観普賢菩薩行法経 (20)
世尊
「諸仏は 肉眼にくげん 天眼てんげん 慧眼えげん 法眼ほうげん 仏眼ぶつげん の「五つの眼まなこ」を具えています。
諸仏は 長い修行を耐えて 大乗の法の真髄を会得えとく した結果 仏の五眼ごげん を具足したのです。
諸仏がすべてのものの実相じっそう を見通すことができるのは 仏の眼まなこ を具えているからなのです。
ですから 諸仏の教えを説いている大乗の経典も 仏の眼まなこ であるのです。
つまり 仏の滅後に 衆生が大乗の経典を読誦どくじゅ すると 自分の悪行の懺悔できるのです。
大乗の経典を読誦する衆生は その大乗の教えによって 仏の「法身/報身/応身」を 知るのです。
仏教の大眼目だいがんもく である大乗の経典は 衆生を涅槃の世界(真の魂の安らぎの世界)へ導きます。
その涅槃の世界に常住する仏とは 六道の世界の苦悩する生命へ 福を与える存在なので
六道の世界のあらゆる生命から 最も感謝されているのです。
大乗の教えを読誦する衆生は 仏の功徳を受け 永久に諸々の悪心から離れることができるのです。
このことは 真実なのです。
悪心・悪行あくしんあくぎょう を 消滅し尽くす眼まなこ の懺悔さんげ の根本は
心の迷いと過去世からの業障ごうしょう により 自分のものの見方が誤っていると 気がついた衆生が
一心に大乗の教えを読誦し 一切衆生を救う仏の”御心”みこころ に叶うことを 念じることです。
また とくに 乱れた心でものを聞いて
人間関係に不和が生じ・互いに悪感情を生み出し・その悪感情がまた次の悪感情を生み出し
双方で恨うら みや妬ねた みの応酬おうしゅう をし合って 深い悩みに苦労している衆生こそ
一心に大乗の教えを読誦し すべての人は平等に仏性をもっていることを 深く思うことが必要なのです。
一切平等という仏心ぶっしん を衆生が悟るならば すべてのものごとが 正しく耳に聞こえてくるようになります。
整ととの つた心でものを聞く衆生には、現実界での人間関係の不和などは 生じません。
これが 耳みみ の懺悔さんげ になるのです。
また 衆生の心が諸々の快楽に執着しゅうちゃく するから 迷い(塵じん)が生じてくるのです。
染せん に随したが う 衆生の心に 様々な邪よこしな な感情(触そく)が起きてくるのです。
そのときは 大乗経だいじょうきょう を読誦し 法の如実際ほうのにょじっさい つまり
仏の究極の悟りである 諸法の実相しょほうのじっそう を観ずれば 心の悪業あくぎょう がすべて消滅するのです。
すると その衆生の心は 悪業を再び生じることはありません。
また 舌(口ことば)は 五種の不善業ふぜんごう を 起こすもとであります。
常に 正しい言葉で話したいと願う衆生は いつも心に”人のため”を念じることが大切です。
そして 世の中の真実の道理どうり を弁わきま えて 万人ばんにん に具わっている仏性ぶっしょう つまり
差別や変化を離れた真の相(寂)を見つめ 人を分けへだてして見る小さな心を 捨てるのです。
これが 舌の悪業あくごう を除く 舌した の懺悔さんげ であります。
心は 枝から枝へ飛びうつる猿のように しばしも じっとしておりません。
心に起きた悪を押さえて 心を正しい道に引き戻そうと願う衆生は
大乗の教えを懸命に読誦どくじゅ し 大覚だいかく ー天地万物てんちばんぶつ を貫く真理ーを悟り
無畏むい の仏の相すがた ーなにものにも動かされることのない相ーを 常に心に浮かべることです」。 (21)へ