観普賢菩薩行法経 (23)
  世尊
 「衆生たちよ 真の懺悔を実行した後に 他の衆生の仏性を引き出す決心をして 慈悲の行を実行してこそ
  はじめて
その衆生は本当の仏の子となる ということを しっかりと理解しなければなりません。
  すると
その衆生の和上わじょう の役を
十方の諸仏や菩薩が自みずか ら勧すす んで引き受けるのです。
  これは
真実なのです。
  この真実を理解し
菩薩戒を身に具えようと願う衆生に
諸仏が次の言葉を三度念ぜよ と説いてきます。
  諸仏世尊は常に 世に住在じゅうざい したもうなり 我われ 業障ごうしょう の故に 方等ほうどう を信ずといえども 
  仏を見奉ること了あきらか ならず 我今 仏に帰依きえ し奉る
  唯 願わくは 釈迦牟尼仏正遍知世尊しゃかむにぶつしょうへんちせそん  我が 和上わじょう なりたまえ
  文殊師利具大悲者もんじゅしりぐだいひしゃ 願わくは 智慧を以って我に 清浄の諸々の菩薩の法 授けたまえ
  弥勒菩薩勝大慈日みろくぼさつしょだいじにち 我を憐愍れんみん し 我が菩薩の法を受くることを 聴き許 したもうべし
  十方の諸仏 その身を現じて 我が証あかし と為りたまえ
  諸々の大菩薩 各々おのおの 名を称して 是の勝大士しょうだいじ  衆生を覆護ぶご  我を助護じょご したまえ
   今日こんにち 方等経典ほうどうきょうてん を 受持したてまつる
   乃至
ないし 失命しつみょう  たと 地獄に落ちて無量の苦を受くとも 終つい  諸仏の正法しょうぼう を毀謗ぎぼう せじ
  是の因縁いんねん 及び 功徳力くどくりき を以って 今 釈迦牟尼仏 我が和上となりたまえ
  文殊師利もんじゅしり  我が 阿闍梨あじゃり  なりたまえ
  当来とうらい 弥勒菩薩よ 願わくは 我にを授けたまえ。 十方の諸仏 願わくは 我を証知しょうち したまえ
  大徳だいとく の諸々の菩薩衆 願わくは 我がばん となりたまえ
  我 今 大乗経典甚深じんじん の妙義みょうぎ に依って 仏に帰依 法に帰依 僧に帰依すと

 言葉の意味を説明をしましょう、
  我が証
あかし と為りたまえ 願わくは我を証知しょうち したまえ というのは
  
私がこの誓いを実行できるかできないかを 証人としてご覧になっていてください という意味です。
  
勝大士しょうだいじ とは すぐれた大士だいし つまり 菩薩のことです。
 阿闍梨” とは 受戒の儀式のとき 和上の助手を務める役のこと。
  
地獄に落ちて無量の苦を受くとも
 つい に諸仏の正法しょうぼう  毀謗ぎぼう せじ というのは
  まかり間違って 地獄に落ちるようなことがあっても 仏の正法をそしりません という意味です。
  正法を信じて地獄に落ちることは 万が一にもありませんが たとえ そんなことがあったとしても
  あくまでも自分は
仏の正法を信じますという 純粋な信仰心を述べた言葉です。
  純粋な信仰の心をもつ衆生は
そのままで 救われるのです。 これぞ 真の信仰なのです。
  だが 衆生の多くは 自分の過去世の宿業しゅくごう が深いが故 信仰の功徳が急に現われてこないと すぐ
  
神も仏もあるものかなどと 謗法
ぼうほう の言葉を吐くのです。これは 自ら救いの手綱を離す行為なのです。
  私
(世尊) 譬諭品(5)にて 14謗法ぼうほう  仏罰ぶつばつ を説きました。
 当来の弥勒菩薩よ‥‥法を授けたまえ
というのは
  未来世に
仏に代わり娑婆世界で法を説く弥勒菩薩みろくぼさつ に対し 法を授けくださいという願いです。
 我が伴
ばん となりたまえ というのは 信仰の道連れとして自分を指導してくださいという意味です。
 そして最後は 仏/法/僧の三宝に 帰依することを誓いなさい という意味です」。
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