雪に捨てたバレンタイン
星空の下で、さよなら ― 22 ― (最終話)
シャワーで汗を流し、石鹸の香りに包まれる。
焼けた皮膚がひりひりしていたけど頭から勢いよくシャワーを浴びていると、あたしの内側にあった暗くどろどろしたものまで一緒に洗い流されていく気がした。
まだ、あたしには伝えなければいけないことが、ある。
そのことに胸が痛まないわけではなかった。
それでも、同じ時間を大好きな人たちと過ごせることが、何よりも大切だと思った。
柔らかなタオルで髪を乾かす頃には、どんな結末を迎えたとしてもちゃんと受け止めようという気持ちになっていた。
これから、今よりたくさんの時間があたしたちには待っているのだろう。それでも、今しか見えない。それがあたしの精一杯だ。
傷つくことを恐れて、傷つけることを恐れて。
でも、もう終わりにしなくちゃ。
服を着てバスルームから出たあたしは、お母さんの用意してくれた夕食を口にした。
お腹が満たされると、不思議と力が湧いてきた。
「おかーさん、ありがとう」
だから思わず口にしてしまったあたしの言葉に、お母さんは首を傾げながら笑った。
「流れ星、たくさん見れるといいわね。」
玄関のドアを閉めて、深呼吸した。
まだ西の空は明るい。
あたしは草原の広場に向かって歩きながら、あの絵本を思い出して諳んじた。
「――おとこのこには、たったひとつ。
おかあさんからもらったベルしかありませんでした。
これはまほうのベルだから、さみしいときにならしなさい、
と わたされたものでした。」
ガムランボールを握り締める。
「おとこのこは、ベルをならしました。
ほしもないまっくらやみで、そのベルのおとはやさしくひびきます。
くらやみをあるいていたおんなのこは、そのベルのおとをたよりに、おとこのこのもとへたどりつきました――」
広場にはすでに有菜と関君が来ていて、あたしを見つけると「とーこちゃん! 」と有菜が駆け寄ってきた。
関君は「こんばんは」といつもの笑顔を見せ「大丈夫、だった? 」とちょっと悪戯っぽく肩を竦める。
「うん」と笑うと、有菜が「やっと、とーこちゃんとお話できる〜」と、ぎゅっと抱きついた。
柔らかな綿菓子のような有菜は、今日も甘い匂いがする。
「あ、直人君! こんばんは、久しぶり〜」
淡いオレンジを身に纏い直人がゆっくりと歩いてきて、有菜はあたしから離れてぱっと直人の下へ駆けて行った。
「走ると転ぶよ、有菜」
直人の、くすくすと笑う声が響く。
あたしが視線を二人からそっと外すと、関君が「とーこ、シートは?」と訊ねた。
「うわ、ごめん、忘れてた〜! 取りに行ってくる。」
「俺も手伝うよ」
あたしが慌てて家に向かうと、関君が後を追って来た。
「・・・並んで歩いてもいい? とーこイヤじゃない?」
関君の言い方があんまり悲しくなるような言い方だったから、あたしは心の中でごめんねと呟きながら「あったりまえだよ! 嫌なわけ、ないでしょう?」と関君の背中をぽんと叩いた。
「・・・今はさ、まだ正直辛いんだけど、今までみたいに接してくれると助かる。」
「うん。・・・ありがとう、関君」
少しずつ少しずつ周囲が青く染まっていく。
あたしはとても幸せなんだと思う。
関君にしても、司さんにしても、本当に優しすぎるくらい優しい。
あたしは甘えてばっかりで、申し訳ないと思う。
物置から、毎年この日に使うブルーシートを出して「持つよ」と手を伸ばした関君に渡した。
「雲ひとつないね」
言葉につられて見上げた空には、見慣れた、だけどけして同じではない空が広がる。
「見えるかな?」
「一番見える夜中は、月がでてくるから・・・」
「今日は下弦の月だよね」
「うん。さあ、行こうか?」
広場へ戻ると、有菜と直人が座って空を見上げていた。
何か話しながら、時折向き合って笑う。
浮かび上がるシルエットを見ていると、あたしが直人に言われたことは、冗談なんじゃないかと思える。
穏やかな雰囲気が、離れていても感じられるのに。
