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雪に捨てたバレンタイン





星空の下で、さよなら    ― 21 ―








家に帰ると、買い物に出かけたようで、家には誰も居なかった。

あたしは締め切られ室内に篭った茹だるような熱気を逃がそうと、窓を開けた。
風が吹き込んで、中の空気が吐き出されていく。
ソファーに座ると、体が鉛のように重く感じられた。
冷房をつければもっと気持ちいいよね・・・そう思いながらも、体が言うことを利かない。
強烈な睡魔が襲って、まぶたが視界を狭くしていく。

シャワー浴びたい・・・

汗でべとついていたけれど、起き上がる気力はどんどん奪われていく。
ソファーがまるで底なし沼に変わったように、あたしの体をどこか深い場所へゆっくりと引きずり込んでいくような感じだ。

レムとノンレムの間で、直人が現れてはどきりとする。司さんが背中を押してくれる。有菜が笑いかける。チアのペアレンツの練習をしている。
浮かんでは消えていく映像に、あたしは沈み込んでいく体を硬くしたり目を開けた。
やがて映像は幼かったあたしと直人へと移行して行き、柔らかな優しさに包まれながら深みに落ちていった。
まぶたが完全に閉じる前に見上げた時計は3時になろうとしていた。

約束の時間まで・・・・・。

起きてからシャワーを浴びようと思いながら、あたしは完全に意識を手放した。





どれくらい時間が経ったのだろう。

眠りが浅くなったのか、風が気持ちいいと感じた。
と、同時に汗が背中を伝う感覚。
薄いベールの内側で、あたしはそろそろシャワーを浴びようと、起き上がろうとした。
だけど、そのベールは思っていたよりも簡単に払うことができず、逆に動かそうとした手足を絡めとって深く沈みこませようとする。
その度に、また色々な映像が浮かんでは消えた。
そんな感覚が、何度となく繰り返された。

覚醒しかけた意識が、あたしの周りの空気が動いていることを感じた。

誰か帰ってきたのかな?

ぼんやり思いながら、足音が近づくのを聞いていた。

自分では起きれないの、起こして・・・

あたしはベールの内側から声をかけようとする。もちろん声なんかでない。
ふっと風の流れが遮断され、あたしの前に誰かが屈んだ気がした。
そして、ゆっくりと、頬に何かが触れた。
大きな掌。
いつの間にか、あたしより大きくなった手だ。

「・・・・・・」

胸が苦しくなる。
いつも思う。
どうして、あたしは、ソレが直人の手だとわかってしまうんだろう?
どうして、こんなに胸が苦しくなるんだろう?

「・・・とーこ」

小さな声。
あたしは目を開けようとしてみたけれど、やっぱりまだ瞳は閉ざされたまま、思うようにはできなかった。
まるで、これも夢の中のようで。
・・・これは夢?

「俺、とーこはずっと、俺以外好きにならないと・・・・思ってた」

恐る恐る触れる指が懐かしく思えた。

「ごめんな。」


風邪を引いてもめったに熱を出したりしないあたしだったけど、こじらせてしまうことは稀にあった。
寝込んでしまうと必ず直人がお見舞いに来てくれる。
いつもは学校帰り校庭で遊びまわる直人が、あたしが休んだときは早く帰ってくるって、直人のおばあちゃんが教えてくれた。
そして、こんな風に触れるんだ。
『とーこ・・・?』
おっかなびっくり。
触れてしまえば、優しく。
おでこに触れたり、頬を撫でたり。
あたしはそれがなんだか嬉しくて、直人が来ると寝たフリしたりして。
いつもはあたしに「頑丈なだけが取り柄」なんて言ってるくせに、心配そうに触れる直人が可笑しくて、嬉しくて・・・。
どきどきして、このまま熱が下がらないんじゃないかな、なんて可愛いことを思ったりした。
これは、あの頃の夢?


