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ドイツの救急医療制度


4章 日本における救急医療の歩みと現況


 1節 救急医療制度の始まり

 日本初の救急医療関連指定施設として、救急指定病院が法的に定められたのは1964年(昭和39年)のことであり、その許可基準は以下の通りである。

(1)  救急医療について相当の知識及び経験を有する医師が常時診療に従事していること。

(2)  エツクス線装置、心電計、輸血及び輸液のための設備その他救急医療を行うために必要な施設及び設備を有すること。

(3)  救急隊による傷病者の搬送に容易な場所に所在し、かつ、傷病者の搬入に適した構造設備を有すること。

(4)  救急医療を要する傷病者のための専用病床又は当該傷病者のために優先的に使用される病床を有すること。

 この基準は当時の社会情勢や医療水準からすれば評価すべきものであったかもしれない。しかしそれ以来、附則が加えられることはあっても原文には何の改正も加えられないまま存続し、現在の感覚からすると曖昧で水準の低いものになっている。日本の法が成立時のまま時代の変化から取り残され、放置されている実情を物語る一例である。


 2節 救急医療の組織化

 時を経て、1980年頃から一次・二次・三次救急という概念の下に新しい救急制度が、上記の救急指定病院と並列して導入された。その概念では、一次救急患者とは入院を必要としない患者を云い、二次救急患者は入院治療や手術が必要な場合を指し、三次救急患者とはそれ以上に重症で高度な医療が必要である場合とされる。

 抽象的な定義としてはこれで理解できる。しかし具体的な運用基準が貧弱で、運用に当たって最も大切な受入・稼働時間については、三次救急病院が24時間の稼働を規定されているだけで、一次・二次救急病院の救急診療時間については病院に任されている。これらの病院群を組織化し、日時を定めて輪番制で救急を担当する制度が必要なのであるが、そういう発想は湧かないらしい。

 現在では上記の2制度が併存して錯綜し、加えて夜間診療所制度や日曜祭日輪番制度なども混在して非常に複雑な形になっている。簡潔で実行性の高い制度を作り上げるには、総合的な計画の下で継続して改良を加えることが必要である。しかし、現況はそれに逆行している観がある。

 それは兎も角として、1990年頃から開設が始まった三次救命救急センターは全国的に充実し、私が勤務していた病院もその指定を受けた。そしてこの新たな救急制度は、三次に引き続き、二次・一次の順に整備が進むものと思われた。そして1999年に私が三次救命救急センターを辞める時、救急体制全体の見直しと組織化について、いささかの提言とともに期待を込めて「救急医療の今昔と彼我・・・そして家庭医」を書いたのであった。


 3節 救急医療制度の混乱

 しかしこの10年余りの間に救急医療は次第に疲弊し後退した。その原因は一次・二次救急医療の不備を放置したことにある。即ち、2000年頃には三次救命救急センターは充実の一途にあったが、認可予定病院の一部の「科」、特に小児科では認可に抵抗する声が出ていた。断っておくが、その医師達は決して救急医療そのものを嫌った訳ではない。

 その頃になると三次救急施設には、物理的にも機能的にも完全に独立している施設を除いて、病気の重軽を問わずあらゆる患者が押し寄せ始めた。この成り行きに彼らは危惧を抱いたのである。彼らは地域の中心的病院の医師として三次救急医療の受入には積極的であったが、自分の病院がセンターとして認可される前に一次と二次が整備されることを望んだのである。

 しかし初期的医療を担当するはずの医療機関は、三次救命救急センターが全ての急患を引き受けるものと勘違いをしたのである。あるいはそう願って、時間外診療の組織化に協力的でなかった。その結果、「軽症・多数」を担当するべき医療機関が有機的に組織化されないまま、三次救命救急センターは走り続けることになった。予見された通りの経過である。

 そもそも日本の医師数は先進国の中では少なく、人口あたりの医師数は先進国の2/3程度である。そこに加えて病院と診療所の棲み分け(責任分担)がなされず、日常的に病院志向型と呼ばれる状態にある。この状態に更に上述の救急医療が重なって、勤務医は過労のために病院を離れ始めた。病院の医師が減少すれば残った医師の負担が増えるという悪循環に陥り、更に勤務医の減少に拍車がかかった。その結果、病院の救急部門の閉鎖という事態が出てきた。2009年に起こった鳥取大学救命救急センターで救急専門医4人が全員辞職するという事態は象徴的な出来事である。この事態に対しても根本的な解決策が示されないまま放置され、救急に関係する病院、病棟、外来の閉鎖が相次いでいる。