立ち止まったあたしに気づき、関君が「持ってきたぞー!」と大きな声をあげた。
「わーい、ありがとう!」と有菜が立ち上がる。
関君は「ほら!」と持っていたシートを直人に向かって投げた。直人は立ち上がってしっかりキャッチすると、「何すんだよっ」と笑って投げ返した。関君は有菜にもシートを投げて、慌てた有菜がシートを落とすとみんな笑った。
もう表情が見えなくなるくらい、周囲は濃い青に染まっている。
あたしたちはきゃあきゃあと声を上げながらみんなでシートを投げ合った。
その内に、シートが広がって、あたしたちは4人で端を持って草原に敷いた。
「あちーっ!」 「なにやらせんだよ!」 「ぐしゃぐしゃ!」 「はー疲れたぁ」
そして、そのままシートに倒れこむようにして横になった。
下にある草がクッションになって心地よい。
あたしたちは頭を寄せ合いながら、ちょうど輪を描くように寝転んで真っ直ぐに空を見た。
ぼんやりと残っていた夕焼けとの境界線は薄れ、空の色は藍に変わっていく。
それと比例するように小さな星たちが瞬きだす。
くっきりと暗闇で存在感を増す強い光、そしてその周りに目を凝らさなければ見えないような儚い光を瞬かせる星たちが、一つ一つ灯されていく。
「・・・ペルセウスはまだ見えないね」
中天を見上げながらあたしは呟いた。
「まだ随分下のほうだからな」
直人が中学の校舎のほうを指差した。
「そいえば、去年はさ・・・」
あたしたちはそうして、他愛のない話をしながら夜空を見上げていた。
去年も一昨年も、その前も。
お互いの声に耳を傾ける。不思議とこの星空の下では、普段の何気ない出来事もまるで冒険小説を読んでいるような気分になったりした。
時間を忘れてしまうくらい。
暗闇に駅の明かりが浮かび上がる。
まるで銀河鉄道のように、窓明かりだけが見える電車が微かに音を響かせて通り過ぎて行く。
不意に、星が一つ地表に向かう。
「!」
その流れ星は、あたしだけが見つけたようだった。
だから、あたしは司さんの氷が融けるように、と願った。
一番最初に、願いたいと思っていた。
司さんの胸の奥に刺さっている、冷たい氷。
あたしが融かしてもらったように、司さんも。
心の中で唱えた願い。
勇気をくれた司さんの気持ちが本当に嬉しかったから。
風が草を渡ってくる。
草の匂いがした。夏の匂いだ。
その匂いを吸い込んで、あたしは胸がいっぱいになった。
それは言葉にするのが難しい感情だ。
直人との思い出が溢れ、愛しさが胸を突く。
有菜への憧憬、守ってあげたいという気持ち、それに関君への感謝の気持ち。
夜空を見上げたまま3人の話に耳を傾けながら、あたしは視界が霞んでいくのを止められなかった。
瞬きせず、星を見つめようとした。
切なさで、胸が押しつぶされてしまいそうだった。
――涙が頬を伝う。
悲しいのか辛いのか、嬉しいのかわからない涙。
あたしは、ジーンズのポケットの中のガムランボールを取り出して胸の上で握り締めた。
なんで、こんなに愛しいのだろう。
今のこの時間が、とても大切だった。4人で星空を見上げていることが。
左手の指先に、直人の指が触れた。
小さく指が跳ねた。
痛みに似た甘い痺れが走る。
あたしは隣で寝転ぶ直人を見た。直人もあたしを見ていた。
指と指がほんの少し触れ合っているだけ、それだけだった。
だけど、そこから生み出される圧倒的な感情が指から全身に広がっていく。
胸に到達したそれが、また胸を締め付ける。
ずっと傍に居るんだと思っていた人。
あたしは星空を見上げた。涙がまた一筋頬を伝う。
星が一つ流れ、あたしたちは声をあげた。
「あ!」
「見た?」
「流れ星!」
ガムランボールを握り締め、あたしは心の中で願いを呟く。
"ずっと一緒に笑っていられますように"
――離れてしまっても、みんなずっと笑っていてほしい。
なんて自分勝手な願いなんだろうと思う。
今あたしがしている行動は、有菜を裏切っているのに。
「とーこちゃん、喉渇かない? 飲み物買いに行こうよ」
有菜が起き上がって、あたしの腕を掴んで言った。