「とーこは・・・俺が有菜のことが好きでも、ずっと、とーこにとっては俺が一番で。」

悔しいくらいに、そうだよ。

「だから、とーこが自分から離れてしまうなんて、思ってなかった。何をしても許されるって・・・何様? だよな・・・」

これが夢だとしても、あたしはちゃんと目を見て聞きたくて、なんとかベールの向こうの明るい方へ手を伸ばしてみる。
もがいても、ベールに手は届かない。

「とーこが傷ついてるってわかってた。有菜の話をすると表情が微かに歪むのも。・・・だけどそれすら、とーこがどれだけ俺を好きでいるのか試していたのかもしれない。」

胸がざわつく。
なんでだろう? これは、夢、でしょう?
本当に、早く目を開けなくちゃいけないような気がする。

「――とーこが試験会場に居なくて・・・新しい生活にとーこが居なくて、それでやっと気がついた」

耳元でガムランボールが揺れている。

「俺が、俺で居れたのは、とーこが居たからだ。いつも傍で笑って怒ってくれてたから。とーこがいつも傍にいてくれたから、なんでもできるような気がしてた・・・」

今、目を開けたら、直人はどんな表情をしてるんだろう?

「とーこの"なんでもない""大丈夫"って言葉、昔っから俺に安心させる為に言ってるってわかってた。わかってたのに、本当は"大丈夫"なんかじゃないんだって。」

それは、違うよ。
『大丈夫』は、有菜を想う直人の気持ちに、どんどん苦しくなって、『大丈夫』って自分に言い聞かせなくちゃ居られなくなったから。
直人が最初の<ライン>を引いたあの日を境に。
本心を隠すために、知られない為に。
いつの間にか『大丈夫』『なんでもない』は、直人の傍に居る為のお呪いのようになってた・・・。

「とーこ・・・。」

名前を呼ぶ声が少し震えていた。

「気がついた時には、もうとーこは隣に居なかった。」

頭を撫でられる。

「俺さえ手を伸ばせば、いつでも繋がる距離でいた。
俺さえその気になれば、いつだって手に入れられるくらいに思ってた。・・・ずっと俺たちの手は繋がれてるって。」

頬から、そっと指が遠のいた。

「酷いよな・・・苦しめてばっかで・・・ごめんな」

あたしはその指を掴もうとして手を伸ばしたけれど・・・。

「・・・直人?」

自分の声に驚いて、あたしははっとして瞳を開けた。
あたしはまだ半分眠ったままの頭を振って、沈み込むように横になっていたソファーから起き上がった。

「直人?」

酷く掠れた声で喉が痛かった。
あたしは直人の名前を呼びながら、部屋の中を見回した。
先ほどまで、あれほど鮮明に感じていた気配はどこにもなく、あたしはよろめきながら玄関に向かった。

「・・・な、に・・・?」

本当に夢なの?

玄関にも誰も居ない。
あたしはまだ指の感触が残っているような気がして、頬に触れた。
リビングに戻り、時計を見ると6時になるところだった。

「夢、だったの・・・?」

釈然としないまま、あたしは気が抜けたようにソファーに座った。
それからまた室内を見回す。
見慣れた風景。
窓からの風が、テーブルの上の折りたたまれた新聞の端をほんの少し揺らす。
不思議な感覚に思考回路が定まらない。

「あら、帰ってたの?」
「・・・・え?」

声をかけられて、暫く呆けていたことに気がつく。
お母さんが「暑くないの?クーラーもつけないで」と苦笑している。

「・・・寝ちゃってた」
「みたいねえ。ああ、だから? 直人君にさっきこれ渡してって頼まれたのよ。」

言ってお母さんは、銀色に輝く小さな玉を揺らした。

「これ、懐かしいわね。つぐみおばちゃんが送ってくれたやつでしょう?」

サラサラと舞う雪のように、あたしの目の前でそれは音を奏でる。

「ガムランボール・・・」
「そうそう、ガムランボール。最近見なかったけれど、塔子失くしちゃってたのね? 直人君が見つけてくれたんでしょう? あなた昔から探し物が下手だものね。隠すのはとっても上手な癖に。
いっつも直人君に一緒に探してもらって! それなのに、直人君来たのに、塔子起きなかったのね?」

お母さんはあたしの掌にガムランボールを転がした。
ぎゅっと握り締め、あたしは唇をかみ締めた。

・・・それじゃあ、あれは夢じゃなかったの?
直人、ここに居たの?

