第60章  第16代/仁徳天皇記(1) 
 第15代/応神天皇のご逝去せいきょ 後 応神天皇が生前に 次の世継ぎに指名していた和紀郎子の命
 
第16代天皇として即位しないまま 早く夭逝ようせい してしまいました。
  そこで
和紀郎子の命の兄大雀おおさざき の命第16代/仁徳天皇にんとくてんのう として即位した。
  仁徳天皇は 難波の高津の宮(大阪市中央区)にて 天下を治めていました。
  皇太子時代
  仁徳天皇が 皇太子だったとき 髪長比売かみながひめ と結婚し「豊明りの宴」を開きました。
  そして 生まれた子が
大日下の王 おおくさかのみこ 若日下の王 わかくさかのみこ
  この大日下の王 若日下の王第20代/安康天皇記に登場してきます。         「大日下の王死す
 
大日下の王 のちに 安康 あんこう 天皇の家臣根の臣 ねのおみ 讒言 ざんげん により 殺害されてしまった。
  大日下の王は安康天皇の伯父おじ なのですが 天皇の部下の讒言ざんげん で殺害されたのでした。

 
実は 第19代/允恭天皇も大日下の王も 第16代/仁徳天皇の子ですので
この二人は兄弟になります。
  そして 允恭天皇の息子が 第20代/安康天皇です。
  だから
第20代/安康天皇大日下の王は 叔父甥の関係です。
   ー讒言とは 人を陥れる目的で 偽りを言うこと
  仁徳天皇皇后 
   仁徳天皇の
皇后は 葛城の石之日売
いわのひめ の命この二人に生まれた御子
   伊邪本和気の命
 いざほわけのみこと   この命みこと 17代/履中天皇 りちゅうてんのう に即位した。
   
墨江の中津王 すみのえのなかつみこ   この命みこと 履中天皇謀反を企てた水歯別の命が成敗した」。
    水歯別の命   みずはわけのみこと     この命みこと 18代/反正天皇 はんぜいてんのう に即位した。
   
男浅津間若子の命 おあさつまわくこのみこと  この命みこと 19代/允恭天皇 いんぎょうてんのう に即位した。
  このように 皇后石之日売 いわのひめ の命の子 三人が 171819代の天皇に即位しました。
   また 八田の若郎女 わきいらっこ  宇治の若郎女 わきいらっこ 仁徳天皇の
きさき だが 御子はおりません。
          でも 仁徳天皇の子が 三人も天皇になったとは 仁徳天皇が偉大だったということですよね ……ボサツマン
 御名代 みなしろ
 御名代
みなしろ とは その人の「御名みな 」を残す目的で 天皇が定めた直属の私有民をいう。
 仁徳天皇がはじめて 御名代
みなしろ を制定した天皇です。
 皇后石之日売の命御名代は 葛城部かつらぎべ  伊邪本和気いざほわけ の命 壬生部みぶべ
 水歯別の命 みずはわけのみこと 蝮部たじひべ
大日下の王は 大日下部
おおくさかべ 若日下部わかくさかべ の名。
 土木工事  仁徳天皇は 難波の国土整備や開発を 積極的に行なった天皇です。
 仁徳天皇は 技術をもつ渡来人 秦氏
はたし を使い 土木開発を積極的に行ないました。
 ”茨田
まむた ”の堤防をつくり 茨田に”屯倉みやけ を造った。     (茨田まむた は今の寝屋川市あたり)
 また 難波の地区に 海まで通した堀を 掘って海と河をつなぐ交通網を確保した。
 また 丸邇の池 依網の池などをつくり 生活環境の整備を行った。
 さらに 小椅の江
こばしのえ (大阪市天王寺小橋町)に堀を作り 墨の江の津(港)も 造った。
 聖の帝 ひじりのみかど 
 
仁徳天皇は いつも言祝いことはぎ ーを行い 国の豊かな稔りや 民の幸せを祈り願っていた。
 ある日 天皇は 高い山から国中を見渡して
 
国内に煙が立ち登っていないのは 民が皆 貧しく窮乏しているからだ。今後三年間人民の税を免除すると決断しました。
  ちなみに 最初に税の制度を創ったのは 崇神天皇
すじんてんのう です。         「崇神天皇/税制度の確立
 税の収入が減ると 天皇の宮の修理する予算も 当然 減らせねばなりません。
  天皇の宮は あちこちから雨漏りして 破れ壊れてきても 漏る雨を木の箱で受けていたり あるいは
  まだ雨漏りが少ない場所に移ったりして 人民の負担の軽減を優先して 暮らしておりました。
 
仁徳天皇自ら節約を実行して 人民に手本を示した立派な天皇でした。
  やがて 国内には炊事の煙が ここかしこにと 立ちのぼりはじめ 民の暮らしが良くなってきました。 
  再び 高い山から国見をしたところ 国中には 炊事の煙が 満ち満ちておりました。 
   よかったボサツマン
  この後に 課税を復活させましたが 人民からの不満の声は無く 皆 天皇を
褒め称える声ばかりでした。
  世の民は皆
仁徳天皇の時代を 聖の帝の世 ひじりのみかどのよ ーと呼び 褒め称えていました。
                                                
  このように 人民思いの決断力と行動力を兼ね備えた 立派な仁徳天皇でした。       「うわなり討ち
  だが こんな立派な天皇にも 大きな悩みがありました。
  その悩みとは
石之日売いわのひめ の嫉妬心が強過ぎたことです。
 
つまり 皇后の
うわなりねたみつまり 後妻への妬ねた みが 激しかったのでした。
     
       うんうん 男同志のオイラには天皇の辛さわかる モテル男はいつの時代も 辛いのさ …… ボサツマン

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