第68章 第19代/允恭天皇 いんぎょうてんのう (1)
仁徳天皇と うわなりいじめ が強い皇后・石之日売の命 いわのひめ の四人の御子 「うわなりねたみ」
長男・伊邪本和気の命 いざほわけのみこと は 17代/履中天皇 りちゅうてんのう に即位した。
次男・墨江の中津王 すみのえのなかつみこ は 兄・履中天皇に謀反を起こし 殺害された。
三男・水歯別の命 みずはわけのみこと は 18代/反正天皇 はんぜいてんのう に即位した。
四男・男浅津間若子の命は 19代/允恭天皇 いんぎょうてんのう に 即位した。
つまり 第17代天皇も 第18代天皇も 第19代天皇も 皆 仁徳天皇の実子が 王位継承したのでした。
仁徳天皇が偉大な天皇といわれる 所以 ゆえん が このところにも あるのです。 「仁徳天皇の御子」
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実兄・反正天皇が崩御された後 宮中にて 次期天皇の選考会が開かれました。
この選考会では 満場一致で 四男・男浅津間若子の命が 19代天皇に即位することが 決定された。
だが 「私は 病弱で長患いのため 辞退します」と 本人自ら 皇位を辞退されたのでした。
その後 母・石之日売の命や 卿 まえつきみ (直近の家臣)の熱心な勧めの結果 天皇に即位されました。
第19代/允恭天皇 いんぎょうてんのう は 飛鳥 あすか の宮で 天下を治められました。
允恭天皇の即位式には 新羅 しらぎ の国王 こきにし が 八十一艘の豪華な船を 奉納 ほうのう しました。
この奉納式には 漢方薬の権威 金波鎮漢紀武 こむはちにかにきむ が大使の役を務めた。
この金波鎮漢紀武は 允恭天皇に漢方薬を投与して 病を癒やした人物です。
天皇は この漢方薬のおかげで 健康な身体に回復しました。
允恭天皇の后忍坂大中姫命の名代として設定され忍坂部が正字とされる
☆ 允恭天皇御子 は九柱
允恭天皇の皇后は 15代/応神天皇の孫の妹で 大中津比売 おおなかつひめ です。
この天皇の御子たちは 皆 美男・美女と評判高い御子ばかりでした。
とくに 兄・軽の王 かるのみこ と 妹・軽の大郎女 かるのおおいらつめ の二人は 絶世の美男と美女と誉れ高い評判で
国中の誰もが口々に語り合うほど 民衆に知れ渡っていました。
だが この二人は 不義密通 ふぎみっつう の関係にあったのです。 アヤヤ!それはダメでしょう‥‥‥ボサツマン
あるとき その事実が宮中に露見 ろけん しました。 それで 兄・軽の王は 皇位継承から外されたのでした。
そして 弟・穴穂の命 あなほのみこと が 第20代/天皇に即位された経緯がありました。 【次のページで詳しく】
御子は ほかに 黒日子の王 くろひこのみこ 白日子の王 しろひこのみこ 大長谷の王 おおはつせのみこ がおりました。
のちに この大長谷の王が 兄・黒日子の王と白日子の王の二人を 殺害してしまう事件が起きた。
允恭天皇の功績: 氏・名の乱れを正した
この頃 天下の氏うじや名なに混乱が起きていて 氏姓 うじかばね の重複や誤りが多く起きていた。
そこで 允恭天皇は 甘樫 あまかし の丘の言八十禍津日の前 ことやそまがつひのさき に くか瓮 くかへ の釜を据えて
「盟神探湯」 くがたち の儀式を行い 八十禍津日の神 やそまがつひのかみ に相談をしました。
「八十禍津日の神」は 遡さかのぼ ること神代 かみよ の時代 伊邪那岐 いざなぎ の神が 黄泉の国 よみのくに から戻って
小戸おど の阿波岐原 あわぎはら で禊 みそぎ を行い 黄泉の国の穢れを祓い身を清めた時に生まれた神です。
この神は 言葉の嘘がもたらす禍 わざわい を糺ただ すの霊力を担当する神です。 「禊で生まれた神」
「盟神探湯」くがたち は 熱湯に手を入れて神による正邪の判定を行う儀式。 「盟神探湯を行う神社」
心に嘘や偽りが有る人は 火傷を負い即刻手が爛ただ れ 嘘や偽りが無い人は 無傷で終わるのです。
この盟神探湯 くがたち は 「神盟裁判法」ともいわれる。
御名代 みなしろ
御名代とは その人の名を後世に残すためにつけた私有民をいう。
御名代 みなしろ を最初に制定したのは 第16代/仁徳天皇 にんとくてんのう です。
允恭天皇は 御子・絶世の美男子 軽の王 かるのみこ に 軽部 かるべ の御名代を与えた。
また 皇后・大中津比売 おおなかつひめ の御名代を刑部 おさかべ と定め 大后の妹の御名代は 河部 かわべ と定めた。
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