「・・おと、なんか言ってた?」

買い物袋をテーブルの上に載せ、冷蔵庫に食材を詰め込むお母さんに尋ねる。

「何? あなたたち喧嘩でもしたの? 直人君"ごめん"って伝えてくれって。」
「え?」

ダメじゃない喧嘩しちゃ、と呟きながらお母さんはため息を吐き、少し手を休めて笑った。

「"留学決まったんですか"って聞かれたわよ。今日連絡が来たって言ったら"そうですか"って・・・」

留学・・・決まったかって?

「直人が・・・なんで知ってるの・・・?」
「塔子言ってなかったの?」
「・・・うん」

言ってない。
ああでも、昨日『合否は明日〜』って伝言を頼まれたんだっけ。
でも、志望校を変えたことも言わなかった。
だから、留学のことなんて、直人は知らないはず。
・・・関君が・・・?
ううん。関君は、言わない。
もしも言っていたら、きっと昨日言ってくれてる。
それじゃあ・・・なんで直人は知ってるの?
・・・いつから知ってたの?

「でも、直人君は前から知ってる感じだったわよ? "これで、とーこの夢、ひとつ叶ったんですね"って言ってたわ。寂しそうだったわよ?」

あたしの夢・・・

嘘・・・

直人、覚えてたの?

「そういえば、あなたたち言ってたじゃない? 『二人で一緒に、この絵本の国に行くんだー』なんて。なんだっけ、ほら星を取りに行く話しだったわよねえ。『シアワセの星、おかーさんにも取ってきてあげる!』って言って、二人で目をきらきらさせていたわ。
・・・そう、いつの間にか、それぞれ違う道を歩き出してたのねぇ・・・」

あたしは指の力を抜いて、掌のガムランボールを見つめた。
あたしと直人を繋いでいた、音。
雪の中から、見つけだされた、あたしの気持ち。

「直人は一度約束したこと、忘れないから・・・」
「とーこは案外忘れちゃうのにねぇ」

――じりじりと競り上がる気持ち。

あたしは、自分の気持ちを手に握りこんで、家を飛び出していた。





小学2年生の時だった。
11月にあったマラソン大会。

「ああっ!」

それまでずっとトップで走っていた直人が、転んだ。
トラックを1周半して、あと1周でゴールというところだった。
周回遅れの男子を避けた時に、足がもつれてしまった。

「直人!」

先に走り終えていたあたしは、ジャンパーを握りしめて思わず立ち上がった。

『マラソン大会で1位になる!』

直人はおばさんと約束していた。
あの頃は、病室でしか会えなかった・・・直人の大好きなお母さん。

『お母さんの誕生日プレゼント、1位のメダルをプレゼントする!きっとお母さんも元気になって戻ってくる。クッキー焼いてくれるって言ってたんだ。』

大会の2週間前に教えてくれた。
直人はだから、いつも誰よりも練習してたのを知ってる。

誰よりも、何よりも、1位のメダルを欲していた。
おばさんはきっと1位じゃなくたって喜んでくれる。そんなこと、あたしじゃなくても、直人だって知ってる。
だけど、直人はこだわっていた。

「直人!」

5人、立ち上がる直人の横を駆け抜けた。
あたしは泣きそうになって声を張り上げた。
膝からは血が滲み、真っ白だった体操着は土埃で茶色くなってた。

「っ・・・」

一歩踏み出して顔を顰め、だけど直人は走りだした。ちらっとあたしを見て、それから自分の前を走る友達を見据えて。

「直人!頑張れっーーーー!」

直人がメダルにこだわっている理由をあたしは知っていた。

喉が枯れるほど声を張り上げて、直人の名前を呼んだ気がする。
最後の一人を数センチ差で抜き返し、ゴールに飛び込んだ直人は泣いてたみたいだと、直美ちゃんが話してた。
あたしは泣いてしまっていたから、それが本当かどうかわからない。

おばさんとの約束通り1位になった直人は「お母さんにあげるんだ」って笑いながらメダルを見せてくれた。
ただの校内のマラソン大会。
だけどそのメダルの輝きと直人の笑顔は、とても眩しくて。
「よかったね!」
あたしがぼろぼろと泣き出して言うと、直人は困ったように肩を竦めた。

