真理の開示の経典・一切如来心秘密全身舎利法篋印陀羅尼経で、
「善哉・善哉、釈迦牟尼仏よ……」と、大日如来が声を発せられました。でも、大日如来の言葉は、仏界ぶっかい の原語でした。
当然ながら、金剛手菩薩こんごうしゅぼさつ も大衆も、大日如来の言葉は、チンプンカンプン。
しかし、応身仏・釈迦牟尼世尊だけは、大日如来が発した仏界の原語を、理解できたのです。
なぜなら、釈迦牟尼世尊は、宇宙の法、つまり、法身仏 ほっしんぶつ だったのです。 「法身/報身/応身仏」
つまり、人間の姿形の世尊だが、その本体は、法身仏(本仏が身を現した)なので、世尊は、仏界の言葉を理解できたのです。
金剛手菩薩とは、不動明王のことです。
つまり、世尊にとって、仏界の言葉は母国語なのです。当然のことです。
その証拠が、原典にありました
大日如来は世尊を、婆迦梵 ばぎゃぼん という名前で 呼びかけました。
「
人間の姿を現した法身仏・釈迦牟尼世尊は、大日如来の加持身 かじしん 、として登場しているのです。
実は、(ここが、大事なのです)
大日如来の言葉を世尊が理解して 大衆に分かりやすく話したのでは、ありません。 え!どういう意味?………ボサツマン
真実は、釈迦牟尼世尊は大日如来の加持身かじしん なのです。
だから、大日如来が 自分の加持身(世尊の肉体)を通して、大衆たちに、大衆の言葉で、分かりやすく語ったのです。
注 加持かじ の意味ー 加は如来の威神力が衆生に灌がれること、持は如来の威神力を衆生が実感すること。
重要: 法=真理=大日如来が、自分の言葉で自分の思い(意)を語った経典だから、真理の開示の経典なのです。
お経には、権ごん つまり 方便の教えと、 実じつ つまり 真実の教えとの、二つがあります。
権の教えと実の教えとは、異なるものと思えるが、権実不二ごんじつふに の教えといい、根本は、一つの教えなのです。
加持身とは、如来が仏力に依って、造り護り給われている身という意味です。
つまり、神や仏の世界には、多次元同時存在の法則 (多次元に同時に顕われる)が、成立するのです。
ボサツマン: うひゃ〜ウラヤマシイ、オイラも欲しいなあ〜
オイラが日本に居ても、世界の他の国にも行けるのか、こりゃいいわ、ま、不可能だわな、オイラ仏でないし。
つまり、この経典では、世尊は一人で二役をこなしている、ということです。
法身仏の大日如来と、応身仏の釈迦牟尼如来の二つを、一身で兼具けんぐ して、両方の役割をこなしておられるのです。
とくに真理の開示が濃厚なところは、世尊が法篋印塔の功徳を説いているところです。
又、陀羅尼の部分は、原語のままの表記なので 「五種不翻」ごしゅふほん の秘密不翻ふみつふほん になります。
秘密不翻とは、その意義を明らかにすべきでない如来の秘密に属する真言や陀羅尼などは訳さず、
原語のままとする取り決めです。 よって、今の我々は、その文意を細かく知ることはできず、大意を多少理解できる程度です。
又、経典のなかで、
金剛手菩薩こんごうしゅぼさつ が、法篋印塔の因縁を世尊に質問したが、世尊は因縁や由来に関しては、詳しく語っていません。
しかし、世尊は、法篋印塔の因縁や由来よりも、もっと大切なことを、強調力説・反復重説して、おられます。
ー斯か く斯か くに信行するならば、衆生の身に斯か く斯か くの霊験が与わるぞよーと。
質問されていない事を世尊が、一方的に述べたのです。 ここが、無門自説むもんじせつ になっています。
金剛手菩薩や大衆たちは、法篋印塔の因縁と由来を聞いたのだが、
世尊はその質問には答えず、霊験の功徳を授かる方法を、世尊の意のままに、強調力説・反復重説したのです。
つまり、法篋印陀羅尼経は、仏の意のままに説法されている随自意説法の経典です。
随自意説法の経典だから、加持の力が衆生に向けて、大きくはたらくのです。 トップに戻る 「随他意説法/随自意説法」