暗闇でよかった。涙の跡は見えないだろう。
にこっと笑う有菜の瞳が、いつもより大人びて見えた。
「あ、俺、紅茶。ミルクティー」
「わかってる〜。直人君はコーラでいいよね?」
「俺が行こうか?」
「大丈夫だよう。ね。とーこちゃん」
「すぐそこだし」
「気をつけろよー。転ばないように。」
「うわん、はい。気をつける! 行ってくるね」
あたしたちは二人で並んで、自動販売機のある小さな雑貨屋さんまで歩いた。
寝転んでいる直人たちは、草の中に埋もれてもう見えなかった。
「?」
違和感を感じて、あたしは少し前を歩いている有菜を見た。
街灯の下で少し俯き気味の有菜が、足元にあった小石をとんと蹴る。
ああ、いつもぴょこぴょこ飛び跳ねるように歩くのに、今日は地面に足をしっかりつけて歩いてるから・・・
そんな風に有菜を見つめながら、あたしは深く息を吸い込んだ。
有菜に伝えることがある。
「・・・有菜」
「なあに? とーこちゃん」
有菜は振り向いて小首を傾げた。初めて会った時から変わらない、可愛らしい仕草。
守りたかった。有菜の笑顔。
「あのね。あたし、学内の選考にパスしてね。10月からイギリスに留学することになったんだ」
「・・・・ぇ? ええ!?」
「今日ね、合格の連絡があったの」
「え、とーこちゃ、嘘、イギリスぅ? 10月? え、それでいつまで?」
「希望は2年。あ、でもまだ詳しいことはわからないの。」
有菜はあたしの両手を掴んで、複雑な表情であたしを見上げた。
「お、おめでとうでいいの? かな? とーこちゃん、留学したかったなんて、知らなかったよ」
「うん。ありがとう。そうだよね。話したことなかった。」
「でも、ねぇ、・・・それ、直人君は知ってるの?」
凄く心配そうに瞳を曇らせて、有菜は訊ねた。
関君と同じ反応をする有菜に、あたしは少し驚いて曖昧に笑った。
「言ってはいないんだけど・・・知っていたみたい。」
「・・・」
「有菜?」
有菜に掴まれていた両手が、ふっと自由になった。
足元に視線を落とすように俯いてしまった有菜に、今度はあたしが手を伸ばした。有菜の細い指に触れると、心なし震えた声がその柔らかそうな唇から零れた。
「もしかして・・・直人君、とーこちゃんに何も言ってないの?」
「・・・?」
「・・・・」
あたしが持ち上げるように繋いだ手に、有菜はぎゅっと力を入れた。
だけど、言葉が出てこないようで、唇をかみ締め眉を顰めた。
肩が抱きしめてあげたくなるくらい、か細い。
あたしにそんなことされたくないかもしれない。
あたしがこれから告白することを聞いたら・・・。
有菜が黙り込んでしまったから、あたしは再び口を開いた。
「あのね、有菜。・・・あたし・・・。」
有菜はゆっくりとあたしを見た。
この瞳に悲しさが宿ることを、あたしがするのだと思うと辛かった。
いつも笑っていてほしいと思った笑顔をもうあたしにはむけてくれないかもしれない。
でも――。
「一度だけ」
「うん?」
「一度だけ、あたしの気持ちをちゃんと言葉にしてもいい? イギリスに行く前に・・・最後に・・・」
言って、有菜の瞳が大きく開かれるのをじっと見つめた。
情けない顔のあたしが有菜の大きな瞳に映し出されている。
「あたし、直人が・・・好き。ずっと・・・有菜と直人が付き合いだしても、ごめん、気持ちにケリ、つけられなかった――ごめんね、有菜」
一度だけ、今日だけ、直人を好きな自分を認めてあげたいと思った。
何も言わずに居なくなることが、一番いいのだとわかってる。それでも有菜は知っているから、あたしが直人を想う気持ちを知っているから、傷つけるとわかっていても、一度だけ。
そして、さよならしよう。
司さんがあたしの背中を押してくれたように、直人の背中を押してあげよう。
直人が選べずに居るのなら、あたしがその背中を今度こそ押してあげよう。
そう思った。
有菜の瞳が縋るように見つめていた。
あたしの我侭で、なんでこんな酷いことを有菜に言ってるんだろう?
