、中には生涯を台湾のために燃え尽くした者も少なくありません。一方、黙々と西洋人宣教医達を陰で支え
  ている地元の人達のことも忘れられてはいけません。本日は台湾における宣教医療の歴史の中で、輝いた存在や陰的な存在の
  人々を検証しながら、時代と共に進化してきた「台湾の宣教医療事業」と「台湾の市民社会の成熟化」について、ご報告させていた
  だきたいと思います。


  台湾の宗教関連病院はその発足年代によって、以下のように分けることが出来ます。

   第1波は、1865年にやってきて、病院を建てたキリスト長老教会であります。
   第2波は、中華人民共和国建国前後に中国から脱出してきて、病院を建てたカトリックやプロテスタント教団であります。
   第3波は、台湾経済が高度成長期に入ってから病院の建設に参入した本土教団であります。

  以上の宗教関連病院を集計してみると、合計病院数は37であり、合計病床数は約12,000床あります。これを日本の独立行政法人
  国立病院機構と比べてみると、台湾の人口は日本の約5.5分の1ですが、宗教関連病院の医療施設数は日本の国立病院機構の
  医療施設数の約四分の一に達し、ベット数も4.8分の1に達しています。つまり、人口の割合から見ると、台湾の宗教関連病院は日
  本の国立病院機構より規模が大きいと考えられます。


  各論にはDr. Maxwell(馬雅各)、Mack(馬偕)牧師、Dr. LandsboroughⅢ(蘭大衛)、Dr. Landsborough Ⅳ(蘭大弼)、AHCAが建て
  た台湾療養医院、花蓮門諾会(MCC)のDr. Brown、Dr.黄勝雄などの医師たちの貢献と、陰で宣教医療を支えてきた高雄の三つ
  の教会に所属した四人の信者:高長、彭根、黄能傑、林燕臣とその子孫のことについて、御紹介します。


  1980年代に入ると、台湾は経済の高度成長のため、外国の教団からの援助が続々と断ち切られました。幸い病院の経営管理を
  専門分野として専攻した者を始め、留学組が続々と台湾に帰ってきました。更に、
台湾人経営者の努力により、待遇の改善、経営
  管理の自立が実行されました。

  台湾人医師は帝国主義がもたらした宣教医療を献身的な西洋人宣教医と共に守ってきました。そして、これを台湾人の、台湾人
  による、台湾人のため、の宗教関連病院に変身させてきました。これで集大成
になるのですが、ある斬新な思考を持つ本土教団が
  更なる挑戦に挑みました。

  
  帝国主義がもたらした宣教医療を建国と共に一斉に追放した中華人民共和国と違って、台湾は従来の宣教医療に対しても、新た
  に参入した宣教医療に対しても、長い歳月をかけて自国文化の大事な一部分
に溶け込ませました。さらに、この土壌の上に、国家
  戦略とは無縁、武力や政治力に頼らず、教区拡大
も図らず、信者確保のことも考えず、積極的な宣教活動もせず、まるで神話の
  世界にしか考えられない
ようなボランティア主導の世界最大のNGOを育てあげてきました。
        
        
        
        
        
        
        
        
        
        

<to 学友園地>

    2009.06.07 福岡 ガーデンパレス  日華 ( 台 ) 親善友好慰霊訪問団主催  台湾特別講演会
          
               演題: 江見政治と竹東大圳 (上)  
                           柳原 憲一

   ご存知のように、1895年から1945年の50年の間、台湾総督府をはじめ、数多くの日本人の役人、技術者が台湾という異郷の島で
  知恵を絞り、汗を流し、時には命まで捧げて来ました。


   当時、農業社会の台湾では、百姓達にとって、水は命以上に大事なものと言っても、過言ではなかったと思います。と言う訳で、
  台湾北部に作られた桃園大圳や、南部に作られた嘉南大圳のような、現代的技術を導入し、膨大な政府予算を投入した水利施設は
  今も感謝されて、大事にされています。工事中に命を捧げた人々に対しても、戦前、戦後を通じて、欠かすことなく、丁重な供養が行
  われているようです。


   本日は桃園大圳と嘉南大圳のことを振替えて見ながら、もう一つ大事な用水路である竹東大圳のことを皆様と一緒に振替えて見て、
  考えてみたいと思います。


圳と埤
  台湾の田舎に、このような圳という灌漑用水路が網の目のように張り巡らされています。又、到るところに埤というため池が見られます。埤に隣接して、集落や町が出来ました。

  清朝時代の台湾は個人投資家による大型開発のお蔭で、中部の彰化に八堡圳(1719)、北部の台北に瑠公圳(1740)、南部の高雄に曹公圳(1839)のような灌漑用水路が作られていました。

