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7月7日

催 涙 雨 −3−
−2年後の織姫−








『仕方ないの!まだ好きで、愛しくて、翼の事だけが、好きなんだもの・・・!』

びくっと体が強張り、私は自分の叫び声で目が覚めた。
「大丈夫ですか?」
キャビンアテンダントが心配そうな顔で私を覗きこみ、「何か飲み物でもお持ちしましょうか?」と小さな声で囁いた。
極力灯りの落とされた機内はシンと静まり返り、時折咳払いが聞こえるほかは話し声なども聞こえなかった。
私は頬が熱くなるのを感じながら「大丈夫です」と答え、隣に視線を移す。
ヘッドフォンをつけている同年代と思しきビジネスマンは、小さく寝息をたてていた。
ほっとしながらも「私、声出してました?」とはっきりした顔立ちの、私より少し年下と思われる女性に訊ねた。
彼女は接客のプロらしく完璧な笑顔を見せて「いいえ、うなされていただけですわ」と頭を下げて立ち去った。

私は小さく息を吐いて、額に浮かんでいた汗をポケットタオルで拭いた。
夢を見たのも久しぶりだった。
ちらりと時計を見る。
空港を飛立って、まだ3時間だ。




私が放った言葉は、艶君には受け入れがたいものだったのだろう。
いつまでも過去に縋る滑稽な女に思えたのかもしれない。

「例えもう会えなくても、私にとっては今も一番大切な人なの。笑われようが、呆れられようが、心は翼から離れたがらないの。」
私が続けた言葉に、艶君は小さく首を振った。
「兄さんが聞いたら」
「"いい加減にしたら?"って溜め息つくわね」
即座に思い浮かべ、苦笑した。

・・・つまりは、そういうことなのだ。
何をしても、何を考えても、彼に繋がる。
まるでそこに居るかのように、私の頭の中には変わらずに彼が存在しているのだ。
否、私がそう願っているんだわ。
だって、翼は夢にも現れてくれない。

艶君は憐れむように私を見下ろして「冴実さん」と咎めるように名前を呼んだ。
ああ、声も似ているんだ。
そんなことを思いながら、「さえ」と私を呼ぶ翼の顔を思い浮かべた。
それだけで、きゅんと胸が痛む。
今でも、好きで好きで、仕方がない。
泣きたくなるくらい、愛しくて仕方ない。

「自分の兄貴だから、貴女が変わらず好きでいてくれることは・・・ありがたいと思うけれど」
艶君はそう言って、私から視線を逸らして苦虫を噛み潰すような顔をして首を振った。
「あまり感心しません。」
「嫌な気持ちにさせてしまったなら・・・ごめんなさい。」

艶君の気持ちを考えると、迷惑をかけるつもりじゃなかったけれど、やっぱり気分のよくないことだったよね、と反省した。
翼が生活していた場は、そのまま彼の命を奪った土地でもあって。
肉親でもない私がわざわざ渡米してまでここに・・・命日に訪れるのは・・・やはり複雑な気持ちにさせてしまったのだろう。
結婚していたわけでも、ない。
私は艶君の心の中に土足で上がりこんでしまったのかもしれない。
彼だけが、ここで最期の翼に相対したのだから――。

「謝って欲しいわけじゃ・・・」

艶君はそう言うと、大きく深呼吸して私を見つめた。
再びぶつかった視線からは、戸惑いはあったものの憐れみの色は消えていて私は少しほっとした。
何かを私の瞳の中に探している、そう感じたけれどそれがなんなのかはわからなかった。

「この近く・・・兄さんがよくハッピーを連れて行っていたという公園があります。・・・行ってみますか?」
「え!本当?」

思わず艶君の腕に飛びついてしまった。
勢いでバランスを崩した私を艶君が抱き止めた。
眼鏡越しの瞳がすぐ近くに迫り、私は息を飲んだ。
咄嗟に私を抱えるようにして支えながら、艶君も同じように息を飲んだのがわかる。
私たちは束の間、まるで時間が止まってしまったように見つめあった。
艶君には抱き止めてもらってばかりだ。
一番の悲しみの中で、この腕に抱きとめられていた感覚が急速に蘇る。

"危なっかしいね"
翼の呆れたような笑顔が浮かび、思わず掴んだ腕に力を入れた。
この腕は、翼の腕じゃないのに。
違うのに、安心してしまうのは・・・。
そんな私の混乱する心に気がついたかのように、艶君は慌てて腕を引いて、私も掴んでいた腕を離した。

