如来寿量品 (10)
経文: 『諸善男子 於是中間 我説然燈仏等 又復言語 入於涅槃 方便分別‥』 ★9「ここの経文」
「諸々の善男子ぜんなんし 是この の中間ちゅうげん に於いて 我 然燈仏等ねんとうぶっとう と説き
亦復またまた 我われ 涅槃ねはん に入ると言いき 是かく の如きは 皆 方便を以て分別ふんべつ せしなり。
諸々もろもろ の善男子ぜんなんし 若もし 衆生ありて 我の所に 来至らいし するには
我 仏眼ぶつげん を以て その信等の諸根しんとうのしょこん の利鈍りどん を感じて
度ど すべき所に随したが いて 処処しょしょ に 自らの名字みょうじ の不同 年紀ねんき の大小を説き
亦復またまた 現じて 当まさに 涅槃ねはん に入るべしと言い 又 種々しゅじゅ の方便ほうべん を以て
微妙みみょう の法を説いて 能よ く衆生に 歓喜の心かんきのこころ を 発おこ さしめる」
世尊
「仏の道を志す衆生たちよ 私(世尊)は 無限の過去から 無限の未来までずっと 生き通しなのです。
その間においては たとえば 然燈仏ねんとうぶつ という仏として この世に出現していると説きました。
また 仏がこの世から去ることもあると たびたび 説いてきました。
これらのことは すべて 衆生の皆さんを 仏の道へ導くための「方便」ほうべん として 説いてきたことです。
そこで 方便ほうべん について 例をもって 詳しく説明しましょう。
仏の道を求める衆生が 私のもとに やってきました。
その時 私は仏眼ぶつげん をもって その衆生の信根しんこん と諸根しょこん の程度を見分けるのです。
なぜなら その衆生たちは皆 一様ではなく 各々おのおの 違うのです。
その各々おのおの 違う衆生が 皆 それぞれ 悟りを開くためには 何を教え 何を説くべきか
仏の教えの入り口はどこにするか 衆生に教える最高の手段とは何か などを 最初に考えるのです。
次に 各々の衆生の宿世の縁に応じた 様々なー仏の名ーをあげ その仏の寿命を 説き聞かせます。
次に その仏は寿命が1度尽きても 再度 この世に現われて 一通りの教えを説くことを 説き聞かせます。
そして 再度 出現されたその仏も 又 やがて この世から滅度するであろうことも 説き聞かせます。
また 微妙な”生命の法則”を 衆生の心に浸み込むことを願って 衆生が理解しやすいように
相手に応じたいろいろな説き方をして 衆生に生きる喜びを起こさせるのです。
故に 我 仏眼ぶつげん を以て その信等の諸根の利鈍りどん を感じて 度ど すべき所に随って‥の意味は
仏眼ぶつげん で衆生の五根の程度を見究きわ めたのち その衆生に適した教えを説くということです。
つまり 仏は その衆生が理解できるところから 解りやすく教える…という意味なのです。 「六根とは」
こういうことで 衆生の程度を考慮して教えを説く理由から 仏は慈悲の方便を用いるのです。
仏のチャンネル
例えば 本仏は テレビ局のスタジオで カメラの前で話をしているアナウンサーといえるでしょう。
アナウンサーの声は 電波にのって 世界中へ向けて発信されています。
仏ほとけ が宇宙に遍満へんまん していることと 電波が地球上に遍満していることは同じことです。
しかし 電波がそこら中に遍満しているといっても 何も行動しなければ テレビは見れません。
衆生自らが TVのスイッチを入れチャンネルを合わせると 放送局の番組が映るのです。
自分でテレビのスイッチを入れる行動が 自ら仏の説法を聞こうとする 衆生の意思の表れなのです。
仏の教えを求める衆生は 仏の周波数にチャンネルを合わせ 仏の教えの番組を見るのです。
この時 テレビの画面に映っているアナウンサーが 「迹仏」しゃくぶつ の私なのです。
この時 テレビが方便ほうべん の役割りをしています。
方便ほうべん があるから 衆生は仏の教えを目で学び 耳で聞くことができるのです。
ところが その方便のテレビには 感度や性能や電波の受信具合いに 各々多少の差があるのです。
放送局の電波は 固定した周波数で発信されているので あとは テレビの受信の良し悪しが大事です。
放送局のアナウンサーには 電波を受信するテレビの良し悪しなど 知る由よし もありません。
しかし 仏は 受信するテレビの程度 つまり 衆生の五根ごこん の程度を見分け知り得ているので
その衆生に適合した教えを説くことができます。 これが仏の慈悲の方便です。
衆生の皆さん 信等の諸根しんとうのしょこん には 次の五根ごこん があります。
1 信根 しんこん 仏の教えを 理解するには 深く信じる心が必要なのです。 衆生の頭で理解するのでは ありません。
仏の救いの力は 教えを心の底から深く信じ 実行する人に与わるのです。
2 精進根 しょうじんこん 仏の教えを純粋に信じて 努力しつつづける心(精神)のこと。
仏の教えを深く信じる信根の純粋な精神を 常に保ち続け 不断の努力が重要なのです。
3 念根 ねんこん 常に念じている心。 日常の衆生は 24時間仏のことだけを考えることは 現実的に不可能です。
ああ!今 私は 仏に生かされていると思う心 つまり 仏を心の中央に置いて 毎日を生きることです。
仏の道=人の道という意識を 常に持って生きる衆生は 必ず功徳が授かるのです。
4 定根 じょうこん 念根の心で生きる衆生が この教えを信じて 生きていこうと定まる心。
5 慧根 えこん 定根の心が具わった衆生は 次に 仏の智慧を会得する心 つまり 慧根の心が強く起きてきます。
つづいて 五つの仏眼ぶつげん とは
1 仏眼 ぶつげん 仏の慈悲の眼まなざし 。 人間の眼には 喜び・怒りなど・感情が出るが 仏は常に慈悲の眼まなこ です。
2 法眼 ほうげん 真理を見分けられる澄んだ心の眼。
3 慧眼 えげん 深い智慧ちえ をもって 哲学的に見る眼。
4 天眼 てんげん 本質を見分ける眼。 天眼通てんげんつう とは 普通の人が見えないものが見える能力。
5 肉眼 にくげん 凡人の眼のことで 形に現われたことだけしか見えない目。
衆生の肉眼では 間違ったり 片寄ったりして見えるので 思い込みや勘違いが多く生じるのです。
娑婆世界では 衆生同士 互いに許し合い助け合うことが大事なのです」。 つづく