  圳:灌漑用水路

  埤:ため池       埤に隣接する集落

   しかし、これらの工事はいずれも露天掘りでした。1835年に台北郊外の士林に作られた坪頂古圳は、水路3キロメートルの内、
トンネルは僅か60メートルしかありません。トンネル付きの用水路は当時の台湾としては珍しく、難しい工事でした。

 1901年、總督府は「台湾公共埤圳規則」を施行し、公共埤圳に指定された水利設施はすべて地方政府に登録、管理されました。
埤圳の関係者は官庁の認可を受ければ、埤圳組合という法人を設立することが出来ました。埤圳組合は用水代を徴收したり、銀行の
融資を受けたりすることも出来ました。

 
  1908年、總督府は「官設埤圳規則」を施行しました。大型の水利設施は政府が直接に建造し、又、官設埤圳組合を設立、これを管
理するようになりました。通常、管理者は總督府土木局局長や地方廳長であり、灌漑を受ける地主をはじめ、小作やその他水の使用者
は全て組合員になりました。


  1921年、總督府は「台灣水利組合令」を施行しました。これにより各地の公共埤圳組合は地域ごとに水利組合に統合されました。
水利組合の組合長は地方州知事や廳長より任命されました。組合内に評議會が設立され、評議員の半數は政府より任命され、半數
は組合員より選出されました。又、組合で議決された事は總督府の承認を受けてから始めて執行が出来るように決められました。

  しかし、このルールに例外がありました。それは大正九年から、10年間にかけて作り上げられた嘉南大圳の場合です。嘉南大圳の
当初の予算総額は4,200万円であり、これは当時の台湾総督府の年間予算の1/3以上に及ぶ規模で、内地の政府援助が不可欠でした。
しかし、内地も米騒動などで大変な時期だったため、1,200万円を国庫補助し、残り3,000万円を地元農民などの利害関係者が負担する
ことになりまた。このため、明石総督は嘉南大圳を官設埤圳ではなく、格下の公共埤圳に指定し、「公共埤圳嘉南大圳組合」を設立させ、
ようやく着工まで漕ぎ着けました。よって、工事の総責任者の八田與一も總督府技師の職を辞任し、公共埤圳嘉南大圳組合雇用の技
師に転任しました。

桃園大圳
  雨不足の桃園台地ではこのような灌漑用水を溜める目的の埤は、多い時期は八千個もあったようです。しかし、埤というものは受動的に雨水を待つしかない施設であるため、より安定した用水を確保するためには圳の連結により、大きな河川から常に水を補給しなければなりません。
  
1916年、総督府は桃園台地に桃園大圳という最初の官設埤圳事業をスタート、工事の責任者は総督府の土木技師狩野三郎でした。のち、嘉南大圳の設計者八田與一も測量、調査に参加しました。
  メンテナンス期間中の桃園大圳   供養塔(正面)   (背面)
  桃園大圳の工事は大漢溪上流の石門峽、つまり現在の石門ダムの左岸に取水口を設け、河水を引きました。幹線水路延べ25キロメー
トル、その中に15キロメートルはトンネル工事でした。幹線水路からさらに12の支線が作られまして、241個の埤に用水を溜め込みました。こ
のお蔭で、2萬2千hrの畑が年に二毛作の水田に生まれ変わりました。1924年に工事が完了し、総事業費は1,250万円でした。これは日本統
治時期北部台湾における最大、最重要な灌漑用水路工事でした。


  工事の犠牲者を偲ぶため、二月一日と六月一日、年に二回「供養塔」でご供養が行われています。供養塔の石碑の裏に施工主の澤井
組が工事犠牲者である台湾人十七名、日本人三十七名の名前を分けることなく、刻んでいます。


嘉南大圳

  桃園大圳の起工まもない頃、南部の嘉義廳長も総督府土木局に嘉南平野に同等な灌漑用水工事を希望しました。これを受けて、局長の山形要助が技師の八田與一を桃園から南台湾に派遣しました。

  八田與一が計画したダムは、満水時の貯水量1億5千万トンであり、これは黒部ダムの75%に相当するものでした。また、灌漑面積は15萬hr、給排水路は延べ1万6千km、万里の長城の3倍で、当時日本最大の愛知用水の 13倍にも及ぶ長さでした。さらに給水門、水道橋鉄道橋など、200以上もの構造物を作りました。

