観普賢菩薩行法経 (2)
世尊
「普賢菩薩の出身は 東方の浄妙国土じょうみょうこくど です。前の「普賢菩薩勧発品」でも説きました。
阿難よ 真理の法ー無上の大乗の教えーを習得しゅうとく して 法の実行を願う衆生や
仏の境界を強く求め 自ら修行に励む衆生は 普賢菩薩の行いを学ぶと良いのです。
これらの衆生は 「普賢菩薩の四つの行」
普賢菩薩の色身しきしん を見んと楽ねが い 多宝仏たほうぶつ を見奉らんと楽ねが い 大乗の教えを楽ねが い
釈迦牟尼仏 及びその分身を見奉らんと楽ねが う 成仏の確信を願う衆生なのです。
つまり 仏の世界の存在を心から信じて 心から 久遠実成くおんじつじょう の本仏ほんぶつ を自覚したい…
諸仏の救いを自覚したい… 清浄の心の自覚したい…と願う善男子ぜんなんし 善女人ぜんにょにん なのです。
善男子・善女人たちは まづ 心の持ち方や考え方 つまり 観法かんぽう を修得し実行することです。
観法を修得した衆生は 眼まなこ は障礙しょうげー眼の曇りが除去ーされ 清浄の身と心を得るのです。
すると この衆生は 自分自身の清浄な心の徳が 日常の行動と言葉に 自然と現われ出るのです。
自分の内面の仏性が 現象界の良い出来事となって現われる様を 自分の心で感じることができます。
又 初心レベルの衆生でも つまり 精神統一して実相に直入する三昧さんまい の境地まで至らない衆生でも
日々 仏の教えを真剣に受持し読誦どくじゅ していくと 仏の教えを実行しようと思う心がどんどん高まるので
普賢菩薩の行に近づいていくことが 可能になってきます。
その衆生が 常に 大乗の教えを心に植えつづけて 三×七=21日間の修行を終えたならば
もう まもなく 普賢菩薩と一体と成る(共にいる)という自覚を得ることでしょう。
しかし 罪業の深い衆生の場合は 七十七日の修行を経た後に その自覚を得ることでしょう。
さらに もっと罪業が深い衆生の場合は 一度生まれ変わってから その自覚を得ることでしょう。
又 もっと もっと 罪業の深い衆生の場合は 何回も生死しょうじ を繰り返した後に 自覚を得ることでしょう。
このように 一様ではない理由は 衆生のもつ業ごう や報ほう が それぞれ皆 違うからです。
だが 大乗の教えを受持し読誦していく衆生は皆 確実に普賢菩薩の行の境地に 近づいていくのです」。
世尊 つづけて
「経文では 普賢菩薩の具える徳と そのはたらきを 象徴的で美しい文章で表現しておりますので
その おのおのの言葉に含まれる意味を 説明しましょう。
★ 普賢菩薩は 身量無辺しんりょうむへん 音声無辺おんじょうむへん 色像無辺しきぞうむへん とは
普賢菩薩の徳と 力量が 測り知れなく大きい という意味です。
それほど とてつもなく大きな存在の普賢菩薩ですが 娑婆世界の衆生を教え導くときは
衆生が自分の大きさと 普賢菩薩の大きさが あまりにも 大きくかけ離れていると
衆生は 自分との大きさの違いに怯おび え自分の小ささを嘆き 普賢菩薩に近親感を感じないのです。
つまり 自分にはとうてい無理なことだと思ってしまう結果 仏の修行を諦めやすいのです。
こういう衆生の気持ちを考慮して普賢菩薩は 衆生と同じような相そう (姿)を顕わして出現するのです。
これが 前にも説きました「半歩主義」なのです。普賢菩薩も 半歩主義の実行者なのです。
★ 普賢菩薩は 娑婆世界の衆生の三障さんしょう をとり除き…の意味は
普賢菩薩は 衆生の三障(貪とん瞋じん癡ち)の三つを取り除くことからはじめる という意味です。
三つの障り(貪 瞋 癡)が重い娑婆の衆生に対し 普賢菩薩はまづ 衆生の身近なところから指導して
衆生の成長の度合をよく観察して それから 衆生に合った導きを実行していく…という意味なのです。
普賢菩薩が法を説くときは 実行力を象徴する清浄無垢しょうじょうむく のー白象びゃくぞうーに乗って出現いたします。
六牙の白象びゃくぞう の六牙ろくげ とは 「六波羅密」を示唆しています。 「在家五戒の教え」:「十悪業」
七支しちし とは 七戒(不殺生戒 不偸盗戒 不邪淫戒 不妄語戒 不悪口 不綺語 不両舌)を示唆しているので
白象びゃくぞう が地を歩くときは 七つの足で歩くという意味になります」。 (3)へ