「ごめんね。有菜。できなかったの。気持ちを捨てることも、封印することも、できなかった。」
――ごめんね。裏切るようなことして。
最後の言葉は、抱きついてきた有菜の腕に驚いて、言葉にできず飲み込んでしまった。
有菜は力いっぱい首に腕を回して抱きついて「とーこちゃんの馬鹿っ」と呟いた。
表情は見えなかったけれど、有菜が震えている気がした。
「有菜、ごめ・・・」
「とーこちゃんの気持ち、知ってるって言ったの私だよ? 知ってて、それでもあんなことしたんだよ?」
「でも、あたしは・・・ずっと前から二人の気持ち知ってて・・・」
「とーこちゃん!」
「知らないフリして・・・・」
「とーこちゃん! 私、直人君と、ずっと前に、お別れしたんだよ!?」
「え?」
「付き合ってない。もう付き合ってないの」
有菜はゆっくりと腕を解き、あたしにまっすぐ向き合うと涙をぽろんと一つ零した。
大きな瞳に涙が溢れる。
だけど、有菜は笑っていた。一生懸命、頬に力を入れて笑おうとしていた。
「ごめんねって、言わないで。とーこちゃんが敬稜受けたって聞いて、私ほっとしてた。寂しいって思いながら、でも、これで直人君はちゃんと私を見てくれるって、安心したの。二人の間は、私が入り込めるなんて本当はできっこないんだって・・・ずっと知ってたんだもん。
直人君が・・・とーこちゃんを好きな気持ちに気づかないようにって、ずっと思ってたんだもん。」
あたしはただ有菜の言葉に耳を傾けていた。
頭が空っぽになっていた。
「体育祭の・・・3日前だったかな。直人君に言われたんだ。"有菜と付き合えない"って・・・・。
"自分が本当に誰を好きなのか、やっとわかった"そう言って、直人君は頭を下げたよ。ああその日が来ちゃったって・・・そう思った。
直人君、高校入って、ずっとおかしかった。表面的には、中学の頃と変わらないけれど・・・・でも、イライラして苦しそうだった。
私、ちゃんとわかってたんだよ。だから"ああやっぱり"って思った。でもね、私は泣いて困らせて、直人君に"私が立ち直るまで、今までと変わらず傍に居て"って言った。誰にも言わないで・・・・とーこちゃんにも・・・・って。言ったけど、だけど、直人君、本当に言わないなんて、・・・直人君って・・・!」
有菜は、そう言って泣きじゃくった。
あたしは混乱しながら、それでも有菜を抱きとめて、震える肩を抱いていた。
いろんな直人が浮かんでは消える。
「ずっと、私を好きだと思ってたって言うんだよ? ・・・・・酷いよね? 私がね、亡くなった直人君のお母さんに似てるっていうの。
とーこちゃんは会ったことある? そんなに私、直人君のお母さんに似てるの?」
あたしはまだ感情が半分麻痺したようになっていて、有菜の言葉に呆然としながら直人のお母さんを思い出していた。
あたしだって何度も会えたわけじゃない。だけど――
「亡くなる少し前だったけれど・・・だからとても痩せてて・・・苦しそうだったのに・・・凄く・・・やわらかく笑う、優しいお母さんだった。ふわふわとした、そんなイメージで、あたしたちの話を嬉しそうに笑って聞いてた・・・そう、有菜のように・・・」
――甘い匂いがしてた。
呟いてあたしははっとして、有菜をしっかり見つめた。
有菜はため息をつき、片手で涙を拭うと肩を竦めた。
「――"付き合えないけど、有菜のことは大事な友達だよ"って、直人君言ったの。酷いよね、亡くなったお母さんとあたしを重ねたなんて。だから優しかったんだよ?
だから、私・・・とーこちゃんに謝ってもらうような資格ないんだよ。直人君、私を傷つけたこと凄く負い目に思っていたし、私もちゃんとそれを自覚してた。絶対、譲れないって足掻いてた。それなのに、なんで、とーこちゃん、"一度だけ"なんて言うの? どうして、好きなのに、お互い好きなのに、なんで"最後"なんて言うの?」
有菜は眉を顰めて苦しそうに息を吸い込んだ。
「直人君大好きだよ。・・・だけど、私の好きな直人君は・・・とーこちゃんの隣に居る・・・ちょっと意地悪で一緒にいろんな話をしてる直人君で・・・・・・私」
気がつけば、あたしも泣いていた。
誰かを想う気持ちは、強くて脆くて、なんてずるくて愛しいんだろう。
自分の気持ちだけを大事にしていれば、こんなに苦しくないのかもしれないのに、あたしたちはみんな恋の駆け引きをするには、幼すぎた。
幼くて、子供だから、あれもこれも手放せなくて、結局傷ついて。
「私、も、とーこちゃ、も、馬鹿だけどっ、直人君は、もっと馬鹿だっ。何で言わなかったの? とーこちゃん、イギリス行っちゃうって・・・!」