          自然放流の水路
  八田與一像とお墓  外代樹が身を投げた放水口      殉工碑
  この中もっとも難しい工事は烏山嶺という山脈を貫いて、ダム湖に曽文渓の水を引くための烏山嶺トンネル工事でした。1920年12月、
トンネル工事で、石油の噴出によるガス爆発事故が起きました。日本人、台湾人あわせて50余名の死者が出ました。その後、僅か3キロ
メートルのトンネル工事に6年間もかかってようやく完成しました。直径8メートル55センチ、毎秒50トンの水を流し込むこの巨大構造物は、
当時最大の東海道線熱海の丹那トンネルよりも15センチ大きい規模でした。


  嘉南大圳の工事が完成したのは、1930年4月でした。1920年9月以来、10年近い年月が流れていました。ダムのお蔭で米は工事前の
6倍に、薩摩芋は2倍に伸びました。地元農民の増収金額は年間2,000万円以上に達し、彼らが負担した事業費2,739万円の返済も容易で
あったと思われます。なお最終的な総督府の補助金は2,674万円に上りました。


  八田與一は工事が終わりに近づいた昭和5年3月、工事期間中に病死や事故死も問わず、作業員や家族も問わず、日本人や台湾人
も問わず、亡くなった134人の名前を区別せず刻んだ「殉工碑」を建てました。こんな所に、桃園大圳の供養塔と同様に、分け隔てのない
仲間意識が伺われています。


  大東亜戦争2年目の1942年5月、八田與一は南方開発派遣要員として、貨客船「大洋丸」でフィリピンに向かいました。5月8日、大洋丸
は五島列島沖を航海中、米軍潜水艦の雷撃を受け、沈没しました。遺体は1ヶ月以上も経った6月13日、遥か離れた山口県萩市沖合の見
島で発見されました。7月16日、総督府葬をもって台湾に永眠しています。


  昭和20年、台北でも空襲がひどくなると、八田夫人の外代樹は子供たちと烏山頭の建設工事で使われていた職員宿舎に疎開し
ました。終戦後2週間ほどした9月1日未明、外代樹は遺書を机の上に残して、黒の喪服に白足袋で、烏山頭ダムの放水口に身を投
げました。


  翌年、嘉南の農民たちは、わざわざ日本の黒御影石を探し出して、日本式のお墓を八田夫妻のために建てました。以後、毎年
八田與一の命日である5月8日に嘉南農田水利会の主催により、墓前での慰霊追悼式が催されています。(続く)


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     2009.06.07 福岡 ガーデンパレス  日華 ( 台 ) 親善友好慰霊訪問団主催  台湾特別講演会
          
               演題: 江見政治と竹東大圳 (中)  
                           柳原 憲一

竹東大圳
  桃園大圳(工事期間1916-24)と嘉南大圳(工事期間1920-30)の工事とほぼ同じ時期に新竹市の東に竹東大圳(工事期間1926-28)という灌漑用水路工事が進められていました。竹東大圳の予算も規模も桃園大圳や嘉南大圳ほど大掛かりではなかったとは言え、その存在自体があまりにも世に知らされていないことに驚かされます。特に当時の日本官、民がどのぐらい関与したかについての資料は実に乏しくて堪りません。

   竹東大圳の水道橋   竹東大圳の一号トンネル
  1919年、新竹電燈株式会社が竹東の軟橋里に軟橋水力發電所を完成しました。これは頭前溪の支流である上坪溪に堰きとめ工事を
行い、 取水口を作って、その落差で水力発電を行う施設でした。1926-28年に軟橋發電所の水を利用するため、地元の有力者である林春秀の提唱により、竹東大圳という全長21キロメートルの用水路が造られたようです。竹東大圳は右図が示すように、軟橋發電所から水を受けた後、合計4.6キロメートルの十三本のトンネルと、六つの水道橋、三つのU字管及び明渠、暗渠等様々な構造物を組み合わせて、竹東の丘陵地帯を流れています。地形上勾配が大きなところは水道橋や階段式のドロップ工法で対応するように工夫されました。

  現在の軟橋發電所は遠隔操作で稼動している無人発電所に改造され、1992年修復作業が完成されました。80年前に建てられた構造も昔のまま利用されています。
  1980年、先端技術メーカーが集中した新竹サイエンスパークの運営が開始しました。大量な工業用水の安定供給を満たすために、急遽、戦前既に計画した宝山ダムを完成させ、竹東大圳に分水ポイントと14号トンネルの工事を加えました。14号トンネルを通って宝山ダムに新竹サイエンスパークの工業用水を提供しています。このお蔭で2006年新竹サイエンスパークの生産高は1兆1,200億台湾元に達しました。これは、同じ年台湾のGNPの1/10に相当する金額でした。

