第53章 太王の命 皇后軍の勝利
双方互角の戦闘が続くなか 皇后・太王軍の将軍 建振熊の命は 全面降伏すると見せかけ
自らの弓の弦つる をはずしー神功皇后は死亡したので わが軍は戦いを放棄して 即 撤退するーと 敵軍に伝令した。
太王の命の嘘の葬儀を 信じ込んでいた伊佐比の宿禰いさひのすくね は 伝令の文書を見て ニンマリと笑った。
「ハッハハハ よしよし これで 天皇は我が殿・忍熊の王おしくまのみこ に決まった」と 高笑い。
皇后軍の将軍 建振熊の命の演技力は見事なものです。
ものの見事に 敵軍の大将・伊佐比の宿禰を 信じ込ますことができました。
忍熊の王おしくまのみこ が 神功皇后軍に戦いを挑んだ この戦いは 元々 仲間同士の出世争いです。
派閥争い・出世合戦なのですから 敵を徹底的に潰す必要はないのです。 「出世神社」・愛宕神社・
殺すか・殺されるか・生きるか・死ぬか という切実な戦いではありません。
皇后が死んだならば 相手側が降伏したならば 戦う意味は そこで 消滅するのです。
皇后の子 「太王の命」は死んだのだし 今 神功皇后も死んだとなれば
必然として 忍熊の王 おしくまのみこ が 次期天皇に即位できるのです。
今 戦わずに勝利した 敵軍の将軍・伊佐比の宿禰は 次に 大事なのは 自分のポスト(地位)のことです。
人間は誰しも 自分が1番可愛いのです。 自分の出世を気するのは 当然のことです。
伊佐比の宿禰は 伝令の文書を見た瞬間 自分の出世のことが 脳裏をかすめた。
自分の出世に 心が執着してしまったので 相手の真意を見抜けなかったのです。
世尊(釈尊)は説く 執着することは「煩悩」ぼんのう である。
この戦いは 仲間同士の派閥・出世争いが根本にあるのだから 自分が死んでは 何の意味もありません。
皇后・息長帯日売が死亡したなら 目的が達成されたも同然です。
次に大事なのは 早く戦いを終了して 出世の道を造らねばなりません。ここが 一番の目的なのです。
敵軍の大将・伊佐比の宿禰いさひのすくね は 棚ぼたの勝利と早合点してしまった。
棚ぼたの勝利に喜ぶ 敵軍・伊佐比の宿禰は 一変に心の緊張が溶けて 油断が生じた。
「敵の皇后軍は 降伏し撤退した わが軍の勝利である」と いち早く戦いの終結を宣言してしまった。
兵器類は全部片づけ 弓もすべて納めるように 兵隊全員に命令した。
忍熊の王の兵器部隊は 勝利に浮かれ帰路の準備を行い 弓隊は 弦をすべて はずしてしまった。
この敵の動きを確認した 皇后軍の大将・建振熊 たけふるくま の命は
部下全員の頭髪に隠していた弦を 弓に張り直させ 「いざ!出撃」と 怒涛どとう の攻撃を仕掛けた。
驚いたのは 忍熊の王の軍 大将・伊佐比の宿禰 いさひのすくね 。
「しまった!はめられた クソ」でも 武器はすべて片づけてしまった後。 逃げるしかありません。
伊佐比の宿禰の兵隊は 逢坂山おうさかやま まで逃げたが 建振熊の命の軍隊に追いつかれ 壊滅してしまった。
忍熊の王おしくまのみこ と 大将・伊佐比の宿禰 いさひのすくね の二人は 必死の形相で逃げまわり
なんとか 琵琶湖の湖畔まで辿りついたが その先は琵琶湖の湖面です。
追い詰められた二人は 琵琶湖に船を浮かべて 辞世じせい の句を詠んで入水した。
「いざ吾君あぎ 振熊が痛手負はずは 鳰鳥におどり の 淡水あわみ の海に 潜かづ きせなわ」
意味:「わが将軍よ 振熊ふるくま などに 痛手を負わされるくらいならば 鳰鳥におどり のように 近江の海に 潜りましょう」
