観普賢菩薩行法経 (9)
世尊
「それでも その衆生は心の奥底からは 満足できていません。 なぜならば 衆生の目には
仏の宝樹ほうじゅ や宝座ほうざ は見えるのだが まだ 諸仏のお姿が ハッキリ見えていないからです。
前には確かに 仏を見奉っていたのに 今は諸仏の姿が見えないのです。
矛盾している話に聞こえるでしょうが まったく 矛盾していないのです。
まだ 菩薩の境界きょうがい に達していない衆生は 一刻ひとたび は 仏と共にある自覚を得ても
日常の快楽などに心が奪われると せっかく得たその自覚が またもや 瞬時にして消え失せるのです。
こういう衆生は 即に
ー仏を身失ったことは 自分が足りないのである 申しわけないーと懺悔すれば
忽たちまち その一つ一つの宝座の上に 輝く仏を、 また再び 見ることができます。
再び 諸仏を見奉った衆生の心は深く感動して 復また 一心に 大乗の教えを読誦し法を実行するのです。
なぜなら このように 諸仏を見奉って深く感動した衆生は
大乗の教え(法)を 一心に読誦し実行することの重要性を 自分の心に鮮明に自覚したからなのです。
つまり 諸仏現前三昧を得た衆生なのです。 だが ここで けっして 増上慢 ぞうじょうまん にならず
日々 怠ることなく いっそう教えを読誦し 法を実行する必要があるのです。
なぜなら 衆生の日常生活ではー五欲の煩悩ーが 衆生の心に次から次へと 攻め込んでくるからです。
ボケーとして気を抜くと すぐに心は曇って穢 けが れてしまい ついに 仏を見失ってしまうのです。
だから 復ふたた び懺悔して「六根清浄」を保ち「六煩悩」を断ち切ることが 非常に大事なのです」。
このようにして 再び 大乗の教えを読誦し実行していくと 亦また 再び
ー善哉・善哉 大乗の教えによって 諸仏のみ心に通かよ うことができたぞーと 心に自覚の声が響き渡ります。
それでも 衆生の心は満足することはありません。 その理由はどういうことなのか?
その衆生が まだ 釈迦牟尼仏とその分身の諸仏 及び 真理を証明する仏/多宝仏塔たほうぶっとう を
完全に見奉ることができていないからです。 これが 衆生の心が完全に満足しきれない理由です。
「多宝如来」:「多宝如来の目的」:「多宝如来と七宝塔」
つまり 仏の”み心”と通い合う自分である という自覚は得ていても
ーなぜ 仏がこの世に出られて衆生のために法を説くのかーズバリ仏の真実の心の理由が
ストンと胸に落ちきれていない 何となく不十分な 未消化の感じが残っている衆生なのです。
では こういう衆生は どうすると良いのかについて 次に話しましょう」。
世尊 オイラも 早く ストンと胸に落ちきりたいです……ボサツマン (10)へ