林春秀
  2008年12月25日、竹東大圳竣工80周年並び工事の功労者である林春秀の50周忌のために、竹東鎮二重里林春秀の生家で記念シンポジュウムが開かれました。この記念シンポジュウムに八篇の論文が発表されまして、客家台湾文化学会がこれを論文集として出版しました。記念シンポジュウムの論文集によると:竹東大圳は当時地元の有力者である林春秀の提案により建設されたようです。総督府予算の不足額である受益農家負担分も林氏が肩代わりにして負担し、日本人技師の計画のもと、二年掛かって完成したようです。

  一方、竹東水利組合が所属する新竹農田水利会の公式ページは、竹東大圳の建設について、このように書いています:林春秀は金を出したり、集めたりして、地域の人々の協力のもと、日本人技師を雇って工事を始めました。又、竹東役場の公式ページはこのように書いています:林春秀は頭前溪の水を引き込むための用水路の建設のために、資金を集めました。新竹州の協助を得て、日本人技師を雇って、大正十五年より工事を始めました

  つまり、三者の言い分は若干行き違いがあっても、林春秀は工事の主導権を握り、資金面も相当貢献した点について見解は一致しています。という訳で、嘉南大圳における八田與一の貢献のように、竹東大圳といえば林春秀は最大の功労者であるように認識されています。

  しかし、大正十三年出版の竹東郡誌によると、林春秀は大正十二年(西暦1923年)八月十日に資本金五十万円(実際振り込み額は12萬5千円)の三益株式会社を設立しました。又、三益株式会社の定款によると、この会社の設立目的は土地開発、株、不動産売買、仲介、営利事業の投資、経営などで間違いなく、竹東大圳の工事請負目的に成立されたゼネコンであると思います。更に、台湾の中原大学大学院生胡燕琳の論文によると、竹東水利組合は竹東大圳の建設目的で勧業銀行より43万円の融資を受けたという記事が昭和4年度の「新竹州管内概況及び事務概要」に載っていました。

  ここで、桃園大圳、嘉南大圳、竹東大圳この三つの灌漑用水路をまとめて、比べてみたいと思います。まず、竹東大圳の施工時期は
  三益株式会社の株券 大正十三年出版の竹東郡誌より
桃園大圳竣工後の1926年から1928年の三年間であり、嘉南大圳の工期に平行して施工されました。桃園大圳のように工事費が全額国庫負担
の官設埤圳と違って、竹東大圳は嘉南大圳と同様に公共埤圳に属したため、工事費も嘉南大圳と同様に官民折半が考えられます。このため、事業主である竹東水利組合が勧業銀行より43万円の建設分担金としての融資を受けました。事業主が竹東水利組合である以上、当然のように組合長である竹東郡守は評議会が議決した竹東大圳の建設案を新竹州に提出し、台湾総督府の承認を得て始めて国庫の補助や、銀行の融資を受けることができるようになったと考えられます。

  ここで明らかになったことは、たとえ林春秀が竹東大圳建設の発起人とは言え、
彼が金を出したり、集めたりして出来た資金は直接に寄付金として建設費に投入したわけではなかった。あの資金は竹東大圳建設の請負会社としての三益株式会社を設立するためのものと考えられます。

桃園大圳 竹東大圳 嘉南大圳
工 期  1916-1924 1926―1928 1920―1930
事業形態 官設埤圳 公共埤圳 公共埤圳
発起人 総督府  林春秀 相賀照郷
事業主 総督府
(1937よりに移転)
竹東水利組合 嘉南大圳組合
埤圳管理 桃園大圳水利組合   竹東水利組合 嘉南大圳組合
工事担当業者 澤井組 三益株式会社? 複数の業者
工事責任者 狩野三郎
(総督府の土木技師)
不明 八田與一
(総督府の土木技師)
総事業費 1,250万円 100万円(推定) 5,400万円
分 担 全額国庫 官民折半(推定) 官民折半
事業主融資額 なし  43萬円(勧業銀行) 2739万円(銀行・国庫)
幹線水路 25km 21km
支線 12本   
給排水路 16,000km
トンネル  15km(φ3m) 4.6km(φ2m) 3km(φ8.55m)
ダム貯水量 15,000万トン
灌漑面積 22,000hr  1,200hr 135,000hr
殉職者供養 供養塔 なし 殉工碑
  一方、時代背景、現地の技術力などを考慮すると、このような大規模な公共工事の担当技師は八田與一のようなレベルの人物であり、つまり、総督府土木局より竹東水利組合に転任した者が考えられます。工事担当業者も三益株式会社のような速成型地元業者の単独受注とは考えにくい。又、このような難工事に、犠牲者を一人も出さなかったことはとっても不思議であると思います。もし、そうでなければ、桃園大圳の供養塔や嘉南大圳の殉工碑のような慰霊施設が存在していなかったことも納得できません。(続く)