「とーこ、すっごい顔して名前呼んでたね!」
顔真似する直人に「そ、そんな顔してないっ!」って、あたしは両手をあげた。
「してたんだって! ・・・・・・・でも、ありがと。お陰で頑張れた」
嘘だ。あたしなんかの応援なんかなくたって、絶対直人は諦めてなかった。

「あ、お母さんにはナイショだからなっ」
照れたように背を向けた直人に、あたしは両手を下ろして微笑んだ。


おばさんが亡くなって。
だけど直人はそれからも毎年メダルをプレゼントしてたよね。
ひとり、墓前に報告に行くの。
・・・あたしは知っていたよ。

わかってた。
直人はただ、おばさんの喜ぶ顔が見たかったの。
約束を守ることで、もっと笑っていて欲しかったんだ。

だから、おばさんが居なくなってからも、マラソン大会で1位をとるという約束を守り続けたりして――。


そんな直人が大好きだった。
ううん、理由なんかなくても。
本当の直人を知ってるから。

―― 大好き ――





チャイムを鳴らすと、中から「はい」という声が響く。
「誰?」
扉の向こうで直人が尋ねる。
「あたし、塔子」
「・・・・」
「・・・・開けるねっ」
鍵がかかっていないことは、知っていた。
ほんの数ヶ月前まで、お互い自由に出入りしていたのに、今は扉を開けることすら物凄く勇気が必要だった。
勢いよく引いた扉の前には、直人がとても驚いた顔で立っていた。
だけどすぐに憮然とした表情になって、あたしを見下ろした。

「何?」
「ちょっと、今出れる?」
「まだ約束の時間には早いよ」
「話があるの」
「ここじゃダメ?」

冗談めかした口調。口元だけ笑って見せるけど、目は笑っていない。
今更、そんな<ライン>を引いても、もうあたしは止まらない。
くじけそうになる自分に鞭打って、あたしも口元だけ笑顔を作ると「ダメ」と言った。
直人は意外そうな顔をして、溜め息をつくと「わかった」と呟いた。

あたしが無言で歩くから、直人は同じように無言でその後をついてきた。
西に傾いた太陽に誘われるように、ヒグラシの鳴き声が大きくなったように感じる。

「どういうこと?」

立ち止まって、あたしはそう呟いた。
他に言葉が見つからず、その言葉しか出てこなかった。

「・・・・どういうことって?」

直人は静かに聞き返した。
あたしの少し後ろで立ち止まった直人は、きっと肩を竦めて空を見上げてる。

「ごめんって・・・・お母さんに伝言頼んだでしょう・・・それに昨日の夜も言ってた。」

瞳を閉じて眠りのベールに包まれていたあたしにも。

「・・・」
「それと、これは、あたしに返してくれたの?」

振り向いて、あたしはガムランボールを揺らした。
直人は空からあたしへ視線を落として、少し寂しそうに笑う。

「・・・捨てるなよ。持って行けよ・・・イギリスに」

そう言うと、直人は一歩後ろへ退いた。

「・・・酷いことして、ごめんな」

あたしは直人に向かって手を伸ばそうとした。
さっきは掴むことのできなかった、直人の指に触れたくて。
だけど、まだ・・・。


『・・・好きって、残酷な気持ちも持ち合わせてる。身勝手で我侭で、見苦しい。』


司さんの言葉が頭の中で響いた。

身勝手で我侭な直人
見苦しいあたし

身勝手なのはあたしも同じ。

頭で理解するより早く、感情が溢れ出す。

誰も傷つけないで、恋することができるなら、それが一番だけれど
もうたくさんの人を傷つけてしまった。
それでも手に入れたいなんて、やっぱり言えなかった。

「――・・・・・・」

伸ばしかけた手が重力に負けて、だらりと落ちた。
直人は苦しそうに笑った。

「・・・・・メシ、食ってくる。また後で、な」


もうすぐそこに夕闇が迫っていた。

見上げれば降ってくるような――星空が。








2007,11,1
改2009,1,10


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