 4節 急がれる救急医療制度の改革

 この危機的状態から一刻も早く脱出しなければならないが解決の道は険しい。その理由は、日本では間違いがあっても責任を曖昧にして原因を究明しないからである。原因が不明のままで有効な解決策が見つかる訳はない。医療を現在の状態に陥れた根本的な原因は現場から乖離した医療行政にあるが、他方で自己管理(統制)ができない医療界の体質も見逃せない。この両者は医療問題を疎かにして、金銭面の闘争に終始している。この件に関しては、ドイツにおける行政と医療組織との関係(1章・4節・1項)を参考にして頂きたい。

 責任の所在を抽象的に考えれば、医療制度を決定・推進してきた機構・組織・団体にある。何故なら権限を持つ者にこそに責任があるからである。それを具体的に云えば、行政(厚生労働省および文科省)と日本医師会、それに医学会ということになる。責任の所在を他に求める方が居られたら教えてほしい。
 現在この三者も改善の道を模索している。例えば、文科省は「今後の医学部入学定員のあり方等に関する検討会」などという冗長な名の会議を毎月の様に開いてその議事録を公開しているが、早期解決に役立つ結論は見当たらない。
 医師会もデータを分析したり、行政に提言したりしている。しかし根本的な解決策を持って、威信をかけて厚生労働省と交渉したという形跡はない。
 学会は学会々場や機関誌などの内部で実情を嘆いいるが、世論を動かす力にはならない。その中で日本外科学会は外科医不足の解決に向けて厚労省に要望書を提出している。要約すると、外科医を志す新卒業生が1990年から2007年の間に半減しており、外科医不足のために外科医療が崩壊しつつある実情を訴え、最後に「支援を乞う」と結んでいる。しかし要望書の中には明快な具体案は示されておらず、全体としても要望というよりは「お願い」の感じは否めない。それにしても外科の志望者が20年に亘って減少を続け、既に半数にまで落ち込んで久しいというのに、この事態がそのまま放置されているのは納得できない。中央官庁が自ら何の解決策も打ち出せない今、提出した要望が一顧もされないのなら、外科学会は次の手段を繰り出さなければならない。

 このままでは何れ二十世紀末のイギリスの様に「入院は数ヶ月待ち、救急は一部放置」ならぬ「手術は数ヶ月待ち、救急は一部放置」の時代が確実にやって来る。その時に市民(患者)の非難の矢面に立たされるのは間違いなく、不条理ではあるが、人手不足の中でなんとか救急医療を支えている現場の医師達である。日本医師会の末端組織である郡市医師会も首をすくめてやり過ごすことはできないだろう。救急隊員も大いに困惑するだろう。
 しかし市民と現場から遠く離れ、永田町や霞ヶ関の奥深くに棲む政治家や官僚、そしてその周辺の官僚化した機構・組織・団体などは、メディアの攻勢に曝されることはあっても修羅場に身を置くことはない。

 救急制度の改革は待ったなしのところまできているが、ここまで述べてきた様に事態は複雑で解決の糸口さえ見えてこない。これまで行われてきた継ぎ接ぎの応急処置では更に混迷を深めるばかりであり、今一度基本に立ち戻って抜本的に考え直して改革する必要がある。
 その基本とは、「医療の総量を全医療人が(分担して)支える」ことである。現在の様に、医療の中の美味いパイの部分を分捕り合い、”いわゆる3K”の部分を回避する態度は基本精神に反している。

 かくなる上は惰性の中に埋没した機構に頼るのではなく、皆さんの、市民−国民全体の大いなる危機感から生まれる新しい発想とエネルギーが必要である。ドイツの制度が全て最良とは云わないし(それに近いとは思っているが)、そのまま取り入れよと主張している訳でもない。次章の「ドイツの救急医療の実際」から、抜本的な改革の具体案を追求してみて欲しい。
 例えば、「診療に携わる医師は全て、何らかの救急医療に参加する義務がある」という一つ規定を作ることから始めても良いと思う。このことによって全ての医師の注目を集めることができるし、それを実行することになれば、必然的に制度の変革も起こる。これを切っ掛けにして医療制度、規則、機構の改革につながる可能性はある。繰り返しになるが、ここは正念場である。読者諸兄姉の怒りのエネルギーを期待したい。

