第72章 第21代/雄略天皇(1) ゆうりゃくてんのう
安康天皇が崩御した後 安康天皇の弟で允恭いんぎょう 天皇の子である大長谷の王 おおはつせのみこ が
第21代/雄略天皇として 即位された。
雄略天皇は 長谷の朝倉の宮(桜井市)にて 天下を治められました。
この大長谷の王が雄略天皇に即位する以前 当時の天皇の兄・安康天皇は 弟・大長谷の王の嫁に
第16代/仁徳天皇の娘で 大日下の王の妹・若日下の王 わかくさかのみこ を 所望されていた。
だが 若日下の王の兄・大日下の王は 安康天皇の家臣・根の臣ねのおみ の「讒言事件」で殺害された。
後 大長谷の王おおはつせのみこ は 雄略天皇に即位した後 大県主おおあがたぬし から献上された白い犬を
若日下の王へ直々に送り皇后に迎えました。 この二人には 御子は産まれませんでした。
また 大長谷の王は 過去において 自害した都夫良意富美つぶらおおみ の娘を妃にすると約束していたので
その約束を守り 都夫良意富美の娘 訶良比売からひめ も 娶めと りました。
この訶良比売からひめ の子は 白髪の命しらかのみこと 若帯比売の命わかたらしひめのみこと の二柱の御子。
そして 白髪の命が 次の第22代/清寧天皇せいねいてんのう に即位された。
雄略天皇は 白髪の命の御名代みなしろ を 白髪部しらかべ と制定した。 「御名代」を最初に定めたのは 仁徳天皇。
また 雄略天皇は 舎人とねり や呉原くれはら を制定した。
舎人は殿入りの略で 天皇・皇族の近くに仕える職で 長谷部はつせべ の舎人 河瀬かわせ の舎人を定めた。
呉原くれはら とは 呉の国の人 つまり 渡来人の呉人くれひと 等の住まい。
呉原の名の由来には 中国の呉の国 高句麗の国 朝鮮半島以外の諸外国の三つの説がある。
天皇の宮殿・御舎みあらか に似た家
ある時 天皇は国見くにみ を行うため 日下の道を通って河内方面に 出かけていきました。
山の上から遥かに国を望むと 鰹木かつおぎ を屋根に上げて作った家を見つけて 激怒した。
「こやつめ おのが家を 天皇の御舎みあらか に似せて作るとは 何ごとじゃ ふてぶてしい奴だ」。
その家の主人あるじ 大県主おおあがたぬし は 雄略天皇のお怒りを恐れ 平謝りして許しを請いました。
「まことに申し訳ございません 気づかないで建てたとはいえ 大変 失礼いたしました。
お詫びのしるしに 贈り物を献上させて頂きますので なにとぞ、お許し下さいませ」。
なにせ 大長谷の王(雄略天皇)は 暴れたら手がつけられないからね‥‥‥ボサツマン
その大県主おおあがたぬし は 白い大きな犬に豪華な布を掛けて 大きな鈴を首に付けて
犬の係りの腰佩こしはき という者に 犬の縄をとらせて献上しました。
その犬をおおいに気に召された雄略天皇は 大県主の非礼を 許しました。
この犬が 若日下の王わかくさかのみこ への結納の品として送られたのでした。
若日下の王は
「まあ!実に 嬉しいことでございます。さっそく 私から参上し お仕え申しましょう」と 結婚を受諾しました。
若日下の王が 皇后になられたのには このような経緯がありました。
ちょっと待った。そんな理不尽りふじん な話はないです。 自分の兄を殺害した人の弟と 結婚したというのですか?
奥様婦人のふじんじゃないですよ 理不尽のふじんです。 スイマセンつまらない冗談で!……… ボサツマン
ここで 人間関係を振り返ってみましょう 「仁徳天皇の御子」:「允恭天皇の御子」
第19代/允恭天皇いんぎょうてんのう の二人の子供のうち 兄が第20/代安康天皇で 弟が第21代/雄略天皇です。
雄略天皇の皇后・若日下の王とその兄・大日下の王は この允恭天皇と母違いの兄弟なのです。
つまり 大日下の王は 安康天皇と雄略天皇/二人の天皇の 義理の伯父おじ になります。
当然 大日下の王の妹・若日下の王は この両天皇の 義理の伯母おば の立場なのです。
と云うことは つまり 第21代/雄略天皇は 伯母の若日下の王を皇后に迎えたのでした。
まあ ここはしかたないとしても どうしても スッキリしないことは
安康天皇が 伯父の大日下の王を殺害し そして 殺害した伯父の妻を自分の妻にしたなんて……まさか!
ま〜 まさか かも知れないけど オイラの読み違えか 又は 記述の間違いなのか
う〜ん 理解できねえ〜 スッキリしない ‥‥‥ ボサツマン
第73章へ 男というやつは、ほんまに 困ったもんだ