第64章 仁徳天皇記(5)
天皇の求婚を断り 天皇の弟速総別 はやぶさたけ の妻になった女鳥の王めどりのみこ がある日 歌を詠んだ。
ー雲雀ひばり さえ 天に翔ける 尚 高行くや速総別 はやぶさたけ や 雀さざき 取らねばー
意味: 雲雀ヒバリ でさえ 天空高く飛ぶのです 隼はやぶさ の名をもつ速総別の命よ 雀さざき など 取るのは簡単なこと。
仁徳天皇の名は 大雀の命おおさざきのみこと 。歌にある「雀さざき 」は 天皇を指した言葉。
そして 雀さざき という鳥は 雀すずめ よりも小さい鳥です。 一方 隼はやぶさ は鳥の頂点に立つ鳥です。
隼はやぶさ の名・速総別はやぶさたけ の貴方は 雀さざき の小鳥なんぞ 簡単に 仕留めることが出来ましょう…
という 非常に攻撃的な意味合いの歌なのだが 実際のところは
妻の女鳥の王が 兄(天皇)に頭の上がらない夫を 軽く皮肉って夫に活かつ を入れた歌なのです。
女鳥の王が夫に 兄であっても 言うことはハッキリ言いなさいと 気合いを入れただけなのでした。
彼らは 異母であっても あくまでも 兄弟なのですから そんな程度の気持ちで詠んだ歌なのでした。
ところが 言葉はひとり歩きするものです。
皮肉なことに この歌で気合が入ったのは 夫・速総別はやぶさたけ の命ではなく 兄・天皇でした。
仁徳天皇はこの歌を聞いて 二人は謀反むほん を起したと勘違いして 軍隊を出動させてしまったのです。
言葉は十分気をつけましょう!たった一言が 心を傷つけることもあるし たった一言で心が暖めるのです。
誰にでも ー間違い 勘違い 思い違い 聞き違い はき違い 寝違い すれ違い 行き違いなど……あるものですー
シドニーは言う 「女のイイエは否定ではない」と 女性への言葉使いには とくに注意………ボサツマン
☆ 15代/応神天皇おうじんてんのう は 子だくさんで 合わせて26柱の御子がいました。
兄・大雀の命(仁徳天皇)と 弟・速総別の命は 母違いの兄弟なのです。
軽い気持ちで詠んだ女鳥の王の歌に 仁徳天皇が立腹し 弟を攻撃するよう 最強軍隊に指令をだした。
しかし 弟・速総別の命は そんなことになっているとは露しらず ただ ノホホンと暮らしていました。
仁徳天皇にとっては 女鳥の王に結婚を断られて 残念な結果で終わりましたが
また ほかの美しい女性を探せばいいことなので 実の弟を怨んではおりませんでした。
まして 仁徳天皇は そんな狭い気持ちの天皇ではありません。
それを裏づける理由が 過去に遡さかのぼ り 王位継承おういけいしょう にありました。
ある時 父・15代/応神天皇は 次期天皇に 末弟・和気郎子わきいらっこ の命を指名しました。
大雀の命は 父の命令を素直に 聞いていたのだが その後 父が亡くなった後
長男・大山守の命は 和気郎子の命を 抹殺まっさつ しようと企てた。
その時 大雀の命は 兄の長男・大山守の命に 思い留まるように説得したのでした。
大雀の命は 父の遺言を一徹に守り 兄・大山守の命の計画に 猛反対したのでした。
結果は 和気郎子の命が勝ち 大山守の命は 死んでしまったのです。
その後 大雀の命は和気郎子の命から 次期天皇の座を譲られたが 断わりつづけていました。
なぜなら 父の天皇が遺言で 次期天皇になる人間を決めていたからです。 「王位継承指名」・第55章・
その後 和気郎子の命が 夭逝ようせい した為 やむをえず 大雀の命が16代天皇に即位したのです。
この経緯から 仁徳天皇(大雀の命)は 人を疑ってすぐ戦いをしかける そんな乱暴な人ではありません。
”人は 1番先に聞いた情報を信じ込む” …… ボサツマンの格言
宮中に飛び込んできた 危機感溢れる情報を 天皇もすぐ信じ込んだのです。天皇も人間です。