5章 ドイツにおける救急医療の実際−
   インターネットから得た資料


 かっての同僚から得た情報をキーワードとして、インターネットでドイツの救急医療、医療制度、法と規則などを集めた。重要な資料に加えて現場を彷彿とさせる記事も見つかった。これらの中からテーマ毎に、1〜4個のホームページを取り上げて資料編として「あとがき」の次に掲載した。資料はできるだけ原形を残すように努めた。このため大きな資料は一部を削除したが、要約は行わなかった。

 資料の元であるホームページについては、「表題」の次の行に site名を記した。site の内容は刻々と変化していくので、その時のものを保存した。もっと詳しく知りたい方のためには、参考になる多くの site を「その他の資料」の部に纏めて記載した。

 各資料の始めの[ ]に簡単な解説を設けた。


あとがき


 ドイツ留学から帰国後も、折りにつけてドイツの医療について散発的に耳にしていた。しかし先端医療技術の進歩は先進各国とも一応の範囲内にあり、ドイツからの情報にも、各科の詳細はともかく、特別なものは感じなかった。それに対して、医療制度については次第に大きな差を感じるようになった。その最たるものは救急医療制度である。

 緊急の場合には救急隊、司令部および病院が有機的に組織化されていることは既に述べた。

 時間外の初期診療については、1994年に家庭医(※)の専門医制度が完成するとともに救急医療制度の原型ができあがった。当初は個々の家庭医が自分の診療所で24時間、登録している住民について責任を持つ形であった。しかしこの形式は医師の負担が大きくて能率も悪いところから、時間外診療については医師がグループを組んで当番制で対応する形が採用された。その後更に、グループが担当する地域内に時間外診療センターを設けてそこに当番の医師が出向く形になり、2005年頃にはそれが主な方式となって定着した。その後、内科の専門医は、専門医救急業務から一般医専門業務に編入されたことはすでに述べた如くである。

 それに反して日本における救急制度は革新的な進歩は見られず、2000頃からはむしろ退廃の方向に転じた。救急医療のこの様な状態の中で、ドイツの制度を大いに参考にして改革をするべきだと感じていたが、一介の外科医として有効な手段は見つからず、ただ現場で嘆くほかなかった。

 丁度その頃、2009年に東京医科歯科大学名誉教授・岡嶋道夫先生の講演に出席して、立ち話をする機会を得た。その時に先生は、医師の職業倫理規則を中心とした翻訳も決して華々しいものではなく、ずっと孤独であり理解者も少ないことを話された。

 このお話しを聞いて、経歴や語学力などハンディキャップは大きいが、私もできることはやってみようと思い立った。やる人が居ない以上、成果や結果のことを考えずにやろうと決めたのである。
 
 ご存じの方も多いと思われるが、岡嶋先生のホームページhttp://www.hi-ho.ne.jp/okajimamic/ (現在は医学教育情報館のサイトhttp://www.meal-jsme.jp/more-resources/okajima-michio/)や著書にはドイツ医療に関する膨大な資料(特に、法と規則)があり、一部救急制度も含まれる。これらの多くを参考にさせていただいた。 

※ ドイツでは全医療の分野を32に分割して同数の専門科があり、32種類の専門医が存在する。そして専門医になるためには指定された病院の専門科て勤務し、追加教育を受けた後、専門医試験に合格しなければなない。これらの全課程を修めるには長年月を要するから二つの分野の専門医になることはない。そしてこの32種の専門医の中の一つが一般医(Allgemeinarzt)=俗称家庭医である。

 病院に勤務する専門医は当然それぞれの専門科に所属して医療を行うが、開業するに場合にも自分の専門科(だけ)を標榜する。従って、家庭医以外の専門医は家庭医ではないから、家庭医として開業することはできない。
 また開業している医師が専門医の資格を維持するためには、5年毎に250単位(1単位は1時間の講義に該当する)の生涯教育を受けることが義務づけられている。このことからしても、一人の医師が二つの分野で専門医として存在することは不可能である。


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