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     20090607 福岡 ガーデンパレス  日華 ( 台 ) 親善友好慰霊訪問団主催  台湾特別講演会

          
               演題: 江見政治と竹東大圳 (下)  
                           柳原 憲一

江見政治
 台湾のボーイスカウト関係者より結成された郷野保護協会が2008年に現地調査したところ、具体的な人数や会社名は同定できませんでしたが、
当時、日本人技術者集団の存在が確かめられました。麓に残された10×2メートルの
浴槽付き和式浴場の跡も見つかりました。 
 竹東大圳建設の発起人としての林春秀や血を流し、汗を流す地元業者の方々の貢献はともかく、工事責任者であった総督府土木局より転職した技師や、内地組の技術者集団の貢献も忘れられてはいけません。特に、この用水路のために命を捧げた人の有無について、どうしても調べたい気持ちが一杯になりました。残念ながら、現時点には竹東大圳の工事中に犠牲になった人の手がかりは見つかりませんでした。しかし、偶然に竹東大圳のために命を捧げた一人の日本人の存在に気づきました。

 昭和五年の
新竹州商工名鑑に記載されていた新竹
   日本人技術者用の和式浴場の跡 
電燈株式会社軟橋發電所の所長は江見政治でした。江見政治所長の次男江見浄よりこのような情報が寄せられました:

    
新竹の真ん中を流れる、頭前渓の上流・竹東のさらに上流・軟橋の客家部落の唯一の内地人家庭で生れました。ラウペー(親父)は、
   新竹電燈(株)軟橋発電所所長でしたが、我(グァ)5歳の時に殉職、享年56。以後新竹市内~台北と移住。中学は香港へ…そして現地
   で南支派遣軍野戦重砲連隊で兵役。 敗戦後、生れて初めて祖国日本の鹿児島へ第一歩を踏み止め波乱万丈現在に至る。  江見浄より


  今年83歳の江見浄が1926年に竹東の軟橋で生れました。丁度この年、竹東大圳の工事が始まりました。江見家は当時軟橋の唯一の内地人
家庭という事実から、江見政治は軟橋発電所の現地責任者であることは容易に考えられます。
当然ながら、竹東大圳に水源を提供する立場であ
る軟橋発電所の現地責任者は竹東大圳の工事にある程度関わったものと思います。


  又、台湾電力会社のベテラン課長、台灣技術史研究者である林炳炎の調査によると:

   江見政治は軟橋発電所所長在任中の1931年(昭和6年)5月30日、梅雨の豪雨による水害の中、発電所を守るために殉職されました。
  江見政治死後一年余奥さんも亡くなりました。遺された3人の子供はそれぞれの里親のところで育てられたようです。長男の江見誠治も
   新竹電燈の社員であり、1945年(昭和20年)5月5日フィリピン・ルソン島にて戦死、享年36。
   林炳炎より
  つまり江見政治は竹東大圳が竣工して3年経った1931年5月30日に殉職されました。当然、豪雨による水害から軟橋発電所を守ること自体が竹東大圳を守ることに等しかったと思います。

 1944年と1945年の二年間、台湾の水力発電所は米軍の空爆により、3箇所稼動停止になりました。これらの発電所はいずれも戦後に修復されて、再稼動されました。一方、戦局の激変により、大量な技術者が南方戦線に徴兵され、結果的に上流の治山治水も、発電所ダムの安全管理も手薄になって
     軟橋發電所     上坪溪の堰き止め取水口
しまいました。このため、僅か二年間で24箇所の水力発電所の内、11箇所が水害により稼動停止になりました。しかも、水害によって毀された
発電所は取水口を始め、水路全体が土砂に埋ったり、洪水に流されたりして、戦後になっても、ほとんどが復旧不能のまま放棄されました。
 
   
     終戦時台湾の水力発電所概況    台湾電力発展史より
発電所名 河川名 容量Kw 発電機数 設立年月 稼動状況
小粗坑      新店溪 4,400 1899.08
竹子門      荖濃溪本流 19,950 1899.12 水害
后里       大安溪 950 1911.07
土壟湾      荖濃溪 3,100 1917.12 水害
軟橋       上坪溪上坪溪 200 1919.07 水害
北山坑      南港溪 1,800 1921.10
社寮角     大甲溪八宝圳 900 1922.02 水害
天送埤      宜蘭濁水溪 8,600 1922.11 水害
濁水       濁水溪 1,500 1923.02
南庄       中港溪 10 1924.11
大観       濁水溪 100,000 1934.07 空爆
大巴六九    大巴六九溪 35 1936.10
鉅工       大観の余水 43,500 1937.09 空爆
関山     新武呂溪 35 1939.09
清水第一    清水溪 7,000 1939.10
新亀山      南勢溪 13,000 1941.02
溪口       知亜于溪 1,800 1941.04 空爆
清水第二    清水第一の余水 5,000 1941.10 水害
圓山       宜蘭濁水溪 16,300 1941.11 水害
初英       木瓜溪 1,770 1942.02
萬大       濁水溪 15,200 1943.03 水害
銅門       木瓜溪 21,000 1943.04 水害
立霧       立霧溪 32,000 1944.04 水害
大南 大南溪 650 1945.03 水害