心が平静な時ならば 落ちついて考えれば 理解できることなのだが この時の天皇は 失恋直後でした。
たかが 夫の尻を叩いただけの歌なのだが 失恋直後の天皇は 謀反が起きたと早合点はやがてん したのです。
どちらに非があるといえば やはり 女鳥の王になります。 人間 言葉には注意しましょう‥‥‥ボサツマン
しかし 元々の原因といえば 弟・速総別の命が 天皇が希望する結婚相手と 自分が結婚したことです。
加えて 弟が兄の天皇に連絡や報告をしなかったことが 事件を大きく発展させてしまったです。
どんな小さな事でも 連絡・報告は大事です……ボサツマン
最強の軍隊(天皇軍)に包囲された 速総別の命と女鳥の王は ただ 逃げるしかありません。
手に手をとって逃げ周り 倉橋山(倉椅山くらはしやま 桜井市)に登り 辞世の歌を詠んだ
ー橋立の倉橋山を さがしみと岩懸きかねて 我が手取らすも梯立の倉橋山 嶮さが しけど妹いも と登れば嶮さが しくもあらずー
険しい倉橋山くらはしやま を無事に通過して 宇陀の蘇邇そに (奈良県宇陀郡)まで 逃げ延びて来た時
ついに 軍隊に追いつかれて 二人は殺されてしまった。
その時の天皇軍の総大将・山部の大楯の連おおたてのむらじ は 女鳥の王の手に巻かれた”玉の腕環”を
その手頸てくび から剥ぎ取って 自分の妻に持って帰り与えました。 これは やってはいけない行為です。
この残忍で悪辣あくらつ な 大楯の連の行為を耳にした皇后・石之日売いわのひめ は 大楯の連を呼び寄せ
ー女鳥の王も 速総別の命も 無礼を行ったので 天皇は二人を退けた。 これは、正当な行為・当然なことです。
しかし お前は 自分の主君にあたる女鳥の手に巻かれた”玉の腕環”を しかも 肌の温もりがあるうちに 剥ぎ取り
自分の妻に与えた。 これは 許されるものではないーと キツク申して 大楯の連を死刑に処した。
その他の出来ごと
◎ 雁・かり・の産卵
ある時 天皇は 日女島ひめしま (淀川 姫島)で酒宴を催していた。その船に1羽の雁が舞い降り卵を産んだ。
雁という鳥は 越冬で飛来するが 日本で産卵はしないのです。
その時の大臣 武内の宿禰たけうちのすくね はー汝が御子や つひに治らむと雁は卵生むらし めでたしやーと祝歌を詠んだ。
意味: 雁が卵を産んだのは あなたさまのご子孫が ずっとこの国を治める 瑞兆ずいちょう でしょう メデタイことです。
この歌は 預言の歌とよばれ 仁徳天皇の子孫の皇位継承は これからも永遠に続くであろうという意味の歌。
◎ 船/枯野 かれの
枯野かれの の地に 1本の高くそびえ立つ木がありました。
その木の影は 朝日が射すと淡路島まで伸び 夕日が当たると 遠く高安山(大阪府)まで伸びるのでした。
ある時 この木を切って船を作ったところ たいそう船足が速い良い船が出来上がりました。
そこで 仁徳天皇は この船の名を「枯野かれの」と名づけた。
この船は 天皇の飲む水 「大御水 おおみすい」を運ぶ船として おおいに活躍しました。
毎日 朝な夕なに 淡路島と難波なにわ を往復して 淡路島の清水(天皇の飲み水)を運びつづけました。
後日 老朽化したこの船をマキとして燃やして 海水を焚た き塩を作ったところ 良質な”塩”が生成された。
また この船の古材で作った琴の音は 七つの里にまで響き渡るほどの音色でした。
◎ 仁徳天皇崩御 「仁徳天皇陵」:「仁徳天皇陵墓」
427年/8月15日 83歳にて崩御された。 御墓は 毛受 もず (大阪府堺市・大仙町)の耳原 にはら 。 合掌
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