有菜の言葉はあたしを通り過ぎて、後ろに向けられていた。振り向いて、その言葉を受け取る人を見る。
いつの間にか、関君と直人の二人があたしたちのすぐ後ろに立っていた。
「とーこがイギリスに行くのは、俺、止められないよ。」
「いいの? とーこちゃん、行っちゃうんだよ?」
「それは、とーこの小さな頃からの夢だから・・・」
直人の言葉に、有菜はひっくと涙をしゃくりあげた。
関君はあたしたちの隣まで歩いてくると、有菜を覗き込んで「ジュース買いに行こ?」と手を引いた。
有菜は関君をじっと見つめ、こくんと頷いて「直人君、とーこちゃん、広場で待ってて。」とわざと怒った顔を作って言った。でも、そんな可愛い顔で怒られても、あたしたちは泣きたくなるくらいの愛しさしか感じないのに。
「・・・最後のつもりだったの?」
有菜と関くんの後姿を見送りながら、直人が呟いた。
あたしは振り向くことができずに「・・・うん」と頷いた。
「俺がとーこを好きでも?」
苦しそうな囁き声。
あたしはようやく振り向いて、直人を見た。直人は寂しそうに笑っていた。
「――シアワセのほしをてにいれたふたりは、つないでいた て をはなしました。
"また、あえるように、このほしにおねがいするよ"
"きっとまた、いっしょにぼうけんしましょうね"
ふたりはきらきらとかがやくほしのしたで、てをふりました。
"さよなら、きみとあえて、しあわせだったよ"
おとこのこは、むねのほしにてをあてました――」
直人があの絵本の最後の言葉を呟いた。
覚えてたんだ? 直人も。
「でも、その"さよなら"は、また出会うための約束だって、とーこ言ってたよな? ・・・・・・とーこは、さよならするつもりだった?」
その言葉に、あたしは答えられなかった。
直人は歩み寄って、あたしの左手の指先を掴んだ。
「手を離すつもりは、ないよ? 俺にとって、とーこは、かけがえのない"おんなのこ"だから。・・・気がつくのが遅くて・・・凄く遠回りして・・・凄く傷つけたけど・・・でも」
少し力を篭めて掴んでいた指が一瞬離れ、次にそっと絡められた。
骨ばった指が、あたしの指の一本一本をしっかりと捕まえて、少しずつ力が加わっていった。
掌にじっとりと汗が滲む。
ああまただ。心ごと掴まれる。
胸に柔らかな愛しさと切なさが溢れる。
あんなに傷ついても、どうしてこの手を求めてしまうのかな。
あたしは、ためらいながら・・・左手に力を篭めて直人の手を握り返した。
「もしも、とーこが『さよなら』しても、どんなに離れてても、とーこを見つけるから、だからとーこはそれを持ってて。その音を頼りに、絶対に、辿り着くから。」
右手を持ち上げられて、そっと指を開かされた。
握り締めていたガムランボールが星を映す。
初恋はあまりに身近であまりに当たり前で。
息をするより簡単だった。
でも、どんなに好きでもあなたは振り向いてはくれなかった。
だけど、苦しくて切なくて、あたしが捨てたはずの気持ちをいつの間にか捕まえていた。
手を離してしまったから、失いかけた気持ち。見失ってしまった気持ち。
お互い、手を伸ばすことを躊躇ってしまった。
でも、今。
繋がれた手から流れ込む、あなたの気持ち。
あたしは夜空を見上げた。
一斉に輝きを増したような星たちの光が、あの日舞い落ちてきた雪のようにあたしたちに降り注いでいた。
「・・・向こう行っても、この空は繋がってるから」
ペルセウスから、流星が放たれる。
あたしは願いでなく、想いを口にする。
「・・・直人。ずっと、好きだったよ。」
好きという気持ちを、素直に口にしたのは初めてだった。
悲しい気持ちでなく、ただ想いを。
「好き」
呟いた声に、直人の掌が震えるのがわかった。
「・・・もう、失ってしまうと思った」
直人のこんな言葉は、初めて聞いた。
「直人でも不安になることがあるのね」
あたしが言うと、直人は苦笑した。
「・・・今は、何もかも不安だよ」
「あたしも、嬉しいけど、怖いよ」
幼い恋は、きっと通過点でしかないのかもしれない。
いくつもの心を傷つけてしまった。
それでも、この恋を始めても許されるのかな?
また、一つ。
星が流れる。
流れていく星に「さよなら」と呟いた。
あたしを励ましてくれた、優しい星たち。
今度は、誰かの願いを叶えてあげて
刹那に願う、精一杯の願いを
やがて、缶ジュースを手にした有菜と関君が笑顔で戻ってくる。
まだ笑顔はぎこちなかったけど。
あたしたちは久しぶりに手を繋いで歩いた。
その真ん中に、ガムランボール――雪の中から拾い上げた、あたしたちの流れ星――を握り締めて。
2007,11,5