  山が高く、川の流れが速い台湾は、この表で示すように、たとえ容量2萬Kw級の銅門発電所、3萬Kw級の立霧発電所も管理体制が手薄
になると、完成一年も経たずに埋没遺跡になってしまいました。よって、豪雨による水害の中に、軟橋発電所そして竹東大圳を守るために殉職
された江見政治所長の勇気とその命の重みが一層感じられて堪りません。


  「一将功成りて万骨枯る」の様な漢民族的価値観と違って、プロジェクトのために、知恵を絞り、汗を流した人々に、末永く感謝の意を忘れ
ず;そして、命を捧げた人々に、地位、身分、出身を問わずに、途切れなく慰霊を行う価値観は、日本人も台湾人も、昔も今も変わることがあり
ません。

  江見政治を始め、命を捧げて新竹の大地に潤いをもたらし、台湾の10%のGNPに貢献した方々に感謝の意を込めて、本日のご報告を終
わらせていただきたいと思います。(終わり)


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   2010.10.11 九州大学医学部百年講堂  西日本台湾学友会主催  市民公開講座:台湾における宣教医療

          演題 3: 仏教慈済慈善事業基金会の四大志業と骨髄バンク設立物語  
                     台湾花蓮 慈済医学センター前病院長 石明煌

                          摘 要 (海 沢洲 訳)
  1966年、證厳法師は30人の家庭主婦を率いて台湾東部の花蓮県に「仏教慈済(Tzu Chi)功徳会」を設立しました。設立当初の主旨は「貧
しき人を助け、苦難を救う」ことで、初年には15世帯、31人の独り住まいの老人や身体障害者や生活困窮者の世話を行いました。

  その後、慈済の救済活動は花蓮の片隅から次第に台湾全土、さらに離島にまで広がりました。1979年には花蓮で「仏教慈済総合病院」建
設に向けて準備委員会を設置し財団法人の申請を行い、翌1980年1月に「財団法人仏教慈済慈善事業基金会」を発足させました。


  1985年以来、各国にいる慈済人により、慈済志業を海外へ広め、現地の愛の心を凝集して、救済活動を推し進めてきています。現在、三十
八カ国に慈済の支部や連絡所が設けられています。1991年バングラデシュの甚大な台風被害を助けるために、慈済は海外救援の仕事に踏み
出した。2005年初めまでには、アフリカ、オセアニア、ヨーロッパ、アジア、アメリカなどの五大洲累計57カ国を援助しました。


  慈済の志業は、慈善、医療、教育、人文の四項目を「四大志業」と称し、其の他に骨髄バンク、環境保護、地域ボランティア、国際救済を加え、
同時にこの八項目が推し進められるので、これを「一歩八脚印」(一歩、歩けば八つの足跡ができる)と称しました。そして、慈済の経費は全て民
間によるもので、ボランティアもまた各分野の主要な従事者です。従って、善財の使用は適切な監督の下で行使されているので、国内外の人々
から信頼と支持を得ています。


  生命の尊重、人間性の肯定に基づいて、慈済は人道精神で援助活動を行い、政治、人種、宗教及び地域を越えて、被災地で必要があれば、
そして慈済の能力が及ぶ限り、全力を尽くして禍の苦しみの最中にいる人々に生きる希望を与えています。凍りつくような北極圏から耐え難いほど
の酷暑の熱帯地区まで、慈済のホランティアは遠路を厭わず、山を越え、海を越え、疫病や戦乱の危険をも顧みず、「どんな困難でも乗り越えられ
る」という信念を抱いて、次から次へと困難な任務を達成してきたのです。そして物資の援助以外に、被災者にお互いに助け合い、愛することを促し、
被災地の自立再建を推し進めています。


  また、人道支援活動の延長線上の事業として1993年に慈済骨髄バンクを設立し、2002年より慈済骨髄幹細胞センターにグレート・アップし
ました。従来の骨髄バンクの機能を引き続き強化した上、特にstem cellsの研究、遺伝子治療、臍帯血バンクなどに力を入れました。2010年ま
で、計33万人以上の提供者のデーターを保有し、骨髄幹細胞提供症例も2,215例に達しています。その内、日本への提供は34例に達しています。