戦いの結末は 「うけい狩り」の占いの結果通り 皇后軍の勝利となった。 「52章/うけい狩り」
勝利軍・太王 おおみこ と武内の宿禰 たけうちのすくね は 戦いの終結の儀式として
琵琶湖の水で 禊の祓 みそぎのはらえ を 厳おごそ かに 取り行ないました。
その後 太王の命は若狭の国を巡り 越前の国の敦賀するが に 仮宮を建てお住まいになりました。
ある晩 ー伊奢沙和気の神 いざさわけのかみ ーが 武内の宿禰 たけのうちのすくね の夢に顕われて
「我が名を御子に差し上げ 御子の名を わが名にしたいのだが そちはいかがか?」と 申してきました。
武内の宿禰は 夢の中で 「恐れ多くございます。神の仰せのままにいたします」と 答えた。
神はつづけて 「そちは 素直な良き人物じゃ 明日の朝浜に行くが良い 御礼を与えるぞよ」。
翌朝 浜に行ってみると 沢山の入鹿 イルカ や魚が 浜一面に 打ち上げられていたのです。
太王の命 おおみこのみこと は さっそく
「神よ 私に たくさんの 食糧をお与えくださり ありがとうございます」と お礼の言葉を 唱えました。
太王の命は その神の名を 御食つ大神 みけつおおかみ と 名づけられた。
その後 「御食つ大神」は 「気比の大神 けひのおおかみ 」と 申しあげるようになりました。
禊の祓を済ませた太王 おおみこ と武内の宿禰 たけうちのすくね は 大和の国へ戻り帰ってきました。
先に 大和の宮へ着いて待っていた 太王の母・皇后・息長帯日売 おきながたらしひめ は
「待酒」まちざけ を用意して 太王の命と武内の宿禰に振る舞い 戦いの労をねぎらいました。
皇后は 酒の席で 歌を詠んだ
「この御酒は 我が御酒みき ならず 酒の神 常世よこよ に坐いま す 石立たす 少名彦神 すくなひこなのかみ の
神寿ほ き 寿ほ き狂し 豊寿とよほ き 寿ほ きもとほし まつりこし 御酒みき ぞ あさず飲せ ささ」
意味:「この御酒みき は 私の造った御酒にあらず 霊妙れいみょう な神の酒です。常世とこよ におわす少名彦神すくなひこなのかみ が
神寿(ほ)ぎして 祝(ほ)ぎ狂い 豊寿(とよほぎ)して 踊りまわり 醸造かもしつくり され 献上された 由緒ある御酒おみき ですぞ
残すことなく 召し上がれ さあ さあ」 「少名彦神」 すくなひこなのかみ
武内の宿禰が 返し歌を詠む
「この御酒みき を 醸かも みけむ人は その鼓つつみ 臼に立てて 歌ひつつ 醸かも みけれかも
舞ひつつ 醸みけれかも この御酒の 御酒の あやに 甚じん 楽し ささ」
意味:
「この御酒みき を 醸かも した人は その鼓つづみ を 臼うす のように立てて 歌って 醸かも したせいか 舞って 醸かも したせいか
この御酒は この御酒は 何とも言葉で表せないくらい 楽しいとても楽しい さあさあ 飲もう 飲もう」
この二つの歌は 「酒楽の歌」さかくらのうた と呼ばれる。 酒楽さかくら は 酒坐さけくら の意味。
坐って飲む宴会の席で 歌で酒を勧めた人 酒を勧められた人は 歌で感謝の気持ちを返した時代でした。
崩御 仲哀天皇は 御年/52歳で 崩御された。 御陵墓 恵賀えが の長江ながえ (大阪府藤井寺) 合掌
神宮皇后は 100歳まで生きられました。 御陵墓 狭城さき の楯列たたなみ の陵みささぎ 。 合掌
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