「・・・僕は今日一日オフなんです。偶々シアトルまで出張だったので、ここに来たんですよ。兄さんを偲びに・・・。」
彼はそう説明して「どうしますか?」と訊ねた。
私はこくりと頷き、「ご一緒してもいい?その、イヤじゃなければ」と小首を傾げた。
艶君は肩を竦め「嫌なら誘いませんよ」と皮肉な笑顔を浮かべて歩き出した。

そうして一日、私は艶君と過ごした。
それは不思議な感覚だった。
まるで3人で休日を過ごした昔に戻ったようだった。
太陽の下、緑の中で過ごしたことなんてなかったのに、翼のマンションでほんの数回食事を一緒に摂ったりしただけだったのに、何故かとても懐かしかった。
翼も私も忙しかったから、こんな風に公園をのんびり歩くことがなかった。

私たちは、ほとんど言葉も交わさなかった。
それでも、妙な安堵感が胸に広がり、私はとても満たされた。




機内の空調は快適で、私はいつの間にか倒されていたシートに再び体を預けた。
久々に見た夢が、艶君の言葉を遮るものだったことに苦笑した。
それでも、ずっと言葉にせずに、胸に秘めていた想いだった。
誰に何を言われても、私は曖昧にわらったりして、あんなにはっきりと気持ちを表に出したのは久しぶりだった。

好きで、好きで。

今でもそれは変わらない。
なのに、久しぶりに見た夢にも、やっぱり翼は現れはしなかった。
「偶には、夢に出てきて相手してよ・・・」
拗ねて唇を尖らせながら、私は翼の声を懸命に思い浮かべる。

"さえ"

右手の薬指がじりっと熱く感じた。

"さえ、愛してるよ。"

私はそっと胸に手をあてた。
最期に、私に会いに来てくれた・・・翼の言葉。



『あの兄さんが、どんな顔でその指輪を選んだんだろうね?』
別れ際、艶君がぽつりと呟いた。
彼が見つめたのは、私の指先。
どこか寂しそうなその瞳に、私は胸がツキンと痛んだ。


「・・・どんな顔してたの?」
訊ねてみても、翼は答えてくれない。
私はまた苦しくなって、目を閉じた。
私も想像できないわ。
照れてた?それともいつもと一緒?


『もう・・・会うこともないと思うから』
艶君が、静かに告げた。
日本に戻る私と、またシアトルに飛ぶ艶君。
私たちは、ここでお別れだ。
『兄さんは、非生産的な感傷は苦手だったよ。・・・だから、もう、こんなことはやめた方がいい』

多分、そう言われるだろうと思っていたから、私は素直に頷いた。
もう、ここに来る事はないと思う。
十分に感じる事が出来た。
翼の見た風景、翼がここに居たという・・・過去。

私は艶君を見上げて『心配してくれてありがとう』と笑った。
最後くらい、笑顔でいたいと思った。
彼はまた複雑な表情を浮かべた。

『もう会うこともないと思うから』と、今度は私から切り出した。
『・・・翼は今の艶君見たら怒ると思う。ちゃんと食事摂ってる?睡眠、足りてる?私たちの仕事もそりゃハードだけれど、艶君働きすぎよ・・・』
彼の顔色はどこか冴えず、時折見せる酷く疲れた表情が気になった。
私に付き合う事でそんなに辛そうなのかとも考えたが、どうやら違う。
目の下の隈が何よりの証拠。
私の言葉に、艶君は口元を歪め『兄さんはそんなこと言わないよ』と苦笑した。
『僕なんかより、よほど無理する人だったんだからね』
確かにそうね、と私は笑った。
艶君も微笑んだ。


それから私たちは無言で頭を下げて別れた。
言葉が見つからなかった。
私たちは互いに背を向けて歩き出した。
けれど、多分同時に振り向いた。

『ありがとう』
『ありがとう』

同時に言ってまた頭を下げた。
私が言った「ありがとう」と、彼が言った「ありがとう」は同じ言葉で違う意味合いを持つ。
ここに来た理由が、翼を想ってのことであっても、胸に迫る感情を共有することがないのと同じように。

だから心の中でその後を続けた。

貴方が翼の弟でよかった。
こうして一緒に過ごせて嬉しかった。


* * *


その後訪れた眠りにも、翼は現れてくれなかった。
ただ、夢の中で、私はひとり夜空を見上げていた。
もうすぐ、七夕。
2年前、天の川を越えて、翼が逢いに来てくれた。

あれが最期。

私の彦星は、もう降りてきてはくれない。
星に留まり、ただ私を見守るだけ――



降り立った成田の空は鉛色だった。

梅雨明けは、まだもう少し先。
昨年も雨だった。
だから翼は逢いにこれなかったんだろうか?
今年の七夕も雨なのだろうか・・・?









2008,7,9






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