      

      

      

      

      

      

      

      

      
<to 学友園地>

       
       
ソフトバンク・ホークス選手陽耀勲(台湾・台東)栄登西鉄車箱彩絵的投球英姿
<to 学友園地>
   
   
2010.10.11 九州大学医学部百年講堂  西日本台湾学友会主催  市民公開講座:台湾における宣教医療

          演題1: Dr.J.L. Maxwell と新楼病院   芦沢内科クリニック  芦沢茂生
                          摘 要
   第二次アヘン戦争後、1860年に調印された北京条約には「キリスト教布教の自由と宣教師の保護 」、「台湾の台南と淡水を含む10港の
開港」などが明記されました。これを受け、1865年5月、スコットランド・エディンバラ大学医学部出身の29歳の宣教医Dr.James Laidlaw Maxwell
(馬雅各)が英国長老教会の任命を受けて台湾の台南にきました。

  
  最初、台南で民家を借りて「看西街医館・診療所」を開きましたが、競争相手の薬草屋や、民間信仰の関係者から誹謗中傷を受け、診療所
が包囲されたり、投石されたりして、閉院に追い込まれて、高雄に脱出しました。

その後、旗後で民家を借りて、布教・診療所を開設し、翌年は旗後山のふもとに「旗後医館」を建てました。このとき、のち名寄生虫学者にな
った高雄港税関の医官であるPatrick Manson先生も診療協力にきました。

1869年Maxwell先生が台南に戻った後、Patrick Manson先生は旗後医館の院長を兼任し、1871年からは、弟のDavid Manson先生が後を継ぎ
ました。数年後、弟のDavid Manson先生は転勤先の福建で水害に遭難し、彼の後継者であるMyers先生が募金を募って、医学校附設のDavid
Manson Memorial Hospitalを建てました。

Maxwell先生は、旗後を始め、現在の鳳山、東港にも教会を建てました。ある日、鳳山にある埤頭教会が焼かれて、宣教師の高長が逮捕され
ました。これを受けて、イギリスは軍艦を派遣し、台南の門戸である安平砲台を占領しました。追い込まれた台湾府署は賠償金と北京条約の忠実
な履行を約束して、事件が収まりました。

1869年、Maxwell先生は再び台南に戻りました。今度は台南英国領事館の隣、台湾府署の向かい側に医館を設けました。Maxwell先生等の努
力により、西洋医学が次第に台湾で受け入れられました。評判を聞きつけ、南部の屏東、高雄、台南、嘉義だけでなく、中部の彰化、台中、南投か
ら受診する患者もいました。

1990年、Maxwell先生の後任が大東門の近くにベット数70床、手動式エレベータ、レントゲン設備付きの当時台湾最大規模の「新楼医館」が完成
させました。翌年の1901年、Maxwell先生の二男Maxwell二世が院長に就任、看護師資格を持つ夫人も助産婦訓練所、看護婦訓練所を開設しました。


      

      

      

      

      

      

      

      
<to 学友園地>

        
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博多っ子の元気通信:日本と台湾をつなぐ-台湾先住民族コンサート ...

2009105 ... このコンサートは福岡在住の台湾人の留学生OBで組織されている西日本台湾学友会が主催
するもので、台湾先住民族の音楽コンサートととしては西日本地区では初めてだそうです 【歓喜と感動の中に】 ...

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“中庸”は健康のみち
                   元山医院 元山 福仁 

“中庸”とは、不偏不倚過不及のことです。(即ち“バランスシストの均衡”の事)

現在の生活は昔にくらべて大分変わっています。起居飲食習慣(日常生活・食習慣)の変化により、自律神経不均衡を引き起こ
し、様々な身体変化を生じています。我々は生きていく上でストレスのない生活はありませんが、多くの人は多少のストレスを感じ
ながら、健康な生活を営んでいます。その理由は我々がきちんとした回復機能を持っているからです。機能的不快感の症状など現れ
ても、体力(エネルギー)のある人であれば、病気にはなりません。それは、それを適応対処するだけの十分なエネルギーがある
からです。その適応エネルギーを維持(保持)する為には起居飲食の規則習慣が大事です。
 

人間が生まれた時の体温は37.2~3℃と少し高めです。なぜこんな現象が必要でしょうか。 

新生児は生まれるまでは安全な母体の子宮中にいます。しかし出産後は外敵に対して抵抗力が弱いので、母乳(初乳)の抗体をもら
い、同時に白血球(特にリンパ球)を増やして抵抗力を増やして自分をまもるのです。4~5ヶ月を経ると自分自身である程度抵抗
力を作りますから体温は徐々に下がり白血球も減少します。

