世尊
「摩訶迦葉よ、長者窮子の譬えをよく説いてくれました。 私はたいへん嬉しく思います。
皆さん、この譬え話にある窮子ぐうじ とは、この世を苦しみ悩みながら生きている凡夫のことです。
父が仏ほとけ であると知らない窮子は、父のふところから逃げ出して 苦の人生を放浪しているのです。
今、四人の声聞しょうもん たちは、自分たちも窮子と同じ程度の凡夫だった、と反省の弁を述べたのです。
衆生は皆、仏性をもっているから
現世の苦界を放浪しながらも必ず皆、親子関係である仏(父)の元へ、ひとりでに歩み戻るのです。
これは、仏 ほとけ の子だから当然のことなのです。
五濁の悪世 ごじょくのあくせ を生きる衆生は、仏の門に入ることが良いのです。 「
すると、生きる希望が湧き、明るい人生を歩んでいけるのです。
衆生は 仏の門の前まで辿り着いているのだが、父が仏であるとは まだ気づいていないのです。
しかし、仏は、わが子ということを ちゃんと 知っておられます。
真理は、この世のすべてに遍満へんまん しているので、仏はいつも、衆生のそばにおられるのです。
そして、衆生が仏を見つけて、喜び近づいてくることを 仏は忍耐強く待っているのです。
衆生が仏を見つけるには、仏を求める心の波動のスイッチをONするだけなのです。 「仏のチャンネル」
衆生は、なぜ仏に背を向けているのか?
仏は常に、衆生を真理の世界へ導く努力をしていますが、その教えの程度があまりにも高いので
とても自分ごときが近寄れるものではない、という卑屈な考えが衆生には有るのです。
これが、衆生が仏に背を向けている理由なのです。
そこで、この譬え話にあるように、
仏は、衆生と同じ姿の衆生を教化できる人間を二人、方便として息子のところへ使いに出したのです。
二人の人間とは、心の安定を得ている 「声聞と縁覚」 しょうもん・えんかく のことです。
衆生はこの二人と会うと、なんだ、この人たちは自分と同じ人間だと思うので、安心するのです。
この譬えの中にある、糞あくた を除く仕事とは、煩悩を除く小乗の修行のことです。
また、縁覚えんかく は、辟支仏びゃくしぶつ ともいいます。
仏は、糞を除く仕事=小乗の修行をさせながら、衆生を仏の教えに引き上げようとしますが、
衆生は、自分とは無関係な別の世界の教えと思いこんでしまい、近づいてきません。
だから父(仏)は、20年もの長い間、息子(衆生)に小乗の教えを、修行させていたのです。
この譬えにある、長い間 ー糞をとり除いていた息子ーとは、仏の直弟子・四人の声聞たちのことです。
四人の声聞、すなわち、 「仏の十大弟子」
須菩提しゅぼだい 迦旃延かせんねん 摩訶迦葉まかかしょう 目健連もくけんれん の弟子たちも、
他の衆生と同じく、仏の教えによって心の自由自在を得て 仏の道に広く通じていくのです。
そして、いよいよ仏は入滅される直前に、法華経を説くのです。
つまり、ー仏と衆生は親子であるぞ、一切衆生は仏になれるのだぞーと、大宣言する場面になって、
ようやく息子は、ーああ、そうだったのかーと気づいたので、思いもよらない財宝(仏の悟り)を得たのです。
ここではじめて、衆生(息子)は、仏の大慈悲を理解したので、大歓喜 だいかんぎ に震えたのでした。
つまり、この譬えで説いていることは、
四大声聞の長い修行をじっと見守って、教化してきた仏の慈悲と方便の姿なのです」。
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世尊
「未来の衆生たち(現在の私たち)が、法華経に出会うことは、本当に幸いなことなのです。
法華経に出会う未来の衆生は、真っすぐに仏のふところへ 飛び込むことが出来るのです。
法華経を学ぶ未来の衆生は、この四人の声聞たちが行なった長い修行を、経験しなくてもいいのです。
つまり、廻り道をしなくても、仏の悟りを得ることができるのです。
では次に、未来に衆生のために、その必要なー心がけーを、説きましょう」。
つづく 必要な心がけ