 体温が上がれば白血球(特にリンパ球)は増えます。風邪を引いたときの熱が出るのはこの原理です。風邪を引いたときの熱は良い
熱なのです。ですから微熱で解熱剤を使うのは本末転倒です。

 体温が1℃下がると、30%免疫が低下し、逆に体温が1℃上がると免疫力は50%~100%以上アップするものです。従ってバランスシ
スト不均衡により機能的な不快感症状は一過性的なものなのです。不適切な治療(対症療法)はかえって症状が悪化し器質的障害に
進展します。

 体温が上がると、白血球中の顆粒球率下がり、リンパ球率が上がります。体温が下がると、逆の減少が起こります。実は顆粒球
は細菌に、リンパ球はウイルスに対してと、役割を分担しています。例えば、冷え性の女性は子宮頚部痛の発症率が高いです。疫
学的調査では、人乳頭種ウイルス(HPV)の関与が指定されています。体が冷えるとリンパ球が減ってきます。するとウィルスに
対して免疫力が減っていますから子宮頚部癌の羅患率が高くなるわけです。

 また最近の子供達や若年者は冷たい飲み物を飲み過ぎたり、夜行性の生活のため、バランスシスト不均衡をおこし、体温が下がっ
てしまい様々な身体的症状を生じています。

例えば、皮膚のかゆみ(アトピー性皮膚炎)鼻水くしゃみ(アレルギー性鼻炎)咳(喘息)めまい(立ちくらみ)過敏性腸症(便秘・
下痢・腹痛)キレやすい等の症状 実はこれには体が回復しようとする一過性的なものなのです。
 

対症療法は見かけ良くなったように見えますが、かえってザ漸々(やくやく)悪化してしまうのです。根本治療はやはり、冷えを
改善する(元に戻す)しかないと思います。

体には様々な器官がありそれぞれの機能があって、総合的に働いて生命を維持し、正常な生活を営んでいます。それを調節するの
が自律神経です。バランスシスト不均衡は自立神経の機能の乱れを引き起こします。現代医学には科学的統計学エンピランスの考え
方が治療方針を決めます。ハードウェアーの面は素晴らしく、日進月歩に発展しています。しかし、残念ながらソフトウェアーのほ
うが東洋医学の考え方に負けています。

僕自身は東洋医学を中心に治療していますが、その治療において経絡のバランスが一番優先です。昨今日本の治療状況は漢方中心
で治療される先生が増えてきました。先生たちは一生懸命勉強し、良薬を処方し、一定の効果は見られますが、満足的効果がなかな
か得られないのです。なぜならば、経絡(血の道)のバランスが整備できていないと、良い成果は得られないのです。たとえば道路
のインフラ整備がなければ高級車でも道は走れないのと同じです。

実は昔、中国の医学は 経絡→気力・推拿(すいな)→薬膳→漢方薬 の順でした。すなわち、現在の日本の治療状況の逆だった
のです。現在は国民意識も薬に頼ってしまい、大事な起居飲食の規則習慣を粗末にしてしまいがちなのです。
 

最近若年者のうつ患者が増えています。心配です。何種類もの抗うつ薬を服用しています。はたしてこれで良いのでしょうか?

今まで診てきた多くのうつ患者は、やはり冷え症でした。人間の生命活動・生命維持のために特に必要な酵素・ホルモンは細胞内
で作られています。多くのうつ病患者はその大切な酵素・ホルモンが活性化するのに必要な体温が十分活動できるまで上れず、活動
(活性)が悪いのです。SSRIやSNRIの抗うつ薬は、服用すれば、暫くは効果があるのですが反面、長期投与により様々な副作用が起
こっています。薬によるセロトニン分泌の正常化が一番大事なのでしょうか?
 

失意のとき(病気・高度の失敗・家族の悔み・等)昔、日本人はよくお遍路に出かけました。「神様・仏様にお願いしないと」と
いう気持ちがありました。2カ月もすればたいていの人は元気になります。お遍路に行った人は、神様への願いが叶ったと思い込ん
でいると思いますが、実は歩行により前頭前葉(Area-10)からたくさんのアセチルコリンが分泌します。(アセチルコリンは副交感
神経の産物)間接的にセロトニン正常分泌に関与しているのだと私は思います。抗うつ薬服用よりも毎日4~5Km歩行するほうがベター
だと思います。

健康を維持するために中庸之道(バランスシストの均衡)が大切です。

<to 学友園地>

西日本台湾学友会  連絡我們: 〒812-0036 福岡市博多区上呉服町5-164  E-mail: yh525@csf.ne.jp